116話 世界よりも確かな2人
部屋に着くなり、ベッドに倒れ込んだ。
体は重いし、頭もぼーっとする。
寝不足のせいだろう。そのまま、気づけば意識が遠のいていた。
……
「ん……あぁ……暗っ」
目を覚ましたのは夜中の三時。
窓の外は真っ暗で、街の音もほとんどない。
「あー……腹減った」
重い体を起こし、キッチンへ。
ポットでお湯を沸かして、カップラーメンを取り出す。
深夜のインスタント。背徳の味。
お湯を注ぎ、3分待つ。
その間に、思考も戻ってきた。
(このままで、いいのか?)
澪と俺は、確かに付き合ってる。
とはいえ、外から見れば「ただの仲良し幼馴染」だ。
あのラブレターを見たときの焦燥感。
このままじゃ、何も変わらない。
カップラーメンを食べ終えて、ようやく落ち着いたところで、ケータイに気づく。
画面がぼんやり光っていて、メールの通知が1件――澪からだった。
【From: 澪】
明日も一緒に学校行きたいな
たったそれだけなのに、一気に胸の中が温かくなった。
……そっか。
疲れたはずなのに、思い返せば――朝からずっと、楽しかった。
パジャマ姿の澪に驚かれたこと、和食の朝ごはん、一緒に歩いて登校したこと。
高校に入ってから、こうしてゆっくり話す時間なんてあまりなかった。
ああいう時間、俺はきっと、ずっと欲しかったんだな。
メールを打つ。
【To澪】
もちろん
明日、8時に行く
澪の家に着いたのは、約束の時間よりも少し前。
曇りがかった朝の光の中、誰もいない住宅街に立つ。
静かだな。
この時間に立ち尽くしているのはちょっと不思議な気分だけど、悪くない。
数分後、玄関が開く音がして、澪が現れた。
「はやーい、まだ8時じゃないよ?」
いつもの制服姿だけど、昨日と同じように、ちょっとだけメイクしてるみたい。
ほんのりチークが入っていて、目元の印象も柔らかい。
「まあ、早く目が覚めてさ」
「ふふっ、私もだけど」
並んで歩き出す。
通学路は昨日と同じ、20分ほどの道のり。
「ね、それでさ……昨日の手紙、見たよね」
「うん、まあ……」
「お誘いみたいだったけど、普通に無視してるから、気にしないでね」
「え、ああ……うん」
(やっぱ気づかれてたか……)
黙ってたつもりだったけど、顔に出てたのかもしれない。
「それにしてもモテるな。うちのクラスのやつも、『白石さん可愛い』って言ってた」
「そうなんだ……うん。高校に入ってから、急に言われるようになったかも」
「まあ、実際可愛いしな」
「えっ、なに急に……」
「いや、その……素直な感想」
「そ、そう……ありがと」
照れくさそうに笑ったその表情は、いつもの澪よりちょっとだけ柔らかい気がした。
そのとき、澪がそっと手を差し出してきた。
俺も何も言わずに、その手を握る。手のひらの温かさが、胸の奥まで染みてくる。
「彼氏いるって言ってるんだけどね、ちゃんと」
言ってくれてるの嬉しい。
「昨日、一緒に学校行っただけで、かなり驚かれたよ」
「だよね。……なんか、ごめんね。恭くん、学校で“付き合ってる”って言ってないよね?」
「うん……そうだな。言ってない」
何かを言いかけて、言葉が詰まる。
――なんで、澪と付き合ってるって黙ってたんだろう。
恥ずかしかったから?
からかわれるのが嫌だったから?
でも、澪はちゃんと「彼氏いる」って言ってるんだ。
体操服を忘れたとき、俺の教室まで来てくれたのに、あの時も申し訳なさそうにしてた。
結局、俺は一言も言えなかった。
澪は俺のためにバイトも始めて、放課後もあまり遊べなくなってるのに。
部活だって、本当はやりたかったかもしれない。
友達ともっと過ごしたい時間だって、きっとあるはずだ。
それでも、「彼氏がいる」って言ってくれている。
なのに俺は、何もしてない。
「……俺の方こそ、ごめん。特に理由もなく、付き合ってること言ってなかった」
「そんなことないよ。恭くんと付き合えてるだけで、私は嬉しいし」
「でも、言った方がいいよな。俺も、ちゃんと」
「うん、でも無理しないでね。からかわれたりするの、恭くん苦手だし」
「そういうのも、澪はちゃんと分かってくれてるんだな」
「当然でしょ。……ずっと一緒だったんだから」
二人で笑う。
気づけば、もう半分以上歩いていた。
「……中学の頃ってさ、一緒に登校なんてしてなかったよな」
「そうね」
「だから、今こうして一緒に歩けるの、実はすごく嬉しいんだ」
「ふふっ、私もだよ」
澪が少しだけ歩幅を狭めて、俺の隣にぴったり並んだ。
住宅街を抜け、学校が近づいてくる。
あと5分も歩けば、例のバス停が見える。
昨日と同じように、そこからはちらほらと制服姿の生徒たちが視界に入ってきた。
そのときだった。
ふと、澪が歩くスピードをゆっくり落として、手をすっと離そうとする。
「あ……もう近いし、恭くんは嫌なんじゃ……?」
小さくつぶやいたその声が、朝の空気に溶けて消えそうだった。
でも、俺の中にははっきりと届いた。
「……いや、このまま繋いで行こうよ」
「え、いいの?」
驚いたように目を丸くする。
「澪はどう?……繋ぎたい?」
「もちろん!」
笑顔がぱっと咲いた。
ふたたび手と手が重なる。あたたかく、柔らかく、それが胸の奥にまで染みわたる。
前方のバス停の脇を通り過ぎる。
すでに何人もの生徒が、バスから降りたり、学校に向かって歩いていた。
その中を、俺たちは並んで歩く。
手をつないだまま、堂々と。
少しの間、無言になった。
けど、なんだろう――
澪の指先が、ぎゅっと俺の手のひらを確かめるように握った。
俺も応えた。
指を少しだけ動かして、澪の指の間に自分の指をゆっくり滑り込ませた。
恋人つなぎ。
「っ……!」
澪が一瞬だけ小さく息を呑む。
顔を覗き込むと、頬に赤みがさしていた。
「照れてる澪、かわいい」
「……ばか」
視線を逸らしながらも、手を離す素振りはない。
むしろ、指先がまたぎゅっと強くなった気がした。
校門が近づいてくる。
もう、周りには同じ高校の生徒しかいない。
でも、不思議と怖くなかった。
昨日までは恥ずかしくてできなかったのに、今はただ、この手を離したくないと思っている。
靴箱に着くと、さすがに一度手を離す。
その一瞬のすき間が、少しだけ寂しい。
けど、今日は――
澪の靴箱には何も入っていなかった。
ほっと息を吐く。
すると、澪が靴を履き替えながら、また俺の方に手を伸ばしてきた。
「はいっ!」
「……え?」
ろ、廊下でもつなぐの?
周囲にはすでに登校してきた生徒がちらほらと歩いていて、声も聞こえる。
「……あ、ああ」
戸惑いながらも、差し出された手を取る。
また、恋人つなぎ。
さっきよりも、自然に。
澪はもう恥ずかしがっていなかった。
むしろ、少しごきげんで――嬉しそうで。
その表情を見た瞬間、俺も肩の力がふっと抜けた。
別にもういいか。
見られたって構わない。
驚かれたって、冷やかされたって、平気だ。
だって俺たちは――ちゃんと、お互いを好きでつながってる。
誰に何を言われたって、関係ない。
階段を上がっていくと、すれ違う生徒の視線が、二度ほど俺たちの手元に向けられた。
驚いたような、羨ましそうな、ちょっと面白がってる視線。
でも、それも悪くない。
澪の手は、あたたかかった。