114話 答えのない問題
深夜――
俺は、答えのない問いに立ち向かわなければならなかった。
どれだけ考えても答えが見えない。
けれど、放っておいてもどんどん深刻になる。
ChatGPTに聞いても解決しない。
俺は、ひとつの大きな問題に直面していた。
そう――
それは、澪が可愛すぎるということだ。
なんだよこの問題。
でもマジで深刻なんだよ。
中学の頃の澪は、ショートヘアで、どこか“あどけなさ”が残っていた。
制服も、ただ学校指定のものを着てるだけ――そんな感じだった。
でも最近は違う。
伸ばし始めた髪は、鎖骨あたりまで届いて、前髪も軽く流している。少しだけ巻いた毛先が、動くたびに柔らかく揺れる。
制服の着こなしも、いつのまにか自然だ。別に派手じゃないのに、シャツの袖のまくり方とか、スカートのラインの整え方とか、1つ1つに目を惹く。
2006年風に言うなら、石原さとみ路線だ。
そりゃ、他のやつらが放っとくわけない。
前に柴田が「誰かに告られてた」って言ってた。
最初は「へー」くらいで流してた。
でも最近、澪と同じクラスの女子(俺らと同じ中学)から聞いた話だと、どうやら澪は複数の男子からアプローチされてるらしい。
これって、やばくね?
別に、誰かに「澪に告るな」なんて言えるわけない。
だけど、雨後の筍みたいに次々と現れてはアタックしてくる男子たちに、俺の胃はストレスで悲鳴をあげている。
しかも最近、澪とはあんまり会えてない。
バイトが土曜に入ってるせいで、日曜はほとんど動けないらしい。
「寝る。マジでムリ」ってメッセージが日曜朝に届くのは、もはや恒例行事だ。
デートも行けてないし、せめて近所のファミレスでも……って思うけど、地元のやつらに見られたらどうしようって思うと、なんか恥ずかしい。
もっとデート出来たらいいんだけどな。
……なんて悩んでたら、外で「ホーホーホーホー、ホッホー 」みたいな謎の鳥の声が聞こえた。
ん? 鳥? ってことは……朝?
窓のカーテンをそっとめくると、空がうっすら明るくなっていた。
デジタル時計を見ると、4時50分。
「あー……もう朝か」
軽く伸びをして、冷たい水を一口飲む。
6月の終わり、朝の空気は涼しくて心地いい。
しかも、不思議なことに眠くない。徹夜したはずなのに、体が軽い。
「若いってすげぇな……」
思わずつぶやいて、ジャージの上着を羽織った。
なんとなく、散歩に出る。
誰もいない道を、ゆっくり歩く。
この時間の住宅街は、音が少ない。
車のエンジンも、子どもの声も、テレビの音もない。
あるのは、自分の足音と、小鳥の鳴き声だけ。
しばらく町内をグルグルと歩き回って、澪の家の前を通りかかったそのとき――
「――あら?」
声をかけられて振り返ると、玄関前に澪のお母さんがいた。
ジョウロを手に、プランターに水をやっているところだった。
「あっ、おはようございます。澪のお母さん」
「まあ、こんな早朝にお散歩? 偉いわねぇ」
「いやぁ……なんか目が冴えちゃってて」
ただ寝てないだけなんだが。
「そういえば、恭一くん。テストで数学と英語、学年1位だったんですってね。澪が家でずっと言ってたのよ」
「ああ……はい、まぁ」
100点取ったからそりゃ一位だろう。
高校の定期テスト。
上位10人は、教室の後ろにランキングが貼り出される。
俺は見てなかったけど、澪がチェックしてたらしい。
「澪ったら嬉しそうに話してたわよ」
そのとき、ふと思い出したかのように言われた。
「そうだ、今日うちで朝ごはん食べていかない?」
「えっ……いいんですか?」
「もちろんよ。毎日でもいいくらいよ?」
「じゃあ……お言葉に甘えて」
小さく頭を下げると、澪のお母さんは嬉しそうにほほえんだ。
「ふふ、5時じゃ早すぎるから、6時すぎに来てちょうだい」
「はい、ありがとうございます!」
一度家に戻って、制服に着替える。
学校に行く支度をしながら、髪型もチェックして、なんとなく身だしなみに気をつかってしまう。
朝から人の家に行くって、なんかちょっとだけ緊張する。
6時ちょうど。リビングに行くと、母さんが起きてきた。
「あら、おはよう。……もう制服? 早くない?」
「うん、さっき澪のお母さんに会って、朝ごはん誘われた」
「え? どういうこと?」
「散歩してたら声かけられてさ、“うちで朝ごはん食べていかない?”って」
「……」
母さんはちょっと驚いた顔をしたあと、ニヤッと笑った。
「……ふぅん。あら、よかったじゃない」
「じゃ、行ってきます」
そう言って、俺はドアを開けた。
澪の家に着くと、玄関のドアがすぐに開いた。
「いらっしゃい、恭一くん。寒くなかった?」
「いえ、大丈夫です」
「こちらで待っててね」
促されて、リビングへ。
リビングは日当たりが良く、朝の光がレースカーテン越しに差し込んでいた。
テーブルにはまだ朝食の準備中らしく、小鉢や皿が並んでいる。
「おはようございます」
ソファにいたのは澪のお父さんだった。新聞を膝に置いたまま、笑顔でこちらを向いた。
「おう、おはよう。朝5時起きなんだってな、勉強してたのか? さすがだな」
「いえいえ、そこまでは……」
――澪が可愛すぎて悩んでました、なんて絶対に言えるわけがない。
「そんなに謙遜しなくていい。数学と英語、学年1位なんだろ? 澪から聞いたよ。努力の賜物ってやつだ」
「いやー……まあ、ちょっと頑張りました」
「恭一くん! 和食でよかったかしら?」
廊下の方から、澪のお母さんの声。
「あ、はい。もちろんです!」
普段はパン派だから、和食は新鮮でうれしい。
……なんて考えていたら
「ミオーー!! 起きなさーーい!!」
お母さんが階段の方に向かって叫ぶ声が響いた。
「いや〜、済まないね。澪は朝はほんとこんな感じでさ」
とお父さんが苦笑いしながら言う。
その直後、お母さんが料理を運んできた。
「はい、どうぞ」
「ありがとうございます」
テーブルに並んだのは、ご飯、焼き鮭、卵焼き、ほうれん草のおひたし、そしてキンピラごぼう。
……え、すご。
「これ……旅館みたいな朝ごはんですね」
「まあ~上手いのね。でも、おひたしとキンピラは昨日の余りなの、ごめんね」
「いえ、むしろ嬉しいです。すごく美味しそうです」
言ったそばから、腹が鳴りそうになるのを必死でこらえた。
そのとき――
ドス……ドス……ドス……ドス……
階段をゆっくりと下りてくる足音。
「ママー……まだ6時半じゃん……あと30分寝られ……」
そのままリビングに現れた澪は、ボサボサの髪に、パジャマの第二ボタンまで開いていて、いかにも寝起き。
そして、俺と目が合った瞬間――
「よっ」
「きゃーーーーっっ!? なんで恭くんいるの!?!?」
悲鳴と同時に、澪は後ずさって、勢いよくドアの陰に隠れた。
頬まで真っ赤にして。
いや、こっちの動揺もなかなかだった。
さっきの開いてたボタンとか、見なかったことにしよう……。
「私が誘ったのよ。それより食事につきなさい」
お母さんがあくまで冷静に返す。
「なんで恭くんいるって教えてくれなかったの! ママのバカー!」
澪はそう言い残し、ぷいっと廊下の奥へ消えていった。
「あの子ったら……じゃあ、先に食べてましょ」
「はい、いただきます」
ご飯を口に入れる。
……うまい。
焼き鮭・卵焼き・ほうれん草のおひたしなど全部おいしい。
キンピラごぼうはちょっとピリ辛で、ご飯が進む。
「……美味しいです」
一口ごとに、さっきまでのモヤモヤが少しずつ溶けていく感じがした。
「よかったわ。いつでも朝ごはん食べにきてね。待ってるわ」
「マジですか!? ……いえ、ほんとにありがとうございます」
……うん、こういうの、ちょっと幸せかもしれない。
数分後。
廊下から、トントンと軽い足音。
澪が戻ってきた。
パジャマはそのままだけど、髪をきちんと整えて、顔も洗ってきたらしい。
「早く食べなさい」
「うん……」
トレーを持ってきて、俺の向かいに腰を下ろす。
その目つきが若干不機嫌で、口数も少ない。
……あ、やばい。これはちょっと怒ってるやつだ。
来ちゃまずかったかな……。
でも、せっかくの朝ごはんだし、空気を壊すのももったいない。
テレビでは朝のニュースが流れている。
「昨日の大雨の影響で……」とアナウンサーが淡々と読み上げている。
そんな中、澪がぽつりとつぶやいた。
「……なんで恭くんいるの」
「それはね〜……」とお母さんが、今朝の散歩で会ったことや、声をかけた経緯を丁寧に説明してくれた。
「ふーん……」
澪はそれ以上言わず、黙々とご飯を食べ始めた。
そして、食後。
「さて、そろそろ行くか」
お父さんがスーツのジャケットを羽織りながら立ち上がる。
「いってらっしゃい、お父さん」
「じゃあ、恭一くんも頑張ってな」
「はい、ありがとうございます!」
澪も自分の部屋に戻って、学校の支度を始めたらしい。
俺は食器を持ち上げようとしたら、
「恭一くんは、もう行く準備できてるんでしょ? ここでゆっくりしてらっしゃいな」
「いえ、食器くらい洗いますよ」
「まぁ……偉い。けど、そんなことしないで、テレビでも見てて。ね?」
にっこり微笑まれて、結局ソファに戻ることになった。
補足
階段を降りる足音について
寝起きなどで、前段を同じ足(例:右足)だけで降りると、このような足音になります。




