125話 Side 今度の講演会は……
「今度講演会をしてみましょう」
「は、はい……」
出版社の担当者にそう言われたとき、思わず返事をしてしまった。もう、流れに任せるしかない。
息子と一緒に出したレシピ本は――気づけば10万部を突破していた。
本屋に平積みされている自分の名前入りの本を見るたび、夢でも見ているんじゃないかと思う。
増刷も決まっていて、さらに「第二弾もぜひ」という話まで進んでいる。
ただ、その裏には避けたいものもある。
テレビの取材、簡単なレシピ紹介や便利グッズの紹介番組など、主婦層に人気の枠からオファーがいくつも来た。
けれど――それだけは勘弁してほしいと頭を下げて断った。
カメラの前で料理を披露だなんて、緊張してとても無理だ。
その代わりにと、サイン会や講演会が組まれることになった。
今回で、もう四回目になる。
講演会のテーマは二種類あって、『主婦が作る簡単レシピ』と『主婦のネット副業』。
でも、本当のことを言えば、私はどちらも専門ではない。
当初のレシピは息子が考えたものだし、中身のない張りぼて料理研究家では申し訳ないとアップしてある料理は一通り作り、そうこうするうちに自分でも腕を上げ、最近では数多くのレシピを考案してはwebサイトにアップするまでにスキルが上がっている(息子は母さん天才だと言う)のだけれど。
ネット副業に関しては、今でも仕組みをよく分かっていない。
息子に「どうやってウェブサイトを作ったの?」と聞いたときも、返ってきた答えはアルファベットと数字が入り混じった専門用語ばかりで、ちんぷんかんぷんだった。
それでも、会場に集まった人たちの前に立てば、話さなければならない。
意外なことに、『ネット副業』の講演会はとても人気だ。
きっと「家にいながら楽してお金を稼げる」という夢を見ているのだろう。
私は壇上で「簡単じゃありません」と笑いながら伝えるしかない。
それでも、みんな真剣にうなずいてくれる。需要がある限り、私は続けるんだろうなと最近は思う。
――本当にすごいのは、息子の方だ。
私はようやく気づいた。あの子は私の想像以上に難しいことを次々とやっているのだと。
「次の講演会は、グランヴィア笹塚というホテルです」
「えっ」
「ご存知ですか?最近、猫のディスプレイがついたロボットが料理を運ぶんですよ」
「え、ええ……」
(そりゃもちろん、知ってるわよ)
あれは、数か月前に息子が設計していた。台所で包丁を動かしていた私の隣で、「母さん、ちょっとこれ見て」とノートパソコンの画面を見せてきたときの衝撃を思い出す。
ロボットが掃除をしたり、配膳をしたり――まるでSF映画の世界。なのに、うちの息子は何でもない顔で「まあ、こんなもんだよ」と言う。
――あの子、やっぱりすごい。
胸の奥がじんわり温かくなる一方で、なんだか別世界に行ってしまうような不安もよぎる。
家に帰って、息子と話す。
「恭一、ちょっといい?」
「んー?」
「今度の講演会ね、グランヴィア笹塚でやることになったの」
「お、いいじゃん!てか使ってくれてありがとう」
「うん……」
息子は心底嬉しそうだった。
「平日の昼でしょ?その時間って会議室空いてること多いんだよ。だから利用料が入ってくるの、助かる」
なんだか、こっちが申し訳なくなるくらい喜んでいる。
「そう、良かったわ」
「てかさー母さん、一回も来たことなかったよね?」
たしかにそうだ。けれど「オーナーの母です!」なんて顔を出したら、スタッフの人たちもやりにくいだろうと思って、控えていた。
「泊まっていきなよ。こっちで手配しとくから」
「……そうね」
思わずそう答えていた。
――そういえば、ちゃんと見たことなかったな。
息子が作り上げた場所。見ておくのも悪くないかもしれない。
* * *
「お疲れ様です」
笹塚駅で担当の山田さんと合流し、軽く頭を下げる。
「先に、レストランで食事をしませんか?」
「そうですね」
打ち合わせのときに話題に出ていたが、せっかくなら一度は体験してみたいと思っていた。
テレビで見たことはあっても、実際に自分の目で確かめたことはなかったのだ。
――あの、猫型のロボットが料理を運んでくる光景を。
二人で駅前の通りを歩いていく。すると、視界の先に大きなガラス張りの建物が現れた。
「こちらが会場になるホテルです」
思わず息を呑む。 ――とても大きい。
エントランスは高い天井にシャンデリア、広々とした大理石の床。
受付のスタッフたちは一様にきびきびと動き、空気がどこか上品だ。
ここが息子の関わるホテルなのだと思うと、胸の奥が少しざわついた。
そのまま案内されたレストランに入り、席につく。
周囲を見渡すと、落ち着いた照明に木目調のテーブル、柔らかな音楽が流れている。
こんな場所で講演会の前に食事をするなんて、夢にも思わなかった。
「せっかくですし、デザートでも召し上がりますか?」
「では……パフェを」
山田さんが店員に注文すると、数分後に小さな電子音が響いた。視線を向けると、猫の顔を模したディスプレイをつけたロボットがこちらに近づいてきた。
テーブルの前でぴたりと止まり、「到着しましたにゃ~ん」と愛嬌たっぷりの声。
「……!」
思わず口元を押さえる。
(え、こんなこと、五十年後の未来だと思っていたのに……)
ロボットが料理を運ぶ光景は、今なお信じられないほど新鮮で衝撃的だった。
「えー、可愛いですよね」
山田さんが楽しそうに笑う。
「そ、そうですね……」
私はようやく返事をする。胸の奥で、息子の顔が浮かんだ。――あの子が、本当に作ったんだ。
パフェを口に運ぶと、冷たい甘さと同時に、不思議な誇らしさが胸いっぱいに広がった。
食事を終えると、控え室へと案内される。
講演会まであと一時間。椅子に腰を下ろし、用意してきた資料をめくりながら話す内容を頭の中で確認する。緊張で指先が少し冷たい。
――コンコンコン
「はい」
扉が開き、四人の人物が入ってきた。年配の男性が三人と、若そうな女性が一人。
全員、普通のスタッフとは明らかに違う高級感のある制服を着ている。
「はじめまして。本日ご挨拶に伺いました。私、このホテルで支配人をしております久世と申します」
深々とお辞儀をされ、慌てて立ち上がる。
「え、こちらこそ。私は葛城恵子と申します。今回は講演会のために場所を貸していただき、本当にありがとうございます」
「いえいえ。オーナーの葛城恭一様には、いつも大変お世話になっております」
その言葉に、思わず目が瞬いた。
「えっ……葛城さんって、オーナーなんですか?」
横で山田さんが驚いた声を上げる。 ――あ、それはまだ山田さんには言っていないことだったのに。
「え、ええ……。私というか、家族がそうなっているんです」
「え、オーナー 一族なんですか???」
山田さんがさらに大きな声を出した。私は小さくうなずきながら、頬が熱くなるのを感じた。
――やっぱり、隠しておくべきだったかしら。
講演会――
「ここ数年でネットビジネスが急拡大をしています。たとえばブログを運営し……そこに広告を貼ることで収益を得る、という仕組みがあります」
マイクを握った手のひらに、じっとりと汗がにじむ。
スピーカーから返ってくる自分の声が、会場に響きわたっていく。
けれど、その言葉は私の口から離れて、どこか別の誰かのもののように感じられた。
前列に座る人たちが真剣な目でこちらを見ている。
その熱のこもった視線に、胸の奥で息が詰まる。
(……やりにくい)
ただ原稿をなぞっているだけのようで、言葉と気持ちがうまく結びつかない。
しかも、さっき山田さんに「ホテルの経営者一族なんですね」と言われたことが、頭の片隅でずっと残っている。
私はただの主婦として話しているつもりなのに――山田さんに「経営者一族」と思われたことを思い出すと、会場の視線までもが気になってしまう。
私はただ流れに乗ってここにいるだけ。
レシピサイトも本の宣伝も、あの子が全部整えてくれた。
なのに、壇上で浴びる拍手や期待の眼差しは、全部「私」に向けられている。
その重みが、ひどく居心地の悪さを連れてきていた。
さらに困ったことに、会場の後ろには支配人をはじめとした制服姿のスタッフが八人ほど、直立不動で並んでいた。
まるで国賓を迎える式典のようで、ただでさえ緊張しているのに、視線が痛い。
講演会が終盤に差しかかり、質疑応答の時間になった。
一人の女性が手を挙げる。
「私は占いのウェブサイトを作ろうと思っています。でも、どうやって作ればいいのかすら分からなくて……。パソコンも詳しくなくて、やっぱり無理でしょうか?」
真剣な瞳だった。
でも――私は何も答えられない。恭一が全部やってくれていたから。
私自身は、ウェブサイトを一から作る方法なんて知らない。
頭の中で考えが渦巻く。
(息子みたいに、プログラムを自由に操れる人か、そういう人と知り合いじゃないと難しい……でも、それをそのまま言うのは残酷すぎる)
結局、口から出たのは無責任な答えだった。
「私は詳しくありませんが……もし身近に頼れる人がいなければ、外注する方法もあります。例えば……」
笑顔を作ったつもりだったけれど、心の中では自分が嫌になった。
(この人は本当に悩んでいるのに、私は“母親”というだけで舞台に立って、息子の力を借りて話しているだけ。何の中身もないじゃない……)
どうにか講演は終了した。拍手に頭を下げながら、胸の奥は重たかった。
会場を出ると、支配人の久世さんがすぐに現れ、丁寧に誘導してくれた。
「こちらへどうぞ。ご案内いたします」
通されたのは静かな廊下、そしてエレベーター。
しばらくして、私は思わず口を開いた。
「……息子は、よくやっているでしょうか? 皆さんに迷惑をかけてはいませんか?」
久世さんは一瞬驚いた顔をしたあと、柔らかく笑った。
「とんでもないことでございます。恭一オーナーのご発案があってこそ、当ホテルの今日がございます。おかげさまで稼働率も収益も向上し、スタッフ一同も大きなやりがいを持って業務に励んでおります」
胸の奥が熱くなる。
私は、恭一の“母親”として誇らしい反面、どこか置いていかれているような寂しさも覚えた。
やがてエレベーターの扉が開き、案内されたのは十四階。
ドアが開くと、広々としたスイートルームが目に飛び込んできた。
リビングの窓からは笹塚の街並みが一望でき、柔らかなソファや重厚な調度品が並ぶ。ベッドルームには、ホテル雑誌でしか見たことのないような大きなベッドが置かれていた。
「本日はどうぞこちらでおくつろぎください」
支配人が一礼して去っていく。
静かになった部屋の中で、私は深く息を吐いた。 ――あの小さな子が、ここまでの場所を動かしているなんて。
母親としての誇らしさと、追いつけないほどの距離感が、胸の奥で静かにせめぎ合っていた。




