107話 試作機
埼玉県春日部市。
今日は、ここにある桐原自動車の研究拠点に来ている。
来たのは初めてだけど、思ったより敷地が広くて、整備された静かなエリアに建物が点在していた。
敷地の入り口には警備員が立っていて、ゲートで名前を告げると通された。
「へ~! こんな感じなんだ……あっ、恭くん見て! あれスポーツカーじゃない?」
隣で澪がはしゃいでいる。
なぜか、彼女も一緒に来ている。
掃除ロボットに猫の顔を付けた件について話したとき、「明日、研究所で試作機見てくる」と言ったら、「行く!」と勢いよく返ってきたのだ。
もちろん断れるわけもなく、そのまま一緒に来ることになった。
本人のアイデアが採用されたとなれば、張り切るのも当然か。
先週、研究部が館内を測量して作ってくれた廊下のマッピングデータを受け取って、俺はそれをもとに制御アルゴリズムを完成させた。
「ロボットがどのQRコードでどんな動きをするか」「進行方向の調整」などを一通り書き込んでおいた。
それから、わずか一週間。
桐原の技術部が、試作機をほぼ完成させてしまったというのだから驚きだ。
やっぱり、この会社、スピード感が違う。
入口の前に立っていたのは、安藤さんだった。
「こんにちは、葛城さん。ようこそいらっしゃいました」
「こんにちは。安藤さんもいらっしゃったんですね」
「ええ。ちょうど試作段階が終わったということで、私も進捗の確認を兼ねて。……で、こちらの方は?」
「ああ、ええと……」
なんて説明したらいいか迷っていたら、横から声が飛んできた。
「はじめましてっ!! 恭一の彼女です!!」
お、おおう。ストレートにきたな。
俺が戸惑っているのをよそに、澪は満面の笑みで胸を張っている。
安藤さんは一瞬驚いたような顔を見せたが、すぐに柔らかく笑った。
「ふふっ、初めまして。安藤と申します。現在はホテルの管理を担当しております」
「よろしくお願いします!」
うっ……安藤さんの一瞬の視線が痛い。
研究所の建物は、白を基調にしたシンプルなデザインで、機能性と清潔感を重視した作りだった。
中に入ると、天井は高く、無機質な蛍光灯が均等に並び、空調の音だけがかすかに聞こえてくる。
安藤さんの案内で、俺たちは奥の作業エリアへと進む。
ガラス扉の先は、まるで倉庫のような広い空間だった。
壁際には大小さまざまな工具や部品、3Dプリンタのような設備も見え、床は整頓されており、中央には作業台がいくつも並び、その一角に――それはあった。
猫の顔を表示した、白い掃除ロボット。
「こんにちは!」
周囲には作業服姿のスタッフが6人ほどいた。全員、手を止めてこちらに顔を向ける。
先日会った岡村さん、伊藤さんの顔もある。
「おー、きたきた。恭一くん!」
「こんにちは。お忙しいところすみません」
「いやいや、ぜんぜん。こっちも面白い案件だからさ」
「その……猫のディスプレイ、もうついてるんですか?」
「もちろん。まだ動作確認中だけどね。表情パターン、君が送ってくれた通りに入れてあるよ」
澪が前のめりになってロボットを見つめる。
「わ、ほんとに猫がいる……!」
ディスプレイに映っていたのは、笑っている猫の顔だった。口を「ω」の形にして、目が細くなっている。
可愛さを前面に押し出したデザインに、思わず俺も笑ってしまう。
「音声出力の方も、今朝テストが終わったよ。“掃除するにゃ〜ん”ってちゃんと喋る」
声優への依頼も終わり、きちんと喋るようになっているようだ。
「え、可愛い……」
澪が感動していた。
ロボットの後部には、吸引ノズルと小型のゴミタンクが設置されており、床に沿って回転するブラシも見える。
このサイズ感なら、ホテルの廊下でも邪魔にならず、静音性もそこそこ保たれそうだ。
「これから実際に動かしてみます?」
倉庫の中に、長く伸びた通路が設けられていた。
ベニヤ板と仮設の壁材で丁寧に組まれたその空間は、まるでホテルの廊下をそのまま持ってきたかのような再現度だった。
照明の色味、壁紙の質感まで可能な限り本物に寄せてある。
「これはホテルの廊下を再現したよ。笹塚グランベルの図面から寸法もそのまま取ってる」
岡村さんが得意げに言う。
「すごいですね……」
俺が素直に感心すると、澪も「わぁ……」と声を漏らした。
さすがは桐原。やることのスケールが違う。
現地に行かずとも、ここで走行テストができる環境を再現してしまうあたり、本気度がうかがえる。
「ほら、あそこ。壁の下に貼ってあるでしょ?」
指さされた先には、小さな白黒のQRコードが、壁面から5センチほどの高さに等間隔で貼られていた。
「これがロボットのナビゲーションの基準になる“位置コード”です。
QR-01から始まって、QR-10まで番号が振られていて、それぞれに移動指示が設定されてる。たとえばQR-10はUターン地点」
「このQRコードを、掃除ロボのカメラが読み取るんです」
「なるほど……」
「角度調整して、正面じゃなくてもスキャンできるようにしてあるよ」
QRコードに反応してロボットが動く―単純そうに見えて、実は細かい制御が詰まってる。
「じゃあ、動かしてみようか」
伊藤さんの声で、空気が少しだけ張り詰める。スタッフがパネルを操作し、白い掃除ロボがゆっくりと動き出した。
ゴロゴロと静かに回る車輪。
猫の顔をしたディスプレイが、こちらを見て「にゃ~ん♪」と鳴く。
澪が「かわいい……」と小声で呟いた。
ロボットは廊下の中央をまっすぐ進み、一定距離ごとに壁のQRコードをスキャンしながら、着実に前進していく。
ぶれずに、止まらず、滑らかな挙動だ。
そして──
廊下の端に貼られたQR-10が近づいてくる。
(ちゃんとUターンできるか……?)
一瞬、息が詰まるような感覚が走った。
猫ロボはQR-10を読み取ると、きゅっと小さく旋回し、180度方向転換して、何事もなかったかのようにゆっくりと戻り始めた。
その場にいた技術スタッフたちから、素直な歓声が上がった。
「よし、成功した」
「動きが自然になったな……」
「“にゃ~ん”って鳴くタイミングも絶妙」
「……ありがとうございます。一応動いていたので、みなさんのお手を煩わせなかったことに安心しました」
「いやいや、葛城くんのアルゴリズムがあってこそだよ。ここまでスムーズに動くの、なかなかないよ」
伊藤さんが嬉しそうに頷いてくれる。
「じゃあ、次は“ドアが開いている状態”での挙動テストもやってみよう」
「はい、お願いします」
……
テストがひと段落したところで、 ずっと控えめに後ろに立っていた安藤さんが、ぽつりと声をあげた。
「……あの、よろしいでしょうか?」
一同が自然とそちらに視線を向ける。
「私は技術には詳しくないのですが……このロボット、名前をつけませんか?
そのほうが、お客様に紹介しやすいですし、社内でも親しみが持てるかと」
その一言に、空気が少しやわらかくなる。
澪が「いいですね、それ!」と目を輝かせて乗ってきた。
「うん、名前は大事だよね。この子可愛いもん」
ロボットの猫ディスプレイは、ちょうどそのタイミングで「にゃ~ん♪」と小さく鳴いた。
まるで自分に話しかけられているのが分かっているかのように。
そして――
「……実は、俺、もう考えてきたんです」
俺はポケットから、一枚のメモを取り出した。
面白かった感想「くりーにゃぁ!」




