126話 片雲の風に誘われて
8月、ようやく、ホテル経営が落ち着きを見せてきた。
猫型ロボ「ミケ」の導入からしばらく経ち、ホテルの評判は上々。特にファミリー層と外国人観光客のウケがいい。
猫が掃除したり、デザートを運んでくるというだけで、子どもは喜び、親は写真を撮り、口コミで拡散される。その効果もあってか、稼働率も上がり続けている。
ChatGPTを使った音声アシストも、今のところトラブルなし。むしろ「こんなホテルは初めて」と言われるくらいには、インバウンド層にも刺さっているらしい。
(……もう、しばらくやることないかも)
達成感と一緒に、少しだけ空虚感があった。じゃあ、次は何をすればいい?
「旅行でも行くか」
夏休みだし、ちょっと気分転換も兼ねて、どこか一人で出かけよう。もちろん“旅行”とは言っても、目的はホテル視察だ。
ただ遊ぶだけでは終わらせない。自分の経営しているホテルに活かせるものがあれば、それを吸収してこようというわけだ。
最初は澪を誘おうかとも思った。けど、二人きりで泊まりの旅行……さすがに早い気がする。
お互いの親も黙ってはいないだろうし、なにより今回の目的はあくまで「ホテル研究」。
デート気分で行けるものでもない。
(さて、どこに行こう)
前世では仕事の都合でいろいろ回ったが、意外と「泊まる」経験は少なかった。近場なら行き尽くしているし、温泉地は自分のホテルと条件が違いすぎるから対象外。
観光で行った金沢はオシャレだった。新潟も利便性が高くて悪くない。
でも、せっかくなら、もう少し遠くへ行ってみたい。
地図を広げながら政令指定都市の名前を追っていく。札幌、広島、岡山、福岡……ん?福岡?
(あ、そういや……前から気になってたんだよな、福岡)
九州最大の都市。食べ物は美味しいし、空港も都心に近くてアクセス抜群。天神、中洲、博多駅周辺と、ホテル激戦区だ。ここなら、きっと学べるものがあるはずだ。
その日のうちに本屋へ行き、福岡のガイドブックを購入。ページをめくるたびに、テンションが上がっていく。
「ラーメンはもちろんとして、海鮮もすごいな……。屋台もあるのか。でも、さすがに高校生の一人客だと入れなさそうだからパスかな」
まあ、観光はそこそこでいい。むしろ大事なのは、ホテルのチェックだ。いかに過ごしやすいか、接客がどうか、そして価格帯に見合う価値があるのか。そういったポイントをしっかり見ておきたい。
1階に降りて、母に報告する。
「母さん、来週ひとりで旅行行ってこようと思ってて」
「あら、どこに?」
「福岡。ちょっとホテルの見学も兼ねてね。気になるとこがあるんだ」
「随分と遠いわね。……でもまあ、いいわ。ちゃんと気をつけて、行ってらっしゃい」
笑って送り出してくれるあたり、母はありがたい存在だ。
さっそく予約を取ることにした。候補はひとつ――「シーホーク ホテル&リゾート」。
福岡市のベイエリアに位置する巨大なリゾートホテル。
ガイドブックでも評判が良く、「建物が美しい」「サービスが一流」と高評価が並んでいる。
が――
「え、予約って電話なの……?」
時代だな。
ウチも電話予約のみだし、これは改善できるかもな。
* * *
羽田から福岡までは、飛行機で約二時間。意外と近い。眠る間もなく、すぐに福岡空港に到着してしまった。
到着ロビーを抜け、地下に降りて福岡市営地下鉄の駅へ向かう。
路線は一本道のようにスッキリしていて、初見でもわかりやすい。
ホームに降りて数分で電車が来たので乗り、のんびりと座る。
「次は、博多〜博多〜」
(あれ、もう博多駅? 福岡は空港から近いって聞いてたけど、本当なんだな)
目的地はもっと先の駅。でも、少し時間に余裕があったので、途中下車することにした。
地上に上がると、博多駅は人でごった返していた。ビジネスマン、観光客、学生、それぞれが違う速度で歩いている。東京の新宿や渋谷とはまた違う、コンパクトな都会感が心地いい。
ふと、甘い香りが漂ってきた。ケーキか、クレープか……駅構内のスイーツ店からだろうか。つい立ち止まりそうになるが、今回の目的は別にある。
(ラーメン……そう、豚骨ラーメンだ)
福岡といえばやっぱりラーメン。本場の味を体験せずに帰るわけにはいかない。どうせなら駅近くの人気店に行こうと地図を確認してから歩き出す。
数分も歩かないうちに、暖簾の揺れるラーメン屋を見つけた。小さな店構えだが、すでに外には数人の行列ができている。
(……これは当たりだな)
並ぶのは面倒だけど、せっかく来たのだから妥協はしたくない。最後尾に立ち、周囲の人々の会話をなんとなく聞きながら待つ。観光客らしき人もいれば、スーツ姿の会社員もいる。
10分ほどで店内へ通された。カウンター席に座り、壁に貼られたメニューを見る。
メニュー表を見て、ふと驚く。
(……え、「ラーメン」しか書いてない?)
壁の貼り紙にも「ラーメン一杯700円」としかない。味噌、醤油、塩……そんな分類はどこにもない。とんこつラーメンとも書いてない。
(なるほど、ここでは“ラーメン”って言えば“とんこつ”なんだな)
文化の違いってこういうところにも出るのか。ちょっとしたカルチャーショックだが、潔さが気持ちいい。
「ラーメン一丁!」
注文してすぐ、厨房で鍋の音が響き始めた。湯気が立ちこめ、厨房から漂ってくる香ばしい匂いに食欲が刺激される。
やがて、目の前に湯気をたてた丼が置かれた。乳白色のスープに浮かぶ細麺、その上にはチャーシュー、きくらげ、ネギ。まさに“王道”のビジュアルだ。
一口、スープをすする。
(……う、うまい)
濃厚なのにくどくない。しっかりした豚骨の旨味が舌に残る。細麺はスープをよく絡めて、すすればすすった分だけ幸せがやってくる。気づけば、無言でレンゲと箸を動かし続けていた。
(これが本場のとんこつか……)
替え玉は我慢して、腹八分目で店を後にする。満足感でいっぱいの腹を抱えながら、博多駅に戻る。
時刻はまだ午後。そろそろホテルに向かうか――と思ったが、地図で見れば駅から少し歩くようだ。Googleマップがないときに場所を確認しながら歩くのはしんどい。
(ここは、タクシーで行こう)
博多駅前からタクシーに乗り込むと、運転手が親しげに話しかけてくる。
「シーホークホテルまでですね、了解です」
道はスムーズだった。都市高速に乗り橋を渡り海沿いへと出ると、大きな建物が見えてきた。
「あれですよ、お客さん。あの大きいやつ」
窓の外を見た瞬間、思わず声が漏れた。
「……でかっ」
巨大な建物が一つ、ぽつんと海沿いにそびえている。その存在感は圧倒的で、周囲には高層ビルが一切ないため、さらに目立つ。まるでそこだけが異世界のようだった。
隣に見えるのは――福岡ドーム。
(立地もすごいな。イベントがある日はここが満室になるのも納得だ)
タクシーを降りて見上げたその建物は、まるで巨大な船のようだった。海に面していることもあってか、全体が緩やかな曲線を描いており、リゾート感が漂っている。
自動ドアを抜けてロビーに足を踏み入れた瞬間、思わず「おお……」と声が漏れた。
うちのホテルもそれなりに広いと思っていたが、ここは桁違いだった。
何より、天井が高い。
巨大な吹き抜け空間の中央には、横倒しになった円錐形の構造物があり、その内部にはまるで森のような植栽が広がっている。
まるで屋内に公園があるような光景だった。
(なるほど……これはうちのホテルと根本的にコンセプトが違うな)
そう思いながら、チェックインを済ませ、部屋のカードキーを受け取る。
(でも、何か取り入れられるヒントはあるかもしれない)
ホテル運営の参考になることが多そうだ。ひとり旅とはいえ、これはただの観光ではない。確かに「視察」だ。
(よし、少し休んだら、巨大な船のような館内をじっくり見て回るか)




