122話 エレベーターの改修
基本的に、外国人向けの対策はこれくらいでいいかな――そんなことを考えながら、俺はロビーのソファに腰を下ろした。
土曜の11時前。
チェックインにはまだ早い時間帯だけど、ちらほらと宿泊客らしい人影が目に入る。
手元の資料をひとまず閉じて、深く背もたれる。こうして何も考えずにロビーで過ごすのも、たまには悪くない。ふと横を見ると、隣のテーブルに外国人の男女が座った。カップルらしい。小声で話していたが、俺と目が合ったとき、男のほうが軽く手を上げてきた。
「Hi」
「ハロー」
思わず笑って返す。せっかくだし、ちょっとだけ話しかけてみるか。
「Where are you from?」
そう尋ねると、男の人は少し驚いたように眉を上げて――
「I'm from Germany」
……ジャーマン。ドイツか。
「Oh, Guten Tag」
その瞬間、彼の目がぱっと見開かれた。
「Ah!! You speak German!?」
ドイツ語でひとこと挨拶しただけなのに、まさかあんなに喜ばれるとは思わなかった。
まあ、たしかに。日本でドイツ語を話す人はそう多くないし、俺もほんの挨拶程度だ。だけど、たったそれだけでも、こんなに反応してくれるんだな。
逆の立場だったら――自分が海外に行って、現地の人が「こんにちは」って声をかけてくれたら、きっと嬉しくなる。
言葉って、不思議だ。たった一言でも、ぐっと距離を縮めてくれる。
……さて、そろそろミケの稼働を確認しに行くか。
腰を上げてエレベーターホールへ向かい、ちょうど開いた扉に滑り込む。
ビジネスマン風の男性がカードキーをかざして、7階のボタンを押す。ピッという音とともに、階数が表示された。
……ん?
俺は思わず、その階数表示をじっと見つめた。
あれだ。
カードタッチで部屋にアクセスする仕組みになってるってことは――つまり、エレベーターは『少なくともどの部屋の人か』は認識してる。
いや、もしかしたら個人まで特定できる仕組みもあるかも?
なら、その情報を利用できるんじゃないか?
たとえば――
カードキーに宿泊者の言語設定を登録しておいて、エレベーターがそれを読み取ったとき、そのお客さんの言語で「ようこそ」みたいな一言をしゃべらせる。
そうすれば――
「ようこそ、ホテルグランヴィア笹塚へ」
「Welcome to Hotel Granvia Sasazuka」
なんて、乗った人の言語に合わせて自動的に音声が出るようにできたら?
これ、めっちゃ喜ばれるんじゃないか?
……俺の中で、アイディアの電球が点灯した。
理屈としてはぜんぜん不可能じゃない。カードキーと宿泊者情報はすでに連携されてる。エレベーターに音声装置を組み込めば――できる。
英語やフランス語、ドイツ語などの主要言語なら、音声ソフトもすぐ用意できる。
でも、チェコ語とか、ルーマニア語とか、あまり使われない言語は……どうだろう。音声ソフトにすら対応していない可能性もある。
まあ、それは後で調べればいいか。
俺はその場でケータイを開き、メモ帳にアイディアを打ち込み始めた。
* * *
というわけで、数日後。
俺はホテルの管理棟にある「総務部」へ足を運んでいた。
IT部門とか情報システム部とか、もっとそれっぽい部署名かと思ったら、全部「総務部」にまとめられてるらしい。
支配人の久世さんには事前に話を通しておいたので、アポなしでも問題ないはずだ。
ノックして扉を開ける。
「こんにちは」
「こんにちは。えっと……オーナーですよね?」
部屋の奥にいた30代くらいの男性が席を立ち、軽く頭を下げてくる。名札には「一ノ瀬」と書かれていた。
デスクにはデュアルモニターと、分厚い業務マニュアルの束。いかにも技術屋っぽい雰囲気だ。
「はい。ちょっと、相談がありまして」
俺はさっそく、例のアイディアを書類を基に伝えた。
「エレベーターで、宿泊客の母国語に応じた音声案内を出せるようにしたいんです。カードキーのタッチで言語を判別して……って仕組みなんですが」
一ノ瀬さんは少し眉をひそめた。
「ということは……カードキーの情報と、お客様の言語情報を結びつける必要がありますね」
おや。何か引っかかってる?
「今のシステムでは、カードキーは『部屋番号』と『エレベーターのアクセス階』しか記録されていません。
つまり、誰のカードかまでは、エレベーター側では分からないんです」
そうか……部屋番号はあっても、それが誰かまでは紐づいていないのか。
「これを実現するには、カードキーシステムと顧客データベースを連携させる必要があります。でも……それ、簡単ではなくて……うちの基幹システム、実は全部外注のパッケージで組んであるんです。大きくいじるとなると、業者への依頼と、けっこうな予算がかかりますね」
なるほど、そういう壁があるのか。
「せっかくオーナーの良いアイディアなんですが……すみません、現実的にはちょっと厳しいかもしれません」
うーん。たしかに金も時間もかかりそうだ。
――が。
そんなことで引き下がるわけにはいかない。
「そのシステム……ちょっとだけ中身を見せてもらってもいいですか?」
「え? ええ、もちろん。ですが、非常に難解かと……」
俺はその場で、仕様書と操作画面のログイン画面を見せてもらい、自分のノートPCを取り出した。
ChatGPTをクラウドから呼び出し、プログラム構造の解析を開始する。
さすが業者製、きれいに作ってあるぶん、中身はかなり手強い。 データベースはPostgreSQL、UIは2000年代の枠組みにしてはわりとモダンなPHPベース。
認証キーの形式、暗号化の手法、データの読み込みロジック――すべて一つずつチェックしていく。
数時間後、解析は完了した。
ChatGPTの診断ログには、こう表示されていた。
『システムの解析は可能です』
やっぱり、いける。
ここまでくれば、あとは宿泊者データとカードキーのIDを紐づけてやるだけ。
それをエレベーターのタッチセンサーと連携させればいいだけだ。
俺はモニターから目を離し、静かに口を開いた。
「一ノ瀬さん。僕がこのシステムの改修部分、作ってみてもいいでしょうか?」
彼はぽかんと口を開けたあと、ゆっくりと問い返してきた。
「え……オーナーって、プログラミングとかできるんですか?」
「ええ。ちなみに、あの猫型配膳ロボ“ミケちゃん”のプログラムを作ったのは僕です」
その瞬間、一ノ瀬さんの表情が明らかに変わった。尊敬とも、驚きともつかない目で、俺をまじまじと見てくる。
「……なるほど。それなら……ぜひ、よろしくお願いいたします」
よし、ひとまず突破口は開いた。
* * *
一週間後、俺は再び総務部を訪れた。
「こんにちは。またお邪魔します」
「どうも、お待ちしてました」
応対してくれたのは前回と同じ一ノ瀬さんだ。今回はPCも資料も持参している。
さっそくノートパソコンを広げて、USBから改修コードを呼び出す。
一週間――正確にはトータルで20時間ほどかけて組んだ改修用のコードだ。
宿泊者の登録情報から「言語設定」を抜き出し、部屋番号とカードキーIDを紐づける。
さらに、カードタッチ時にエレベーターがその言語設定を読み取り、対応する音声を再生するという一連の流れ。
もちろん、APIやライブラリは2006年当時のものしか使えないから、かなり骨の折れる作業だった。
でも、ChatGPTの力を借りながら何度も試行錯誤して、ようやく動くコードが完成した。
「これが改修プログラムです。試験環境で動かせます」
「お一人で作られたんですね……すごい」
一応1人ってことになるのか。
まあ、 ChatGPTがいなかったら無理だったのは確かだ。
コードの動作確認をやっていく。




