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素うどんとドッグフードの掟

そのうどん屋は、街外れにひっそりと佇む小さな店だった。暖簾をくぐると、茹でうどんの湯気と出汁の香りが漂い、どこか懐かしい雰囲気が漂う。今日、私を含めた会社の四人——社長、部長、係長、そして私——が昼食のために訪れていた。


社長は威厳たっぷりに「明太釜玉うどん」を注文した。濃厚な明太子と卵の絡んだ麺を想像するだけで、胃が鳴りそうになる。部長は少し控えめに「釜玉うどん」を頼み、卵のまろやかさが際立つ一品を選んだ。そして係長は、まるで修行僧のようなストイックさで「素うどん」を注文した。つゆに浸かっただけのシンプルなうどん。具も何もない、まさに「素」の極みだ。


問題は私だった。会社の暗黙のルールが頭をよぎる。係長が頼んだものより「上」のものを注文すると、本気で怒られるのだ。しかも、最近追加された新ルール——「同じものを頼むと失礼にあたる」——が事態をさらにややこしくしていた。素うどんより上はダメ、同じもダメ。さて、どうする?


「半玉の素うどんとか…?」と迷っていると、店員がニヤリと笑って提案してきた。「ドッグフードならあるよ。係長もそれなら怒らないみたいだし」。一瞬、耳を疑った。ドッグフード?このうどん屋で?でも、係長が「ふむ、それなら構わん」と頷くのを見て、私は半信半疑で「じゃあ、ドッグフードで」と注文してしまった。


しばらくして、目の前に置かれたのは、茶色いカリカリの粒が山盛りになった皿だった。犬の餌そのものだ。店員は「ごゆっくり」と言い残して去り、私は茫然とそれを眺めた。食べるべきか?食べないべきか?とりあえず、場の空気を和ませようと、係長に「一口どうぞ」と皿を差し出してみた。


驚くことに、係長は「どれどれ」と真顔で一粒をつまみ、口に放り込んだ。咀嚼する音が静かな店内に響き、私たちは息を呑んで見守った。部長が「係長、大丈夫か?」と心配そうに尋ねた瞬間、係長の顔が微妙に歪み、「うっ」と呻いてトイレに駆け込んでいった。


残された素うどんが冷めていくのが勿体なくて、私はついそれを食べ始めた。出汁の優しい味わいが舌に広がり、ドッグフードの危機を回避した安堵感に浸った。だが、その平穏は長くは続かなかった。


トイレから戻ってきた係長は、どこか異様な雰囲気をまとっていた。近づくにつれ、鼻を突く——犬の匂いだ。湿った毛皮のような、野性的な香り。社長が「係長、何だその匂いは?」と眉をひそめると、係長は「いや、別に」とそっけなく答えたが、その目はどこか遠くを見ているようだった。


私は恐る恐る尋ねた。「係長、大丈夫ですか?なんか…ワンちゃんの香りがしますね」。係長は一瞬私を睨んだが、すぐに「ドッグフードのせいだろう」と呟き、席に戻った。その後、彼は黙々とお茶を啜り、何事もなかったかのように振る舞った。


店を出る頃には、誰もその話を蒸し返さなかった。社長は明太釜玉の余韻に満足し、部長は釜玉の卵を褒め、私は素うどんの味を噛み締めていた。そして係長は——犬の匂いを纏ったまま、どこか悟ったような表情で歩いていた。


あの日の昼食は、私たちにとって忘れられないものになった。素うどんの掟と、ドッグフードの謎。それが会社の暗黙のルールに新たな一ページを刻んだのだ。

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