1話 転生
――ああ、今日も疲れた……。
倒れ込むようにしてベッドに沈み込んだのが、最後の記憶だった。
電車の中で仕事メールを何件も捌いて、帰宅してからも上司からの電話。
風呂も入らず、そのまま服のままで布団に突っ伏した。
家に帰っても誰もいないし、コンビニ弁当を温める元気すらなかった。
趣味もない。休日は寝て終わる。出世はもう望めない。
仕事は続けてるけど、ただ“生き延びてる”だけって感じだった。
……気づけば、笑い方すら忘れていた気がする。
34歳。会社員。独身。慢性的な疲労。
そんな俺の人生、まあ平凡っちゃ平凡だ。
そのとき――急に、頭の奥がズキンと痛んだ。
目の前の景色が、じわじわと滲んでいく。
「……あれ……?」
声にならない声が漏れた。
次の瞬間、鼓動が一気に早くなり、そして、ふっと遠のいていくのを感じた。
(あ……やばい、死ぬんだ……)
視界がじわじわと暗くなっていく。身体から、力が抜けていくのがわかった。
胸の奥がズキンと痛んで、でも起き上がる気力もなかった。
……
……
「……ん」
目が覚めた。なんだか、やけに静かだ。
身体を起こすと、妙に軽い。そして、部屋が――
「……あれ?」
景色が、おかしい。いや、違う。懐かしい、って言ったほうが近いか。
まず目に入ったのは、木目調の天井板。今どきのマンションじゃお目にかかれない、昔ながらの作りだ。
そして、横には茶色い本棚。ビニールが剥がれかけた安物の木製。
見覚えが……ある。ありすぎる。
目の端に写った学習机。引き出しの端が少し欠けてる。
その上には、あの頃集めていたプラモデル。すっかり色あせた『機動戦士ガンダムSEED』のストライクフリーダム。
「いやいやいや、まさか……」
慌てて周囲を確認する。ベッドの隣にあるのは、小型のテレビ。分厚い、ブラウン管式。
下にはPS2。DVDじゃなくCDサイズのケースが棚にズラリと並んでる。しかもタイトルが――『ICO』『ワンダと巨像』『サクラ大戦』
「これは……俺の部屋……しかも、高校の時の……」
いや、待て。それよりもっと前か? 机の上にあったのは『中三数学まとめノート』。しかも日付が、「2005年4月」――。
俺はゆっくりと、震える指先でカレンダーを確認した。壁に貼ってある、毎年祖母が送ってくれていた花の写真付きのやつ。
《2005年4月1日》
「……エイプリルフールじゃねぇかよ……!」
思わず笑った。いや、笑うしかなかった。
でも、どれだけ目を凝らしても夢とは思えない。
部屋の匂い、空気の乾き方、遠くから聞こえるテレビの音――全部がリアルすぎた。
鏡を見る。そこには、若い“俺”がいた。
まだあどけなさの残る顔。目のクマもないし、髪の毛もふさふさだ。
「……マジかよ。中学生になってる……」
俺は14歳の“葛城恭一”として、この部屋に目覚めてしまったらしい。
数分間、動けなかった。
混乱、驚き、焦り、そして、どこか少しだけ高揚。
漫画や小説で何度も読んだことのある展開。まさか自分がそれを体験することになるとは――。
「転生、ってやつなのか?」
言葉にしてみても、全然実感が湧かない。
けど、頭は働き始めていた。
これが夢なら、どうせそのうち目が覚める。だとしたら今のうちに楽しむだけだ。
けどもし、これが“現実”だったなら――
「チャンス、なのかもしれないな」
あの頃の俺は、たいしたことはできなかった。
受験して、高校行って、大学に進んで、会社に入って、疲れた毎日をこなして、それで終わり。
人生ってのは、もっと自由で、もっと選べるものじゃなかったのか――?
そんな思いを抱えていたからこそ、今、この“やり直し”のような状況に、ほんの少し希望を感じていた。
「それにしても、懐かしすぎるな……」
目に入るものすべてが、思い出を呼び起こしてくる。
カーテンの柄は、母さんが選んだ花柄。正直ダサいけど、なんか落ち着く。
窓から見える景色も、今住んでる都会のビル群とは違って、ゆるやかな住宅地。道端には自転車が何台か無造作に停められてる。
笑いながら、布団の中にもう一度潜り込む。
心臓の鼓動は、まだ速い。
信じられない。でも、怖いくらいに“現実”だ。
やがて、部屋の外から母親の声が聞こえた。
「恭一~! 朝ごはんできてるよー!」
「……マジで実家じゃん」
この声も、この呼び方も、たしかに母さんだった。
最近はあんまり電話もしなくなってたけど、ちゃんと覚えてる。
「……すぐ行くー!」
自分でも驚くくらい自然に声が出た。
俺はゆっくり布団から這い出し、もう一度、部屋を見渡す。
――やっぱり、間違いない。
ここは、14歳の俺の部屋。2005年の春。
今日は休みか??部屋の時計は9時だったから学校じゃないよな。
中学3年生に進級する直前の、あの頃の俺の生活の、ど真ん中だった。
階段を降りると、朝の匂いが鼻をくすぐった。
味噌汁の香り。焼き魚。炊きたてのご飯。
この組み合わせ、何年ぶりだろう。コンビニ飯や冷凍食品に慣れた現代人の胃袋が、妙にそわそわする。
リビングの引き戸を開けると、キッチンのほうで母さんが動いていた。
長い髪を一つにまとめて、エプロン姿で器を並べている。どこか、今より若く見える。
「おはよう、恭一。ちゃんと起きれたのね。春休みだからって寝すぎないでよね」
「……ああ、おはよう」
自然に返せてる自分が少し怖い。声変わり前の、少し高めの声に、まだ慣れない。
テーブルには、理想的すぎる朝食セットが並んでいた。
焼き鮭、ほうれん草のおひたし、卵焼き、豆腐の味噌汁、そして真っ白なご飯。
「アンタ、昨日夜遅くまで起きてたんじゃないの? 顔がまだぼーっとしてるわよ」
「いや、まあ……ちょっとね」
昨日という概念がすでに怪しい俺には、返しようがない。
母さんはそれ以上詮索せず、味噌汁のお椀を俺の前に置いた。
「いただきます」
手を合わせて、箸を取る。
……うまい。
それしか出てこなかった。
コンビニの味噌汁とも、インスタントのそれともまるで違う。
出汁が効いてて、優しくて、どこか懐かしい味。
「なんか、今日の味噌汁、すごく……沁みる」
「えっ、珍しいこと言うわね。あんた、最近は『朝はパン派』とか言ってたのに」
そうだったかもしれない。たしかに俺、中学の終わり頃から朝食にこだわりが出始めて、菓子パンばっか食ってた時期があった。
「……今日って、何日?」
「四月一日よ。エイプリルフールだけど、嘘はほどほどにね?」
「四月一日……」
再確認。カレンダーにも書いてあったし、これで確定。
俺は――2005年4月1日にいる。
それを改めて突きつけられて、箸の動きが止まった。
「どうしたの?」
「いや……なんでもない。味噌汁、すごくうまいよ」
母さんは嬉しそうに微笑んだ。
「そう? ならよかった」
テレビがふと視界に入る。
ブラウン管のテレビの中で、どこか見覚えのある男の声が響いていた。
『いや~万博は盛況ですね。35年ぶりの万博にみなさん楽しみに、、、』
「うわ、懐かしっ!」
思わず声が漏れた。
『とくダネ!』
そうだ、いつも学校に行く前はめざましテレビを見ているが、長期休みの時だけ見られるから特別感があったんだった。
「……まだ現役だったんだっけ、この頃」
「え、なにが?」
「あ、いや、こっちの話」
番組は、1週間ほど前から始まった愛・地球博のことを話していた。
「いやほんと……全部、リアルすぎる……」
世界が、2005年であることを、何度も何度も証明してくる。
こうなってくると、もう夢とは思えない。転生という言葉に、現実味が増してくる。
「ところで、今日って何か予定あった?」
母さんが味噌汁を飲みながら言う。
「いや、特には。家にいるよ」
「じゃあ、部屋の掃除でもしといてくれる? 春休み中くらい、ちゃんと部屋片づけなさいよ」
「……了解」
掃除、か。まあ、部屋を見渡すだけでも十分面白そうだ。
なんせ14歳の自分が何を考えて、何を持ってたか、今なら冷静に観察できる。
食事を終え、食器を流しに運ぶと、母さんが不思議そうに言った。
「今日はずいぶん素直ね。なにかいいことでもあった?」
「……あったのかもね」
ほんの少しだけ微笑んで、俺は部屋に戻る。
その時、部屋の端に懐かしいノートパソコンがあるのを見つけた。
この小説をお読みいただきありがとうございます。
いきなり無双することなく、ゆっくりと進んでいきます。
エンターテイメント作品として、気楽に楽しんでいただければ幸いです。