139話
※前半3人称視点です
その日も、一見すると平和に見えていた。
しかし、外務大臣の来日が翌日に迫り、ホテル全体の空気はいつもより緊張感があった。
ロビーには豪華な花が飾られ、磨き込まれた床は照明を反射している。
支配人や警備チームは会議室にこもり、最後の打ち合わせを続けていた。
「動線は徹底的に分けろ。エレベーターへの誘導の再確認だ」
「SPの到着タイミングに合わせて、ロビーの一般客の流れを制御する」
扉の外に立つだけで、中から張りつめた声が漏れ聞こえてくる。
バックヤードでは警備主任がスタッフを前に短く言い切った。
「明日は絶対にイレギュラーを起こさせるな」
その低く鋭い声に、大臣の安全を守るという一点に全神経を注いでいるのが伝わってきた。
――何事もなく予定通り進んでくれればいい。
多くのスタッフがそう願っていた矢先だった。
夕方五時を少し過ぎたころ。
フロント前にざわつきが走った。
黒塗りのバンがホテルのエントランスに横付けされ、スライドドアが開く。
中から次々と長身の外国人が降りてきた。五、六人。
揃いのように濃紺のスーツを身にまとい、表情は無機質で硬い。
彼らがロビーへ一歩足を踏み入れると、周囲の空気が一瞬で張り詰めた。
チェックイン手続きをしていた一般客が思わず振り返り、ソファに座っていたカップルまで息をのむ。
その場に立っていたのは、新人のフロントスタッフの田村だった。
入社半年、まだ二十代前半。
普段は明るい笑顔で先輩に可愛がられているが、想定外の状況に足がすくんでいるのが見て取れた。
それでも彼はマニュアル通りに声を発した。
「Welcome. Are you checking in for tonight?」(いらっしゃいませ。本日のご宿泊でしょうか?)
リーダー格らしき男が一歩前に出て、流暢な英語で答える。
「Yes, do you have available rooms?」(はい、部屋は空いてますか?)
田村の背筋がわずかに強張る。
英語自体は理解できたものの、圧迫感ある雰囲気に気圧されていた。
それでもパソコンで空室状況を確認する。
……確かに、数部屋は空いていた。
「Y-yes… we do have rooms available」(は、はい……ご用意できます)
無意識にそう答えてしまった瞬間、周囲のスタッフが顔を見合わせる。
ロビー全体に、冷たい緊張が走った。
田村は震える手でパスポートを受け取った。
ページを開いた瞬間、上部に刻まれた文字が目に飛び込んでくる。
――RUSSIA
一瞬、動きが止まり、視線も指先も固まった。数秒間ページをめくる指が動かない。
後ろに控えていた先輩スタッフが気づき、小声でささやいた。
「(小声で)ロシアの方みたいだな」
背中を冷たい汗が流れる。よりによって、このタイミングで……。
しかし田村には判断する力がなかった。
余計な詮索をしてはいけないと考え、マニュアル通りに行う。
その動きはどこかぎこちなく、無理に平静を装っているのが明らかだった。
「Could you please sign here? ... Thank you very much 」(サインはこちらに。……はい、ありがとうございます)
淡々とチェックインを完了させ、ルームキーを渡す。
案内したのは四階のフロア。
団体のリーダー格は礼儀正しくうなずき、仲間たちとともに無言でエレベーターへ乗り込む。
無表情のまま、列を崩さず移動する姿は、観光客というよりプロの行進のように見えた。
表面上は何事もなく終わった。だが、背中を見送った後のロビーには、言葉にできない緊張が残った。
フロント裏にいたスタッフまで顔を見合わせ、誰もが落ち着かない様子だった。
* * *
夜に臨時のスタッフ会議が開かれた。
俺もホテルに着いたときに状況は聞かされた。
小会議室に関係者が集められ、田村は硬い表情で立っている。
「あの……部屋が空いてましたし、普通にお客様として……」
おずおずと口にする田村。
久世支配人は額に手を当て、深くため息をついた。
「君の対応は、形式的には間違っていない。ホテルとして、空室があれば受け入れるのは当然だ。だが……このタイミングで……」
苦い表情が場を覆った。
「外務大臣が来る前日に? 偶然か?」
警備主任の低い声に、会議室の空気がさらに重くなる。
俺は心の中で必死に思い出そうとした。
(いやいやいや……これって友好国だったっけ?勝手なイメージだけどなんか揉めてたような……)
国際関係の細かいところまでは、正直自信がない。けれど、このタイミングでの来訪が偶然とは思えなかった。
ただ、表向きは誰も声を荒げない。
田村の失敗を責め立てることもなかった。
問題はすでに起きてしまった。
宿泊客として受け入れた以上、今さら追い返すことはできない。
残されたのは――
「彼らが何者なのか」
「そして明日、外務大臣の滞在にどう影響するのか」
その不安だけだった。
会議室の片隅で静かに座っていた俺は、どうしても気になって口を開いた。
「……この判断、大丈夫なんですか」
声がわずかに震えていた。高校生のオーナーが口を挟むことじゃないかもしれない。けれど、このまま黙っている方がよほど落ち着かなかった。
久世支配人はしばらく黙っていたが、やがて低い声で答えた。
「……現時点では、表面上は問題ありません。だが、この情報は速やかに警察と外務省へ報告します」
すぐに警備主任が携帯を取り出し、日本警察の警護班へ連絡を入れた。
電話口の声が漏れ聞こえる。
『……了解。情報は共有する。四階に割り当て済みとのことだな?』
会話が終わると、主任がこちらに向き直った。
「ロシア人団体は四階。外務大臣は十四階。物理的な距離は十分にある。ただ、動きには細心の注意を払う」
その言葉で一同は小さくうなずいた。
たしかにフロアは十階分も離れている。警護ルートも別だ。
理屈では安全。
けれど、不安が完全に消えることはなかった。
夜、会議を終えてホテルを出た。
街灯に照らされた歩道を歩きながら、胸の奥に重たいものが残っていた。
「……何事もなく済めばいいけど」
思わず独り言が漏れる。
頭を振っても、不安は消えなかった。
ホテルの顔として迎えるのは明日。国家レベルの大仕事が目前に迫っている。
それなのに、余計な火種を抱え込んでしまったように思えてならなかった。
家に帰り着いても、布団に横になっても、瞼は重くならない。
明日のシミュレーションを繰り返しながら、胃の奥がじわじわと痛んでいく。
――ただの観光客かもしれない。
でも、もしそうじゃなかったら?
どちらにせよ、俺にできるのは「準備を整えて待つ」ことだけだ。
そう頭で分かっていても、胸のざわめきは止まらない。
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