112話 1LDK徒歩3分
前に父さんが言っていたことを思い出す。
――「いっそ笹塚に引っ越すか?」
そのときは、冗談半分の口調だったけど、言葉はずっと頭に残っていた。
……いや、正直それはない。
高校は八王子にあるし、通学時間が毎朝1時間オーバーになるとか、さすがにキツい。
でも、完全に却下ってわけでもなかった。
俺は今、週に何度も笹塚のホテルに通ってる。
しかも、今後は経営者として本格的に動くなら、もっと滞在時間も増えるだろう。
そう考えてたら、ふと父さんのことを思い出した。
父さんの会社って、新宿にあるんだよな。
残業が多い日は、ヘトヘトになりながら帰るか、近くのビジネスホテルに泊まっている。
だったら、うちが笹塚に拠点を持ってれば、父さんだって便利なはずだ。
そんなことをブツブツ考えながら、ホテルの仕事を終えた帰り道。
ふと、道端のガラスに目を奪われた。
ガラス一面に、物件情報が貼られている。
赤と青の手書きフォントで、「敷金ゼロ!」「角部屋!」「日当たり良好!」といった文字が並んでいる。
昭和感が漂う、ちょっと古びた店構え。
でも、こういう地域密着型の不動産屋って、意外と“掘り出し物”があったりするんだよな。
ガラス越しに貼られた物件情報を眺めてみる。
「1LDK……家賃、9万2千円。徒歩8分」
「オートロック付き、バストイレ別、2階角部屋、築12年か。悪くない」
駅徒歩10分以内で、家賃が9万台なら東京としては良心的だ。
何より、ホテルまで徒歩5分って書いてある。
「……住めたら、めっちゃ便利だよなあ……」
もちろん、実家はまだあるし、完全に引っ越すつもりはない。
でも“もうひとつの部屋”があれば、仕事に集中したいとき、誰にも会いたくない夜、ちょっと現実から距離を取りたいとき――
そういうときの“逃げ場”になるかもしれない。
……まあ、母さんには言ったら全力で反対されそうだけど。
「高校生が一人暮らし!? ダメに決まってるでしょ!」
って感じで。
だから、最初から“シェアする用”って名目で進めるのが正解かも。
父さんのために借りて、俺もたまに使う。
ガラスのドアを引くと、チリンとベルが鳴った。
「いらっしゃい」
カウンターの奥から顔を出したのは、白髪交じりの、背の丸いおじいさんだった。
グレーのベストに、ちょっとシワの入ったYシャツ。机の上には新聞と湯飲み茶碗。
「えっと……アパートを探してまして」
「アパート? おや、学生さんかい」
「はい、一応……」
――しかも、まだ高1です、とはさすがに言えなかった。
「ふむふむ。部屋の希望はあるかね?」
「2LDKくらいで。広めのがいいです」
「ほう、二人暮らしか?」
「いえ、今のところは一人で使う予定です。ただ、家族も使うかもしれないので」
「……なるほど、まあ理由はどうでもいいさ。家賃の希望は?」
「ん~特にないです。でも、この近くの“ホテル・グランベル笹塚”って場所の近くだとありがたいです」
その瞬間、おじいさんがちょっとだけ目を細めた。
「グランベル笹塚の近く?」
「はい」
「……変わってるね、学生の住む場所としては」
「ちょっと、仕事で行くことが多くて」
「はは、そりゃまた若いのに働き者だ。いいじゃないか」
そう言いながら、おじいさんは奥からバインダーを引っ張り出してきた。
その動作もどこかのんびりしてて、なんか懐かしい空気感。
「じゃあ、ちょっと見に行ってみるかい?」
「えっ、今から行けるんですか?」
「ワシがヒマなもんでね。ちょうど天気もいいし」
おじいさんは鍵束をポケットに放り込み、店の奥からキャップを取って被った。
なんか、探偵ものの映画に出てきそうな、レトロな雰囲気だ。
「じゃ、案内するよ。こっち」
道を歩くあいだ、おじいさんは街の話をいろいろしてくれた。
昔はこの通りに文房具屋があったとか、豆腐屋がもうすぐ閉まるとか、そんな地元話。
「ここらへんは、住みやすいよ。騒がしくないし、夜はちゃんと暗くなる」
「……夜が暗くなる、ですか?」
「そう。都会は明るすぎる。笹塚くらいがちょうどいいんだよ」
そんな話をしているうちに、目的の物件に着いた。
「ここさ。ホテルまでは歩いて3分くらいだな」
見上げると、3階建ての、ベージュ色の低層アパート。
エントランスにオートロックはないけど、外観は手入れされてて、印象は悪くない。
「築4年。でも大家さんが掃除好きでね、管理状態は悪くないよ」
2階の角部屋の鍵を開けて、中に入る。
……おぉ。
まず、玄関がしっかり広い。靴箱も大きめで、傘立てもある。
廊下を抜けると、10畳くらいのリビングに出た。
南向きの窓から光が差し込んでて、昼間は照明いらずの明るさ。
「この部屋がLDK。となりに6畳の洋室が2つある。仕切りは引き戸で、開ければ一体にもできるよ」
「おぉ……いい感じですね」
フローリングは木目がきれいで、足音も響かない。
キッチンはシンプルだけど、コンロは二口、収納もそれなりにある。
風呂とトイレは別。しかも洗面所に窓付き。
「エアコンもちゃんとあるし、ガス給湯も都市ガス。光熱費も安いよ」
「これで……家賃いくらですか?」
「14万円。管理費込みで。敷金1、礼金1。まあ、交渉次第だけどね」
うーん……悪くない。
というか、けっこう“あり”だ。
築4年。
水回りも綺麗だし、部屋の広さも十分。
日当たり良好で、駅から徒歩7分。
ホテル・グランベル笹塚までは、歩いて3分。
「……完璧だな、これ」
床に腰を下ろして、見上げた天井は、白くてまぶしいくらいだった。
おじいさんは廊下に立って、俺の様子をじっと見ている。
「どうするかね?」
俺はゆっくりと立ち上がって、息を吐いた。
「ここにします」
「はいよ」
おじいさんはにっこり笑って、玄関のほうへ戻った。
「じゃあ、契約書類は後日。学生さんだと保証人も必要だから、ご両親に相談しといてね」
「はい。……ありがとうございました」
「いやいや、こっちこそ。若い人がこうやって一歩踏み出すのは、見てて気持ちがいいもんだよ」
そう言って、おじいさんは鍵を閉め、バインダーを脇に抱えながらトコトコ歩き出した。
俺もその後ろを、少しだけ軽い足取りでついていく。
――契約は、たぶんすぐできるだろう。
必要なのは、最低限の家具と家電。
ベッド、ソファー、冷蔵庫、電子レンジ、エアコン。
あとはまあ、カーテンとテーブルくらいあれば十分だ。
洗濯機は……コインランドリーでいいか。
食事は問題なし。
すぐ近くにほっかほっか亭もある。
「チキン南蛮と唐揚げ弁当があれば、たいていの悩みは解決する」
なんて想いながら歩く。
カギを受け取るのは来月くらいになるだろう。
家具の搬入は、それから順次。
小物は必要になったら、また買いに来ればいい。
なんだかんだで、俺にとって“拠点”ができるというのは、想像以上に心強い気がした。
……問題は、親だ。
その夜、夕食後。
母さんが麦茶をコップに注ぎながら、「そういえば今日、笹塚行ったんでしょ?」と聞いてきた。
「ああ、うん。ホテルのあと、不動産屋に寄った」
「ふどうさんや?」
母さんの手が一瞬止まる。
「部屋、見に行ったんだ。ホテルから歩いて数分のとこに、いい物件があって」
「……は?」
「2LDKで、家賃はちょっと高いけど、父さんと一緒に使えばいいかなって思って」
「……」
母さんが麦茶のポットをテーブルに置いた。その音が、やけに大きく感じる。
「それって、つまり……引っ越すってこと?」
「いや、引っ越すわけじゃなくて。あくまで“拠点”だよ。学校もあるし、今の家はちゃんと住む」
「あんたまだ15でしょ? ごはんも作れないのに、1人で住めるわけ?」
「ホテルにはレストランあるし、ほっかほっか亭もあるから食には困らないよ」
「そういう問題じゃなくてね!!」
声が少しだけ大きくなった。
「はーい、ということで!!」
そのまま部屋に逃げ込む。
俺はベッドに寝転びながら、新しい部屋のレイアウトを想像していた。
家具の配置、照明の色、ベッドの向き。
どんな部屋にしようか、考えるだけでちょっとワクワクしていた。
“生活拠点”としての第2の部屋。




