132話
ホテルでの仕事を終えて、少し腹が減った。
気づけば足は、笹塚駅の方じゃなくて、裏通りに向かっていた。
――あった。
「更科」と書かれた暖簾がゆらゆら揺れている。
この辺ではちょっとした名店で、俺も何度か来ている。古びた木の引き戸をガラガラと開けると、かつおだしの香りがふわっと鼻をくすぐった。
「いらっしゃい」
奥から顔を出したのは、白髪頭にねじり鉢巻きのおじいさん。店主だ。
今日も元気そうだな。
カウンター席に腰を下ろし、いつもの「天ざる」を頼む。
ここはそばが香り高くてコシが強いし、天ぷらもサクッとしていて油っぽくない。何度食べても飽きない。
湯気を立てながら茹でられていくそばを眺めていたとき、ふと気づいた。
店の壁に貼られたメニュー
……全部、日本語だ。
――英語のメニュー、ないよな。
まあ、考えてみれば当たり前だ。
おじいさんと奥さんの2人でやってる店だし、外国語対応なんて大変だろう。
でも、うちのホテルには一定数の外国人観光客が泊まっている。もし彼らがこの店に来たら、きっと苦労するはずだ。
そばを指差して「This!」で済ませられる人ならまだいいけど、冷たいそばと温かいそばの違いも説明できなかったら……たぶん混乱する。
そばつゆを全部飲んで「塩辛い!」とか言われても困るだろうし。
――あ、そうか。俺が翻訳すればいいだけじゃん。
ホテルの外国人客が、近所で快適に食事できるようにするのも、オーナーの仕事……かもしれない。
……まあ、単に俺がそば屋を便利にしたいだけかもしれない。でも、それだって悪くない。
「おじさーん!」
厨房の奥に向かって声をかける。
「ん、なんだい?」
顔を出したおじいさんは、湯切り中のそばを片手で押さえている。
「最近、外国人観光客多いじゃないですか。だから、このメニュー、俺が英語にしてもいいですか?」
「お、英語ができるんか」
おじいさんの眉がぴくっと動いた。
「ええ、できます」
まあ、ChatGPTを使ってなんだが。
「そりゃ助かるよ。前に外人さんが来たときも困ったんだ。何を食べたいのか分からなくて、結局『ざるそば』しか出せなかったよ」
やっぱりそうか。観光客が増えれば、こういう場面は必ず出てくる。
「じゃあ、写真撮らせてもらっていいですか? 翻訳して、印刷して持ってきます」
「おお、よろしく頼むよ。お礼は……そうだな、そば一杯サービスだな!」
「やった!」
報酬がそば。悪くない取引だ。
俺はポケットからケータイを取り出し、メニューをパシャパシャ撮影する。
この店はそば屋らしくメニュー数は少ない。もり、ざる、天ざる、かけ、天ぷらそば、それに丼物が数種類。
これなら英訳もすぐ終わるだろう。
撮影が終わって席に戻ると、ちょうど天ざるが目の前に置かれた。
つやつやしたそばと、黄金色の海老天。思わず唾を飲む。
「じゃ、いただきます」
冷たいそばをつゆにくぐらせ、一気にすすり込む。のど越しが最高だ。
* * *
そば屋を出て、そのままホテルへ向かう。
昼のロビーは、出発する客とチェックイン前の客がちょうど入れ替わる時間帯で、静かすぎず騒がしすぎず。
観葉植物の横では、機械コンシェルジュを使っている観光客の姿が見えた。
業務用エレベーターで2階へ。総務部のあるフロアは、フロントや客室と違って空気が事務的だ。
ドアを開けると、奥に仕切られた打ち合わせスペースが見える。ガラスのパーティションで囲まれ、外からでも中の会話の真剣さがなんとなく伝わってくる。
「どうぞ、こちらです」
案内された椅子に腰を下ろすと、安藤さんがファイルを持って現れた。
コンビニのフランチャイズ経営についての話等を行った。
そしてコンビニの初期費用と7年で回収できる見込みの説明に入った。
しかし、正直このあたりはあまり心配していない。
「それに……掃除ロボの収益があるから、少し冒険しても大丈夫だと思ってます。最悪、回収に時間がかかっても困らないですし」
安藤さんは軽く笑って、「その余裕、ありがたいですね」と言った。
桐原と共同開発した猫型掃除ロボは、導入先がじわじわ増えていて、その会社の利益は、桐原・ホテル・俺の3等分だ。
打ち合わせが終わると、安藤さんが「では、こちらは後日また」と言って資料を片付けた。
俺はそのまま総務部の一角に置かれた自分の机に向かう。
――そう、何故か俺専用の机があるのだ。
最初は空いてる席を使わせてもらっていたが、いつの間にかデスクトップPCまで設置されて、完全に総務部の一員っぽい雰囲気になっている。
パソコンを立ち上げ、さっきそば屋で撮ったメニューの写真を開く。
ざるそば、かけそば、天ぷらそば……シンプルだが外国人にはまったく通じない単語ばかりだ。
俺はWordを開き、メニューを打ち込み始める。
「以下の飲食店のメニューを英語にして。どんな料理か軽く英語で説明して」
と入力し、さっきのメニューリストをコピペして送信。
数秒後、画面にはこう出た。
Soba……
Tempura Soba……
おお、ちゃんと説明まで付いてる。これなら英語圏の人でも迷わず頼めそうだ。
こういう時、AIは本当に便利だな。2006年にこれが使えるのは反則級だ。
「オーナー、何をされてるんですか?」
不意に声をかけられ、振り向くと総務部の女性スタッフが立っていた。
「あ、これですか? この近くのそば屋のメニューを英語に翻訳してまして」
「えっ、すごいですね。ホテルのサービスですか?」
「いえ、完全に自分の趣味です。まあ、外国人客が困らないようにと思って」
「そういうの、大事ですよね。観光客の方って、意外と“何を食べていいのか分からない”で諦めることもあるみたいですし」
「そうそう。例えば定食屋で『この中で辛くないやつはどれ?』とか聞かれても、おじいさんじゃ説明できないでしょ」
彼女はくすっと笑った。
こういう小さな工夫が、たぶんホテルの評価に地味に効いてくるんだろう。
将来的に旅行サイトのレビューとかに「近くの店の英語メニューも用意してくれた」なんて書かれたら、海外からの評価は確実に上がる。
作業を進めながら、ふと思う。
――これ、ホテル周辺の飲食店全部でやったら面白いかもな。地図付きで「笹塚グルメ英語版ガイド」とか作れば、観光客にも喜ばれる。
翻訳作業を終えて保存。印刷プレビューを見ると、思った以上にそれっぽい仕上がりだ。
英語の横に日本語も併記しておけば、日本人客も普通に使えるし、メニューの写真も添えれば完璧だろう。
パソコンをシャットダウンしながら、軽く伸びをする。
デスクの周りは完全に「社員の作業スペース」そのもの。気がつけば総務部の人たちが「オーナーの席」という感じで見ている。




