128話
ホテルの事務室に一人で座っていた。
目の前のパソコンの画面には、福岡旅行の写真がスライドショーで流れている。
「あー、やっぱり楽しかったな……」
初めての一人旅にしては上出来だったと思う。
シーホークは立派だったし、朝食も美味しかった。
寿司も良かった。
あそこはもう、なんというか「全部そろってます!」って顔をしていて、サービスも施設もフル装備。
部屋の窓から見える海もきれいだし、スタッフの笑顔も完璧。朝食ビュッフェでクロワッサンを三つ食べて後悔したのも、いい思い出だ。
だけど――
「色々と、気づくことも多かったな」
たとえば、俺は福岡に行くと決めたとき、どのホテルに泊まればいいのか本当に悩んだ。
土地勘がないから、どこが便利でどこが辺鄙なのか分からない。
「それに、周辺に本屋も見当たらなかった。探せばあったのかもしれないが、徒歩では厳しい距離だ。
一人旅でヒマしている時は、やはり本屋は必要だろう。
旅先で“ちょっとした買い物”ができない不便さを痛感した。これが本屋でもコンビニでも、必要なときにすぐ行けないのはストレスだ。
――で、そこでふと気づいた。
ウチのホテル、もっとひどいかもしれない。
笹塚駅から徒歩10分、住宅街の真ん中にあるうちのホテル。
周りは静かで治安もいいし、環境的には文句なし……なんだけど。
小さい本屋は駅前にあるからいいとして……コンビニが、ない。
駅前まで行けばあるが、徒歩7〜8分。観光客や夜中の買い物にはちょっと遠い。
本屋のためになら7分くらい歩くだろうが、観光で来たお客さんや、夜中にちょっとお菓子を買いたい人が「コンビニまで8分」って、わりと致命的じゃないか?
シーホークは売店やショッピングエリアがあった。
隣にドームもあるし、リゾートホテルだから当然だ。水もお菓子もお土産も、館内で全部そろう。
……うちはどうだ。
お土産コーナーや売店はあるが、コンビニほどの品揃えはない。
これじゃあ、深夜にアイスを食べたくなった人は絶望だ。
じゃあどうするか。
――コンビニだな。
しかも、ただのテナントとして入れるんじゃなくて、フランチャイズで。
自分たちでオーナーになって、近くに作る。
ホテルの客はもちろん、周辺の住宅街からもお客さんが来るはずだ。
うちのホテルは繁華街じゃないから、逆に「ここにしかないコンビニ」って存在感が出せる。
頭の中で計算してみる。
――うん、客層も悪くない。昼は近所の主婦、夜はホテル客と帰宅途中のサラリーマン。
24時間だし、深夜組も取り込める。
何より「ホテルに泊まってコンビニがすぐそこ」ってだけで、ちょっと便利感がアップする。
問題は、どのチェーンにするかだ。
セブン、ローソン、ファミマ……2006年の時点でどこも勢いはある。
ホテル的にはローソンのアメニティはクオリティが高いし、ファミマのオリジナル商品も魅力的だ。
セブンは品揃えの安定感がダントツだけど、条件が厳しいって噂も聞く。
――まあ、その辺はChatGPTに相談すればいいか。
俺はさっそくメモ帳を開き、「コンビニフランチャイズ 比較」って書き込んだ。
よし、やるか。
* * *
翌日、ホテルの事務所。
支配人室のドアをノックすると、久世さんが顔を上げた。書類の束を両手で抱えている。相変わらず背筋がピンと伸びていて、ホテルマンの教科書みたいな姿だ。
「お忙しいところすみません。ちょっと相談が」
「はい、何でしょうか」
俺は席に腰を下ろすと、単刀直入に切り出した。
「ホテルの近くに、コンビニ作りませんか?」
久世さんの眉が、ほんの少しだけ上がった。
「……コンビニ、ですか」
それから俺は、旅の経験と共にコンビニ計画を伝える。
「可能ではあります。ただ……資本面が問題ですね」
「資本面?」
「コンビニを新規に開業する場合、保証金は除いたとして、加盟金、内装・設備費、初期在庫などで、最低でも900万円は必要になります」
900万か……。
頭の中で計算する。俺の立場からすれば、正直それぐらいは出せる。
しかも、ホテルの稼働率が落ちても、生活に困るわけじゃない。数字だけ見れば、やらない理由はない。
「つまり、その900万をどこから出すか、ってことですね?」
「はい。ホテルの運営資金から出すのか、オーナー様個人で出すのか。それによって判断が変わります」
なるほど。
俺が個人で出すなら即決だが、ホテル会計から出すなら、慎重になるのも当然だ。
「ちなみに、ホテルにとってのメリットって何ですか?」
「まず一つは、お客様の利便性向上です。徒歩圏にコンビニがあるだけで、満足度は確実に上がります。特に深夜の飲み物や軽食需要は大きいです」
それは分かっている。
でも、久世さんはさらに続けた。
「もう一つ。ホテルは繁忙期と閑散期の差が大きい業種です。閑散期にはスタッフのシフトを減らさざるを得ませんが、敷地内にコンビニがあれば、そこで働いてもらうことができます。人員の流動的な運用が可能になります」
……それは盲点だった。
確かに、忙しい時はみんなホテルの中でフル回転だが、暇な時期は仕事が減って手持ち無沙汰になるスタッフもいる。そこにコンビニ業務を回せば、人材を無駄にしないで済む。
「なるほど……。ってことは、やっぱり悪くない話ですよね」
「ええ。ただし、ホテルの株式の40%を持っている桐原グループにも確認が必要です。出資や運営方針に関わりますので」
桐原……まあ、そうだよな。
俺だけで決めていい話じゃない。
「桐原側がOKなら、ホテルとしては前向きに検討できる、ということで?」
「そうですね。立地的にも、住宅街の真ん中ですから集客は見込めます」
よし。
あとは桐原に話を通すだけだ。
「じゃあ、桐原さんに相談してみます」
「その際、初期投資の内訳と、予想収益の簡単な試算を添えていただけると、承認は早いでしょう」
「了解です。……やっぱり支配人、話が早いですね」
そう言うと、久世さんは微かに笑った。
「仕事ですから」
そんな話をまとめかけたところで、久世さんが別の書類を手に取った。
「そういえば……別件ですが、外務省から連絡がありまして」
「外務省?」
「はい。要人宿泊の件で、候補として検討したいので下見をさせていただきたいと」
一瞬、脳がフリーズした。
「……要人というのは?」
「ええ。外務省ですので他国の政府要人が来るかもしれないということです」
なんだそれ。ホテルの近くにドームもアリーナもないし、大物ミュージシャンのライブがあるわけでもない。プロ野球の球場もない。
じゃあスポーツ選手でも芸能人でもない。となると……やっぱり政治家か外交官だろう。
「え、誰なんですか?」
「現時点では“海外からの要人”という以上は情報が出ておりません。おそらく正式発表までは、私たちにも明かされないでしょう」
マジか。
映画でよくある“黒塗りの車列”とか、“スーツ姿で耳にコードつけた人たち”がロビーに立つやつだ。あれが本当にうちのホテルに……?
「外務省からの要請ですから、警備や動線の確認など、こちらとしても全面的に協力する必要があります」
「分かりました。その点留意しておきます」
「とにかく、詳細が分かり次第お知らせします。それまでは通常業務をしつつ、外務省の下見対応を進めましょう」
「了解です……」
要人宿泊とコンビニ開業。
まったくジャンルの違う2つのイベントが、同じ時期にやってくる。




