110話 ついに掃除開始
6月——
少しだけ夏の気配が近づいてきたころ。
待ちに待ったこの日——ついに、ミケが本格稼働を迎えた。
構想から約一か月。短期間での実装は奇跡に近いと思っていたが、技術部とホテルスタッフの尽力もあって、驚くほどスムーズに進んだ。
初日、俺は学校があって見に行けなかったけど、安藤さんから「問題なく稼働しました」と連絡が来てホッとした。
そして今日、土曜日。
満を持して俺自身が、ミケの働く姿を見にホテルへ向かった。
「オーナー、ようこそいらっしゃいました」
ホテルに着くと、正面玄関で支配人の久世さんと安藤さんが並んで出迎えてくれた。
「ありがとうございます。お世話になってます」
ロビーには落ち着いた空気が流れていた。GWの喧騒が過ぎて、宿泊客もやや少なめ。けれど、フロントにはチェックアウト手続きをするお客が数組並んでいて、そこそこお客さんがいるようだ。
現在、時刻は10時半。
ミケは毎日11時になると14階をスタート地点に動き出し、そこから各フロアを順番に掃除していく。
1フロアあたりの所要時間はおよそ10分。つまり、3階に到達するのは13時半頃の見込みだ。
ミケの始動まで少し時間があるということで、軽く打ち合わせをすることにした。
「実は……あの猫型ロボット、かなり評判なんですよ」
安藤さんが、ちょっと嬉しそうな表情で話し始めた。
「たまたま廊下で見かけたお客様が、チェックアウト後にフロントに来られて『面白いからまた泊まりに来たい』と仰ってました」
「へぇ……やっぱり、猫って強いんですね」
「しかも、1泊だけの予定だったお客様が、“猫ちゃんにもう一度会いたいから” って、もう1泊延泊されたんです」
「え、それは……すごいっすね」
心の中でガッツポーズを決めた。
ここまで直接的な“成果”になるとは思っていなかった。正直、あれは半分ノリで猫の顔にしたようなものだったけど、想像以上の効果を発揮してくれている。
「客室清掃が“可視化”されたことで、お客様の安心感にもつながっているようです」
久世支配人が補足してくれた。
「“清掃”とは本来は裏でこっそりやるものでしたが、それを猫型ロボがやってくれます。しかも、あの可愛い見た目です。……お客さんの印象に残っているようです」
「“可愛い”って、正義なんですね」
思わず漏れた俺のつぶやきに、安藤さんがクスッと笑った。
10時55分。
俺たちは従業員用エレベーターに乗り込み、14階のバックヤードへと向かった。
そこは、ミケの“基地”——点検口のそば、壁際に設けられた充電ポートがある場所だ。
扉が開いた瞬間、スタッフ用通路の静けさが広がる。ふと視線を向けると、ちょうど一人の女性スタッフが腕時計を見ていた。
年の頃は五十代。物腰の柔らかい雰囲気で、長くこのホテルに勤めていることが伝わってくる。
「こんにちは」
俺が声をかけると、女性はふっと笑った。
「あら、こんにちは。確か、ミケちゃんを見に来たって伺ってるわ」
「はい、桐原自動車の管理部、ホテル担当の安藤です。そしてこちらが——」
「このミケの開発者です」
紹介にかぶせるように、俺が少し照れながら言う。
“オーナー”という言葉を使うのは、どうにもこそばゆい。年齢的に、七光りと思われるのが嫌で、
ついそう表現してしまう。
「まぁ、そうなの。お若いのにすごいわねぇ」
女性は目を丸くし、優しく微笑んでくれた。
時計の針が、11時ちょうどを指す。
女性スタッフがミケの背面にあるスタートボタンを軽く押した。
ピコン、と電子音が鳴り——
「にゃーん、おはようにゃーん♪」
ミケが、ゆっくりと充電ポートから滑り出す。
白とベージュの中間色のボディ、ディスプレイにはお馴染みの“猫の顔”。
スムーズにバックヤードを抜け、廊下の中央を堂々と進んでいく。
床に貼られたQRコードを正確に読み取りながら、決められたルートをたどる。
曲がり角では自然に減速し、ドアの隙間がある部屋にはセンサーが反応して進路を微調整。
まさに、俺が組んだアルゴリズム通りだ。
「……お、完璧」
思わず口をついたひと言に、隣で安藤さんが満足そうに頷いた。
「葛城さん、これは本当に良いものになりましたね」
ホテルの14階廊下は、シックで落ち着いた内装。
だが、床の下部に貼られたQRコードは目立ちすぎず、かといって読み取りに支障がない絶妙な位置に貼られていた。
ミケは、廊下をスイスイと進んでいく。
ボディ下部から吸引しながら進み、規則正しいルートを維持して走行。
途中、壁に近づきすぎないよう微調整をしながら進むその様子は、まるで生き物のようだった。
(よし、いい感じに馴染んでるな)
俺は内心ガッツポーズを決めた。
「掃除も、問題なくできていますね」
安藤さんが感心したように言う。
さすがは桐原自動車の技術部。吸引力や走行精度は申し分ない。
むしろ、想像以上の完成度だった。
やがて、廊下の突き当たりに差しかかったミケは、端に貼られたQRコードを正確に読み取り、きれいにUターンを決めた。
「わぁ……」
安藤さんが、思わず感嘆の声を漏らす。
ミケは掃除を終えると一旦バックヤードに戻り、そこから従業員用エレベーターに向かった。
13階へ。
俺たちも客用エレベーターに乗り、先回りして13階に降りる。
13階でも、ミケは迷いなく所定のルートを掃除しながら進んでいく。
「にゃーん、通るにゃ〜ん♪」
人感センサーが誰かの気配を察知すると、そんなセリフまで飛び出す。
廊下を歩いていた年配の男性客が、驚いたように振り返り、そして笑った。
「ははっ、猫か……なるほどなぁ、面白いことを考えるもんだ」
そんなひと言を聞くだけで、ここまで頑張ってきて良かったと心から思う。
次に12階。
掃除しながら「にゃ~ん」と鳴くその姿は、ただの機械ではなく、まるでホテルの一員のようだった。
(……愛着湧いてきたな)
俺は思わず、小さくつぶやいた。
掃除の正確さだけでなく、どこか情緒すら感じさせる存在感。
その時だった。
ひとつの部屋のドアが開き、小さな家族連れが姿を現した。
父親、母親、そしてその間にちょこんと立っていたのは、ランドセルを背負っていそうな年頃の女の子。
きっと、小学校低学年——6歳か、7歳くらいだろう。
「あ〜、猫ちゃんだ!!」
女の子がぱっと目を輝かせて、ミケの方へ小走りで近づいていった。
俺は一瞬、息をのむ。
(え、この場合……センサーで止まる設定にはしてあるけど、大丈夫だよな?)
ミケの進行方向に子どもが立った。
その時——
「にゃーん、前を通りますにゃ♪」
ミケはピタリと停止し、ほんの少しだけ首をかしげるようなモーションをして、音声を再生した。
その動きが、なんとも言えず愛らしい。
「……ちゃんと止まった」
思わず俺は胸をなで下ろした。
「ほらほら、こっち来なさい。邪魔しちゃダメよ」
お母さんが優しく声をかける。
「でもこの猫ちゃん、しゃべったよ〜!」
女の子は名残惜しそうにミケを見つめながら、両親に手を引かれて去っていった。
——その表情は、笑顔そのものだった。
「……やばいな」
俺はぽつりとつぶやいた。
当初は、ただの業務用掃除ロボット。
客に見られても不快にならず、人件費削減と効率化の象徴——そんな発想だった。
けど、今のあの子の笑顔を見たら思う。
ミケはもう、“ホテルの観光資源”になってる。
……数字のことばかり考えてたな。でも、あの子の笑顔には、それ以上の価値がある気がした。
このホテル、カードキーがないとエレベーターが動かない仕組みになってる。
つまり、この「ミケ」を生で見たければ、ホテルに宿泊するしかない。
TVでは感じられない、実際に見る価値が、そこにはある。
「安藤さん」
「はい?」
「このミケ、夕方のニュース番組の特集とかで取り上げてもらえませんか?」
「……それはいいですね。桐原グループでCM枠を買っている系列がありますので、部署に確認してみます」
「お願いします。あと、各階のエレベーター前に、この猫が何時にその階を通るか、予想時間を貼っておきましょう。 子どもとか、見たいって言い出すかもしれないので」
「素晴らしいですね、観覧時間の明示……お子さま連れへの対応にもなりますし、評判も上がると思います」
いつの間にか、安藤さんも俺の提案にすっかり乗り気になっていた。
ミケは今、10階を掃除している。
このあと10分ごとに10階、9階と進み、最終的には3階でフィニッシュ。
エレベーターの乗り降り、客対応などを含めて、終点は1時半予定だ。
……それにしても、今日はよく働いた。
でも、満足感はある。
ちらっと時計を見る。
時刻は、もうすぐ午後2時。
澪がバイトを終える時間だ。
(……よし、澪と合流してメシでも食って帰るか)
かっぱ寿司でも寄って……いや、澪のことだから「お肉が食べたい」とか言いそうだな。
それなら、駅前の焼肉定食の店も悪くない。
猫ロボの話でもしながら、のんびり昼飯を食おう。




