133話
登場する国は、モデルはありますが架空の国です
笹塚駅から徒歩2分。駅前の小さな路地にある定食屋の暖簾をくぐった。
昼時を外して来たから、客はカウンターに一人だけ。奥の厨房から、白い割烹着を着た女性が顔を出す。
年の頃は五十代くらいか。雰囲気からして、ここのおかみさんだろう。
「いらっしゃい。ご飯?」
「いえ、あの……すみませーん。僕、高校生で、ここらへんで翻訳のボランティアをしてるんです」
「はあ?」と、ちょっと首をかしげるおかみさん。
「それで、ここのメニューを英語に翻訳してもいいですか? 外国人のお客さんに見せる用です」
その瞬間、ぱっと顔が明るくなった。
「まあ! やってくれるの? ちょっと前にアメリカ人の人が来てね、私、『ミート・フィッシュ・ライス』しか言えなくて困ってたのよ」
「確かにそれじゃメニュー説明はキツいですよね。じゃあ、メニューを見せてもらってもいいですか?」
「はいはい、これよ」
手書きのメニュー表を渡され、俺はデジカメを取り出してパシャリ。
ケータイのは画像が悪かったから、今回はきちんと用意してきた。
「ありがとうございます。来週、英語訳をプリントして持ってきますね」
「助かるわあ。お礼にコロッケでも食べてく?」
「いや、今日はまだ回る店が多いんで……気持ちだけで!」
店を出て腕時計を見る。午後2時ちょうど。
これで今日5件目だ。目標は10件。今のところ、まだ一つも断られていない。順調すぎて、逆に少し怖いくらいだった 。
このプロジェクト(と勝手に呼んでいる)は、先週のそば屋から始まった。
ホテル周辺を見渡せば、飲食店のほとんどが英語表記ゼロ。
観光客が店先でメニューを見て、『……無理だ』と諦める姿が目に浮かぶ。
それは観光地としてもったいないし、ホテルとしても損失だ。
駅前からホテルまでの通りに、ざっと100件近い飲食店がある。
定食屋、ラーメン屋、居酒屋、カフェ……ジャンルも規模もバラバラだが、英語メニューがあるのは1割以下。
週10件のペースなら、数カ月で笹塚グルメの英語化は完成するはずだ。
自分でもちょっとワクワクしている。
将来の観光ガイドに「笹塚は外国人に優しい街」なんて書かれたら、ホテルの株も上がるだろう。
次の店は、駅近の喫茶店にしよう。
マスターが渋くてちょっと怖そうだから、断られる可能性はあるけど、そこを突破できれば勢いがつく。
――よし、チャレンジだ。
* * *
裏手の路地を通ると、見慣れない光景が目に入った。
「あれ、工事してる?」
近づいてみると、店舗のシャッターが半分開いていて、中からガンガンと工具の音が響いてくる。
のぞき込むと、壁紙をはがしている作業員さんが数人。
なるほど、前に言っていたあの空きテナントか。
施設側がスケルトン状態にするために工事をしている。
ここはホテルの真横だし、観光客も使いやすいだろう。
裏手から事務所に入ると、エアコンの冷気が心地よくて思わず深呼吸した。
向かうのはいつもの総務部。
「こんにちはー」
「お、オーナー来たよ」
さて、今日撮った10件分のメニュー画像をパソコンに取り込む。
サイズを整えてテキスト化、英語に翻訳……ここまでは完全にルーチン作業。
作業は慣れたもので、あっという間に片づく。5件分でも1時間かからない。
実は当日に持って行こうと思えば行けるんだけど、それだと「え、こんなに早く?」って逆に適当感が出そうだ。
だから、来週持っていくことにしている。
印刷用のレイアウトまで整えたら、本日の翻訳作業は終了。
「そういや、オーナー。エスティニアの件、聞きました?」
総務部の一人が、雑談ついでにそんな話を振ってきた。
「エスティニア? いや、なんですか?」
エスティニアってバルト三国の1つだったよな。
「この前、外務省の人がうちのホテルを視察に来たじゃないですか」
「ああ、あれ」
「あれ、エスティニアの外務大臣が泊まるからだったらしいですよ」
「えっ……そんな大物が?」
思わず声が裏返った。
「そうなんですよ。外務大臣クラスって、普通は千代田区とか港区の高級ホテルを選ぶんですけどね」
「確かに。なのに、なんでうちなんですか?」
俺の頭の中で疑問符がぐるぐる回る。
そちらの方が永田町にも近いし、空港アクセスも悪くない。それでも、あえて笹塚のホテルを選ぶ理由なんて……。
「詳しい事情はこっちにも来てませんけど、何なんでしょうね」
「ふーん……」
エスティニアはIT立国として有名だ。
俺の予想としては、猫型掃除ロボットや、配膳ロボットを見に来たいんだろう。
「期間は2泊3日だそうです」
「へえ……じゃあ、その間はSPとかも来るんですね」
「そうですね。エレベーターも一部制限する予定です」
ふむ。これはホテル全体の雰囲気がガラッと変わるかもしれないな。
俺もオーナーの立場として、下手なことはできない。
――それにしても、エスティニアか……
なぜ、わざわざここを選んだのか。その理由を知りたいような、知りたくないような……




