106話 アニメの見すぎだろ
昼休み、教室に戻る途中で澪に呼び止められた。
どうやら、体操服を忘れたらしい。
「ほいよ」
俺の体操服を渡す。
「ありがとう」
受け取ったあと、澪は俺の袖をほんの一瞬だけ軽く引いた。
(……え、今のって、たぶん俺への“またね”って合図か? )
体操服を抱え、ぱたぱたと廊下の向こうに消えていく。
男子用のやつだからサイズはちょっと大きいけど、どうせ体育で着るだけだし、問題ないはず。
一瞬だけ袖を引かれたしぐさの可愛さでにやけそうになる。
「いやいやいやいや」
振り返ると、同じクラスの坂本が口をあんぐりさせて俺を見ていた。
「葛城、なに今の。女子に体操服貸してたよな? あれってさ、俺らのクラスじゃなくて――」
「うん、隣のクラスの白石さんだよな?」
横にいた柴田が食い気味にかぶせてくる。
「うわー、まじか。ガチで白石さんだったんだ」
こいつらなんで隣のクラスで、違う中学出身の澪のこと知ってんだ?
「いや、普通にありがとうって言ってたよな。あの距離感、どう考えても普通じゃないって」
やかましい。
体操服貸したくらいで、なんでこんな大騒ぎしてんだ。
「ん? ああ、まあ……そうだな」
適当に流そうとした俺に、坂本がジトッとした目を向けてくる。
「でさ、葛城、あれなんなの? なんで白石さんに体操服なんて貸してんの?」
柴田が聞いてくる。
「あーえっと、幼馴染なだけ。家が近所で、昔から知ってるだけだって 」
「え、それってけっこう王道じゃん」
坂本がいきなり食いつく。
「マジか! なら朝、起こしに来てくれたりすんの?」
「ねーよ。お前アニメの見すぎだろ」
実際、澪は朝が弱いからそんなことしてくれないし。
「つーか、白石さんって可愛いよな」
柴田がぽつりと言う。
「そうだな……白石さんって彼氏いるのかな」
「は? いや、知らねーよ」
何言ってんだコイツ。
とっさに誤魔化す。
「俺のダチが白石さんと同じクラスなんだけどさ、先月くらいに告ったらしいんだよね」
「……は?」
(聞いてないんだけど、誰だよそれ)
一瞬で目が座る。
「で、どうなったんだよ?」
「断られたってさ。『彼氏いる』って」
……そうだったのか。
てか澪に告ったやつがいたなんて、 どこのどいつだ。
「……へえ」
「でも葛城とは普通に話してるの、ちょっと羨ましいよな」
「それな。俺のダチもガチで惚れてたし」
「いやいや、だから幼馴染って言ってんだろ……」
俺が呆れかけたとき――
「てか、今日の6限って体育館だったっけ?」
「うん。総合の時間で講演会らしい」
柴田が思い出したように言った。
「なんか、ディズニーのホテルで働いてた人の話を聞くらしいぞ」
「接客業ってやつか」
「そう。ホテルで働くのって、どうなんだろな~」
ふたりとも、いつものノリで喋ってるけど、今日はなんか“ホテル”って単語がやたら刺さる。
「旅行会社とかで働いたら、会社の金で旅行し放題なんだろ? それいいよな」
「じゃあホテルで働いたら、ホテル泊まり放題か?」
「いや、それは無理だろ……」
つい突っ込んでしまったけど、実際のところ、自分のホテルでもオーナーは自腹だ。
俺だって、ホテルの部屋に泊まったこと、まだ一回もないし。
「ホテルマンって響き、なんかかっこよくね? 憧れるわ」
確かに制服着てるのとかカッコいい気がする。
「それよりさ」
柴田がぽつりと、でもどこか本音っぽく言った。
「彼女、欲しくね?」
あー、出たよ、この話題。
「高校生って言ったらそれだよね〜」
坂本もすぐに乗っかる。
こいつら、ほんとそういう話になると息ぴったりなんだよな。
「夏までにできたら最高だよな。彼女と一緒に海行って、花火見て、浴衣着て、なんかもう最高って感じ」
「まあ、できたらな……」
俺は曖昧に笑った。
(海か……)
柴田の言葉で、ふと澪との情景が浮かぶ。
海辺を歩いてる澪。
波の音にかき消されそうな声で、「冷たいね」なんて言って笑う姿。
……いやいや、何を想像してんだ俺は。
(プールもいいな。あいつ泳げたっけな)
頭の中で、やたら自然に澪と一緒の海を想像していた。
うわ、やば。
そんな自分がバレないように、俺はそっと口元を抑えた。
でも、にやけるのは止められなかった。
* * *
家に帰ると、リビングのテレビがゆるくついていて、母さんがダイニングテーブルで料理雑誌をぱらぱらとめくっていた。
ソファには父さんの姿もある。
そういえば、今日は午後から半休を取るって言ってたっけ。
「おかえり、恭一。支配人さんから電話あったわよ」
「え、あ、まじで?」
土曜日、ホテルの朝食バイキングを新しくするから下見に行く予定だった。
「朝食の新しくしたところの確認って言ってたわよ」
「うん、あとで折り返してみる」
最近、久世支配人さんとは連絡を取り合うことが増えてきた。
会話はいつも丁寧で、けどどこか柔らかい感じ。
俺のことを“高校生”扱いせず、ちゃんとビジネスの相手として見てくれてる感じでありがたい。
ふと、母さんが顔を上げる。
「そういえば……恭一、夏はホテルのほう、通うのよね?」
「うん、まあ、最低でも週1は現場見たいし。あとレストランも稼働始まるしね」
そのとき、ソファに座って新聞を読んでいた父さんが、ページをめくる手を止めてぽつりと言った。
「もうさ、いっそ笹塚に引っ越すか?」
コーヒーをひと口すすってから、ぽつりとそんなことを言い出した。
「「……は?」」
いきなりの提案に、俺と母さんがほぼ同時に顔を上げる。
「だってホテルに通うにも近くなるし、俺の会社もこっちよりずっと近い。今の場所より断然便利だぞ」
「いやいや、ちょっと待ってよ」
俺が先に口を挟んだ。
「高校遠くなるじゃん。通学に1時間とか絶対やだし」
「そうよ」
母さんもすぐさま加勢してくれる。
「この家だって、せっかくローン返し終わってようやく落ち着いたのに、また引っ越して、1からご近所づきあいなんて……嫌ですからね」
「いや、まぁ、俺もいますぐってわけじゃないけどさ……週に何回も笹塚に行くなら、拠点あったほうがいいんじゃないかと思ってな」
「拠点ね……」
父さんのその言葉に、ちょっとだけ引っかかるものがあった。
たしかに、ホテルの近くに小さなアパートでもあれば、ちょっと作業したり、レストランの打ち合わせで遅くなったときに泊まったり――そういう使い方はできるかもしれない。
(引っ越しは絶対いやだけど、サブ拠点的な場所は、あってもいいのかもな)
ホテルの近くは住宅街だし、いい感じの物件があるだろう。
(……一度、見に行ってみるか)
そう心の中で決めたころ、母さんが雑誌を閉じて言った。
「とりあえず今日のご飯、冷やし中華よ」
「おっ、ナイス!」
やっぱ夏といえば、かき氷と冷やし中華だな。




