タイムリープ執事は、お嬢様の婚約破棄回避のために奮闘する。
タイムリープものに挑戦しました。
「ミシェル・ルグノール、貴様との婚約を破棄させてもらう!」
エドガー殿がそう言い放った瞬間、私の目の前は、真っ暗になった。
*
「……ルツ、シュヴァルツ」
呼び声に、私ははっと我に返った。
「どうしたの? ぼーっとして」
目の前に、ミシェルお嬢様の顔がある。お嬢様の前には朝食の並んだテーブル。どうやら私は朝食の給仕をしている真っ最中らしい。
おかしい。たった今まで、私は大広間にいて、婚約破棄の現場に立ち会っていたはずだ。それなのに、なぜ私はお嬢様の部屋にいるのだろう。
「というか、お茶、さっきから自分の足に注いでるけど、大丈夫?」
「申し訳ありません……って、熱っ!」
熱湯に身悶えながらも、私は考える。今の光景はいったい何だったのだろう。夢にしてはやけに鮮明で……。まだ胸に嫌な感触が残っている。
「今日はなんだかいつにもまして面白いわね。何かあったのかしら」
「何でもございません。して、お嬢様、お茶のお替りはいかがですか?」
「いいえ、大丈夫。今日はこの後、エドガー様主催のお茶会に行かなければだし。そういえば、誰か紹介したいとか。ニーナだかなんだかいう……」
瞬間、私はポットを取り落とした。
ニーナ。婚約破棄が言い渡された時、勝ち誇った表情でエドガー殿の隣に立っていた女。お嬢様を罠にはめた張本人だ。
忘れもしないお茶会の日。ニーナ嬢は、いきなり我々の前に現れた。それが今日ということは……。
その時、私は全てを理解した。今見たものは、決して夢などでなく、未来で起きる現実のことだということ。そして、私はタイムリープして、全ての始まりの日まで戻ってきたということを。
しかし、なぜ私なのだ? こういう展開では、リープするのは当事者であるお嬢様のはず。それなのに、タイムリープしたのは私、単なるお嬢様の専属執事であるシュヴァルツだった。
一方のお嬢様は何も気付いていないようで、もにゅもにゅと朝食を食べている。こうしている間にも、あなたをはめる計画が進んでいるのですぞ! そう叫べたのなら、どれだけ楽だろう。しかし、それはいたずらにお嬢様を動揺させてしまうだけだ。何より、このような話、信じてもらえる保証もない。
こうなったら、私がやるしかない。婚約破棄ルートを回避し、お嬢様をお守りするのだ!
婚約破棄までの筋書きはこうだ。エドガー殿とニーナ嬢の仲睦まじい様子に嫉妬したお嬢様は、犯罪まがいの嫌がらせをニーナ嬢に度々行う。やがてそれが発覚し、エドガー殿から婚約破棄を言い渡される。
しかし、お嬢様がそのようなことをなさるはずがない。嫌がらせの全ては、ニーナ嬢の自作自演なのだ。
幸い、断罪イベントにおいて、エドガー殿はお嬢様の罪状をつらつらと、それも日付まで含め、細かく読み上げてくれた。私は一言一句漏らさず、それを覚えている。この情報を利用すれば、先回って、事件を未然に防ぐことができる。そうすれば、婚約破棄も発生しない。
やるぞ。今日から私の戦いが始まるのだ。私は拳を握りしめた。
「シュヴァルツ、とりあえずポットを片付けましょうか」
*
その日の昼、お嬢様に付き添う形で、私はお茶会へと赴いた。どうやらエドガー殿の邸宅で、美しくバラの花が咲いたらしい。彼の招待により、お嬢様の他、数名の令息や令嬢が集まっている。
公爵令息であるエドガー殿と、侯爵令嬢であるミシェルお嬢様は、親同士が決めた婚約者である。エドガー殿は眉目秀麗、成績優秀と評判の方。彼ならば、お嬢様にも申し分ない。きっとお嬢様を幸せにしてくれるであろう。ルグノール家ご当主様、そして私もずっとそう考えていた。
しかし今、エドガー殿の隣には、お嬢様でない別の女が寄り添っていた。
「やあ、ミシェル。この子は伯爵家のニーナ。僕の幼馴染なんだ。病弱で屋敷に引きこもっていたんだが、ようやく回復してね。学園にも通えるようになったんだ。君への紹介がまだだったと思ってね」
「私が回復したのも、エドガーがいつもお見舞いに来て、優しい言葉をかけてくれたおかげよ。長い間ずっと支えてくれて、私、あなたには感謝してもしきれないわ」
女——ニーナ嬢は、まるで見せつけるかのように、エドガー殿の腕にしがみついている。
「初めまして。ミシェル・ルグノールと申します」
お嬢様は顔色一つ変えず、それだけ短く答えると、他の参加者たちの方へ挨拶に向かった。
「なんだか冷たい人ね。私、怖い……」
「気にしなくていいよ、ニーナ。ミシェルはいつもああなんだ」
二人の言葉を後に、私はお嬢様を追いかける。
お嬢様は感情表現がやや淡白な方でいらっしゃる。普段からあまり表情が動かず、声の調子が変わることもない。だが、決して冷たい方というわけではない。長年仕えていれば、細かな変化から表情を読み取れる。幼い頃からお嬢様を知るエドガー殿も、おそらくそうであるはずだとは思うのだが……。
そして、庭園の散策が始まった。エドガー殿はお嬢様そっちのけで、ニーナ嬢とべったりくっついている。ニーナ嬢は身体が弱いということで、側に付き添う人間が必要とのこと。
しかし、そのあまりの仲睦まじさに、周囲の令息令嬢の間で、ひそやかに目配せが飛び交っている。一番冷静なのはお嬢様だ。完全に放置されながらも、変わることのない表情で、静かにバラの花を見て回っている。
私は心の中で舌打ちをした。エドガー殿は頭が腐っているのか? 私のお嬢様よりも、あのような娘に目を向けるとは……。箪笥の角に小指をぶつけてしまえ……!
そんなこんなで、庭をぐるりと巡った後、テラスでお茶会が始まろうとしていた。エドガー殿の隣に座ろうとしたお嬢様を押しのけ、ニーナ嬢がその席を陣取る。エドガー殿は素知らぬ顔。お嬢様は眉毛をぴくりと動かしたが、黙ってニーナ嬢の隣の席に腰を下ろした。
メイドが紅茶を注いで回っていると、
「見て! あそこ、蝶々さんがいるわ。かわいいー!」
と、ニーナ嬢がおもむろに立ち上がり、向こうを指さす。
人々、ひいてはお嬢様まで視線をそちらに向けている。しかし、私だけは、ニーナ嬢の手を凝視していた。
覚えている。この時、最初の事件が発生する。ニーナ嬢の紅茶に、虫が入っていたという事件。隣に座っていたお嬢様が、こっそりと虫を入れたと疑われるのだ。
しかし——ほら、やはりそうだ。ニーナ嬢は、後ろ手でこっそりとカップを引き寄せている。この女、自分で虫を仕込んだのだ。その手から落ちた虫が、カップに入ろうとする。だが、それより早く、私は虫を掴み取り、素早くポケットの中に突っ込んだ。
さて、そんなことを知るはずもないニーナ嬢は、席に着く。そして、カップを持ち上げると、
「きゃあっ、虫が!」
と、甲高い叫び声を上げる。
「紅茶の中に、虫が入れられていて……。さっきまではいなかったのに、いったい誰が……」
震える彼女の背後から、エドガー殿、そして参加者たちがカップを覗き込む。しかし——
「そんなもの入っていませんわよ」
「ああ、どこにも見当たらないが……」
人々が首をかしげる。
「そんなわけなっ……!」
ニーナ嬢は澄み切った紅茶を見て、唇をかむ。
周囲が微妙な雰囲気になったのを察したのだろう。
「あっ、めまいが……」
と、ニーナ嬢は、エドガー殿めがけて倒れ込もうとする。
「大丈夫ですか、ニーナ嬢」
私はすかさずその身体を抱きとめた。この女に手を貸すのは癪だが、これ以上エドガー殿と接触してもらうわけにはいかないのでな。
私を見上げたニーナ嬢は、
「なんでお前なんだよ……」
と、小さく呟くと、ばっと身体を引いた。
その後は何事もなくお茶会は終了した。
「今日は大活躍だったわね、シュヴァルツ」
帰りの馬車の中で、お嬢様が言う。
「ニーナ嬢を助け起こしたりして。きっと彼女もあなたに感謝していることでしょう」
いつもと変わらない表情。しかし、長年仕えているからこそ分かる。お嬢様はどうやらご機嫌がよろしくないようだ。
おそらく、ニーナ嬢に思うところがあるのだろう。婚約者の傍らに陣取られ、平静でいるはずがない。お嬢様の憂いを晴らすためにも、私が頑張らなければ。
*
お茶会の後、ニーナ嬢はお嬢様と同じ学園に通い始めた。そして、本日の三限目の始め、ニーナ嬢の教科書が隠される事件が発生する。皆で教科書を探し回ったところ、お嬢様の鞄から教科書が出てくる、という筋書き。
これを防ぐ方法は簡単だ。私は予め教科書を購入した。これをニーナ嬢に気付かれないうち、その手元に置いてしまうのだ。
しかし、問題が一つある。執事といえども、さすがに学園内にまでは入れない。その上、学園は男子棟と女子棟は分かれている始末。女子棟をうろつけば、すぐに引っ張り出されることは確定だ。
こうなったらもう、あの手を使うしかない。
*
さて、私はごく自然に学園、そして教室に潜入していた。ターゲットのニーナ嬢は、現在席についている。少し離れた場所に、お嬢様も座っている。
休み時間は終わりに近づきつつある。動きがあるなら、そろそろだろうか——
「私の教科書がない……!」
その時、ニーナ嬢がいきなり立ち上がった。
「さっきまであったのに……。誰か知りませんか?」
今だ! 私は動いた。
「あら、ニーナさん。足元にこれが落ちていましたわよ、おほほ」
秘儀・女装、そして裏声。私は今、完璧なるクラスメイト令嬢である。
「え……」
ニーナ嬢が呆けているうち、私は教科書を机の上に置くと、風の速さで立ち去った。これで問題は解決。そう思われたその時、背後から物凄い勢いで迫りくる影が一つ。まさか、ニーナ嬢、私に気が付いて——
「シュヴァルツ、何やってるの……」
振り向くと、そこにはお嬢様がいた。
「何……と言われましても」
その時、私は気付いた。今の私が、女装学園侵入男——完全なる不審者であることに。
「制服が着てみたかったのね。だけど、年齢を考えてみましょうか。あなたはもう二十代も折り返しにかかってるの。もう学生にはなれないの。分かった?」
「はい。申し訳ございません。もうしません」
お嬢様に生温かい視線を向けられながら、私は大人しくそのお説教を聞いた。
*
さて、次だ。ニーナ嬢のパーティー用のドレスが引き裂かれる事件。おそらく、直前に自分で破っているのだろう。これも簡単。教科書と同じ塩梅で、ドレスもすり替えればいい。彼女のドレスがどういったものだったかは、記憶の中にある。予め同じものを購入しておくのだ。
私はドレス店に走り、記憶の中と同じドレスを発見、購入した。かなり痛い出費だった上、店のご婦人方から向けられる視線も痛かったが、私はそれに耐え、なんとか目標を達成した。
その後、自室に戻り、ドレスを箱から出し、最終確認をしている時、
「ねえ、シュヴァルツ」
と、扉が開いた。
ドレスを手に持った私。そしてお嬢様。両者が見つめ合う、謎の沈黙が流れた後、
「シュヴァルツ、さてはあなた……」
と、お嬢様が静かに口を開いた。
まさかばれてしまったのだろうか。私がニーナ嬢の自作自演を防いでいることが。
「目覚めたのね」
「え?」
「女子生徒の制服を着始めた時から、なんとなく気付いていたわ。あの時は突っ込まないでおいたけど。でも、そうならそうと、隠さずに言えばいいのに。私はあなたにどんな趣味があって構わないのよ」
どうやら、この状況がとてつもない誤解を生んでしまったらしい。
「ち、違います! 私にそのような趣味はありません!」
「それなら、どうしてドレスなんて買ったの?」
ぐ……。しかし、タイムリープのことは秘密。言うわけにはいかない。
「趣味です」
全てはお嬢様のため。そのためなら、私は己の外聞などかなぐり捨てる。
*
そしてパーティーの日が訪れた。上級貴族の家の者には、会場に各々準備室が設けられている。お嬢様はそこで身支度を整えた後、エドガー殿と待ち合わせる。二人が合流したところで、私はその場を離れ、ニーナ嬢の部屋へと向かった。
私は窓の外の壁に張り付き、こっそり部屋の中の様子をうかがう。既にドレスは切り裂かれている。ちょうどニーナ嬢が出ていったのだろう。私はドレスを素早く取り換える。
「私のドレスが破かれていたの……!」
「なんだって! ひどい、誰がそんなことを……」
その時、大勢の声と足音が近づいてきた。ニーナ嬢が、目撃者を大量に引き連れて戻ってきたのだ。私は急いで窓から隣の部屋へと移動する。
「見て! せっかく用意したドレスがぼろぼろに……」
ドアが開いた瞬間、ニーナ嬢はわっと泣き崩れた。
「あれ? 破れてないじゃないか」
しかし、きれいなままのドレスに、目撃者たちは眉をひそめた。
「こんなの……こんなの、おかしいわ! 私、絶対に見たんだもの!」
と、ニーナ嬢。
「でも、こんなにきれいな状態で……。そんなことありえるのかしら?」
ニーナ嬢はわなわなと震えた後、
「あっ、めまいが……」
と、お決まりのめまいを起こし、エドガー殿に向かって倒れ込む。
「大丈夫ですか」
しかし、私はまたもその身体を助け起こす。人々が騒いでいるうち、隣の部屋から出て、背後に回っていたのだ。まったく、この女はすぐに悲劇のヒロイン面をして、エドガー殿に接触しようとするから面倒くさい。
「シュヴァルツ、どうしてここにいるの? それと、さっさとその手を放しなさい」
せっかく婚約破棄回避への道は開けたのに、お嬢様はいよいよご機嫌が悪いようだった。
*
さて、私はこのように、全ての事件を発生前に防ぎ続けた。婚約破棄回避に向けた道のりは、どこまでも順調だと、私はそう思っていた。
しかし、突如として私の策は上手くいかなくなった。ニーナ嬢の自作自演は功を奏し、世の中では、確実にお嬢様の悪評がたち始める。
なぜだ? 何が違う? 私が干渉したことによって、過去の世界が変わってしまたのだろうか?
とにかく、これからは一日中ニーナ嬢を見張っていなければ。そうすれば、きっと尻尾を掴めるはずだ。
「実は、しばらくお休みをいただきたいのです」
「どうして?」
「それは……申し上げられません」
「ニーナ嬢に関係があるんでしょう」
いきなりニーナ嬢の名前が出て、私はたじろいだ。
「最近のシュヴァルツはずっとおかしいわ。ニーナ嬢にそこまで惹かれているの? あの方が倒れる度、いつも助けているものね。それに、思いつめた表情でずっと見つめて。女装して学園に忍び込んでまで、彼女に会いに来た。この前部屋にあったドレスも、彼女のものと同じだった。私が気付いていないと思った?」
「そんな、違います……! 私は決してそのような想いなど持っていません……! これには深いわけがあるのです」
「それなら、全て話しなさい。正直に。私はあなたの主人なんだから」
お嬢様はまっすぐに私の目を見つめてくる。私は昔からお嬢様のこれに弱い。
私はお嬢様に打ち明けた。タイムリープしていること。エドガー殿とニーナ嬢が共謀し、お嬢様を罠にはめ、婚約破棄を企んでいること。私がそれを阻止するため、奮闘していたこと。その全てを。
「ご安心ください。必ずや私がお嬢様の婚約破棄を回避します。ですから、今はしばしのいとまをいただけないでしょうか」
「それはできないわ。シュヴァルツ、あなたはずっと私の側にいなさい」
「なぜです? このままではお嬢様は、エドガー殿によって、婚約を破棄されてしまわれるのですよ?」
「婚約破棄? いいわよ。私、別にあの人のこと好きじゃないし。むしろ、そうなった方が嬉しいくらい。彼らのことは放っておきましょう」
「そういう問題ではないのです。婚約を破棄されることは、貴族女性にとって、死を宣告されるようなもの。こちらに非があったとされれば、なおさらのこと。次の縁談はつきづらく、このままでは一生結婚できないかもしれないのですぞ? なぜ幸福をどぶに捨てようとなさるのです?」
「あなたに私の幸せが、気持ちが分かると言いたいの?」
ミシェルお嬢様は静かにそう言う。何も表情は変わらない。だがこれは、怒り……だろうか。それはお嬢様が初めて見せる感情だった。
「確かに私には、お嬢様のお気持ちなど、何も分からないのかもしれません」
そう。私のやっていることはむしろ、お嬢様の望みに反することなのかもしれない。それでも——
「それでも私は、大切なあなたが大勢の前で辱められる姿など、見たくないのです……!」
なぜタイムリープしたのが自分だったのか。その理由が今分かった。あの時、一番絶望したのが私だったからだ。
大切なお嬢様が目の前で、侮辱され、断罪される。私は何もできなかった。お嬢様をお守りできなかった。その後悔が、私を過去へと連れ戻した。今度こそお嬢様を守り切り、そして幸せにするために。
「……私は私のやり方でお嬢様をお守りします。それが私の仕事です」
それだけ言い残し、私は屋敷を飛び出した。たとえお嬢様に嫌われたとして、私は責務を全うしなければならない。
*
私はニーナ嬢が訪れるであろう場所に先回りして、彼女が仕掛けをしにやって来るのを待っていた。やがて足音が近づいてくる。ニーナ嬢だ。
「そろそろ婚約破棄を突き付けてもいい頃合いじゃないか? 次の夜会で決行。それで決定だ」
しかし、その声はエドガー殿のものだった。
「ほんと、こうまで上手くいったのは、エドガーが手伝ってくれたおかげよ。私が一人でやってた最初の頃は、全然上手くいかなくて。あの女の側をうろちょろする執事が、いつも邪魔してきたのよ」
と、ニーナ嬢の声が言う。
「まあいいさ。どうせあの執事も、もうじき地獄を見るんだ。目の前で、主人が断罪されるんだからな。それにしても、あの表情が壊死した冷徹女、婚約破棄を言い渡された時、どういう風に焦り狂うか、今からちょっと楽しみなんだよなあ。泣いたら面白いんだけど」
「ええー、エドガーったら、ひどーい」
ニーナ嬢がころころと笑う。
「おいおい、あれに付き合わせられる身にもなってくれよ。笑顔の一つも見せないで、表情どころか、心まで凍ってるに決まってる。そもそも、僕はあいつのことなんて初めから嫌いなんだ。せいぜい性悪女にふさわしく、皆に悪女と蔑まされればいい。そうすれば、僕はいい具合にニーナと結婚できるだろうからさ。悪女に苦しめられた、かわいそうな二人ってことでね」
なんということだろう……。私は息が止まるかと思った。エドガー殿は、最初からニーナ嬢とぐるだったのだ!
事件の未然化が上手くいかなくなったのは、ニーナ嬢の自作自演に、エドガー殿が手助けするようになったため。エドガー殿という要素が加わったことで、私の未来の知識と異なる展開が起こるようになったのだ。
「おい、誰だ、そこにいるのは!?」
しまった。私は慌てて逃げ出した。
苦しい。胸が苦しくて、張り裂けそうだ。
お嬢様への無礼な言葉の数々。私は怒りに燃えている、はずだった。それなのに……。それなのに、なぜ私の胸はこんなにも高鳴っているのだろう。
エドガー殿がろくでなしである。あの男はお嬢様にはふさわしくない。だったら、いっそのこと婚約を破棄し、お嬢様はずっと私の側に……。
その時、私は自分のうちにある薄暗さに気付いた。お嬢様が婚約破棄されたあの時、本当は、私は嬉しいと思っていたのだ。お嬢様が今、不幸のさなかにある。それを知りながらも、お嬢様をエドガー殿に渡さずに済むことが、嬉しくて仕方なかったのだ。これからもずっと私だけのお嬢様でいてほしいと、邪にも考えてしまったのだ。
私はそんな自分が許せなかった。今なら分かる。私の真の後悔とは何だったのか。
私はお嬢様の専属執事だ。お嬢様の幸せを第一に考えなければならない。しかし、私はお嬢様の幸せなどとうに見えていなかったのだ。自分の欲望と体裁の狭間で、ただいたずらにもがいていただけなのだ。まったく、職務怠慢にも程がある。
やり直す機会を与えられたのは、今度こそ、私が本当にすべきことを成し遂げるためなのだ。私は拳を強く握りしめた。
*
「お嬢様、よろしいでしょうか」
屋敷に戻った私は、部屋の中に一人でいたお嬢様の隣に立った。
「今までのこと、申し訳ございません。私はいつの間にか、大切なことを見失っておりました。ですが、もう一度、私を信じてはいただけないでしょうか。今度こそ執事として、必ずお嬢様をお守りし、その幸せのために尽力いたします」
勝手に暴走し、散々に迷惑をかけた。そんな私の信用など、とうに地の底に落ちている。しかし——
「信じるわ」
お嬢様はあまりにもあっさりとそう言った。
「婚約破棄を回避しようがしまいが、あなたの考えるようにすればいい。私の全部をあなたに任せましょう。だって、それが主人の仕事だもの。あなたが私の執事として、精一杯その職務を果たすと言うなら、私も全力であなたを信じる。そうでしょう?」
当り前のようにそう言うお嬢様に、目頭が熱くなる。本当に素晴らしい主人を持ったものだ。せめて私も彼女に恥じない従者でありたい。
*
そして、ついに婚約破棄の日が訪れた。できるだけ大勢の面前で、お嬢様を辱めるつもりなのだろう。エドガー殿は夜会の日を選び、そして断罪を始めた。傍らに付き添うのはニーナ嬢。前回と同じく、罪状をつらつらと読み上げ、いかにお嬢様が悪女であるかを強調する。
「ミシェル・ルグノール、貴様との婚約を破棄させてもらう!」
最後、エドガー殿は広間に響き渡る大声で、そう言い放った。
「その婚約破棄、謹んでお受け……」
お嬢様が口を開くが、
「失礼ですが、エドガー殿」
と、私はそれを遮った。
「お嬢様がニーナ嬢に嫉妬なさっていたというのは、いったい何を根拠におっしゃるのです?」
「証拠ならある!」
エドガー殿は、勝ち誇った表情で紙の束を取り出した。
「ミシェルから僕に送られてきた手紙の数々だ。どれもニーナへの悪態が書き連ねられている。ほら、ここにミシェルのサインがあるだろう? これが何よりの証拠だ!」
婚約者であるお嬢様は、エドガー殿には何通も送っている。サインなどいくらでも偽造できる。しかし、これも全て想定済みだ。
「悪態ですか? そのようなもの、私は見覚えがありませんが」
「何を言うのだ? 貴様が手紙の内容を知っていないのは当り前のことだろう?」
「いいえ、お嬢様が出される手紙には、全て私が目を通しております。そして、針を刺して、サインの一部に穴をあけているのです。偽造を防ぐために。さて、その手紙が本物だとおっしゃるのなら、穴がきちんとあいていることを、我々に示していただけましょうか」
エドガー殿は何も言えなかった。ただ手紙を握りつぶし、わなないていた。
「なるほど、手紙は偽造だったというわけですか。ですが、そうなると、手紙を偽造し、お嬢様を貶めてまで、婚約破棄をしたい理由がそちらにある、ということではありませんか。ふーむ、いったい何なのでしょう。そう、例えば、己の不貞を誤魔化すため……とか。私のような下賤の者は、そのような考えしか思い浮かびませんね」
そう言って、私は集まった人々をぐるりと見回した。
「そもそもこの件は、婚約者がいながら、あのように節度なく振る舞う、あの二人が悪いのではないか?」
「それに、ニーナ様が先にミシェル様に張り合っていたような」
「手紙まで偽造するなんて、陰湿にも程があるぞ」
「いじめられたと言っているが、本当はそれらも全て自作自演なのではないか? 手紙と同じで」
「自分たちの浮気を正当化するため、婚約者をはめるとは、汚いやり方ですこと」
お嬢様に向けられていた冷たい視線。その矛先が、徐々にエドガー殿、そしてニーナ嬢へと向けられていく。
「め、めまいが……」
ニーナ嬢はお決まりのめまいで倒れたが、エドガー殿はただわななくだけで、まるで動こうとしない。結果、ニーナ嬢は盛大に頭を打った。
「と、とりあえず、今回の婚約破棄は取り消しだ。嫌がらせについては、ニーナに騙されてしまっただけなんだ。僕は悪くない」
不利を悟ったエドガー殿は、ニーナ嬢を切り捨てにかかる。まったく往生際の悪いことだ。
「いいえ、その必要はございません」
私はエドガー殿に向かって言い放つ。
「この婚約、こちらから破棄させていただきます」
エドガー殿は最初、ぽかんと口を開いていたが、
「は……? 貴様に何の権限がある? 貴様はいったいミシェルの何だと言うんだ?」
と、早口にまくし立てる。
「私はミシェルお嬢様の専属執事です。お嬢様をお守りする義務があります。そして、あなたのような愚劣な人間には、私の大切なお嬢様はお譲りできないと言っているのです」
エドガー殿の顔が、みるみるうちに赤黒く染まっていく。
「この無礼者が! 調子に乗って! こちらこそ破棄してやる! 身の程をわきまえない従者を連れて……」
「さあ、帰りましょう、お嬢様。お嬢様の貴重なお時間を、これ以上この馬鹿共のために裂かせるわけにはまいりませんので」
ぎゃあぎゃあわめくエドガー殿を傍目に、私はお嬢様の手を引くと、そのまま大広間を出ていった。
結局、婚約破棄は回避できなかった。それでも後悔はない。私なりのやり方でお嬢様を守り抜くことができたのだから。
お嬢様が婚約破棄を望まれるなら、それをかなえてさしあげるのが務めというもの。だとして、お嬢様への侮辱を放置するわけにはいかない。また、お嬢様自ら婚約を断ったとなれば、あらぬ噂が広まってしまうこともあり得る。婚約破棄は愚かな使用人が独断で決めたこと。それで良い。全責任は私にある。これが私にできる最大限だ。
「勝手なふるまいをしてしまい、大変申し訳ございません。今回の件、私の命一つで解決するなどとは思っておりません。それでも、私にできる最大限の責任の取り方をさせていただく所存でございます」
このような失態、当主様によるお手打ちがいいところだろう。
「そうね。あなたには責任を取ってもらうわ」
お嬢様は静かに言い放った。
「シュヴァルツ、あなたは責任を取って、これからもずっと私の側にいてちょうだい。分かったわね? お父様には、私がなんとか言っておくから。頑張ってくれた最高の従者のために、主人もせいぜい頑張るわ」
はっとして見つめたお嬢様の顔が、ぐにゃりと歪む。熱い筋が頬を伝う感触。気付けば、私はぼろぼろと涙を流してしまっていた。
「は、はい……。誠心誠意仕えさせていただきます」
「そういえば、私、あなたに言わなければいけないことがあったんだった。私、好きな人がいるの。だからこの後も、結婚はできないわ」
「そうですか……って、好きな男ですと!?」
明かされた真実に、私は愕然とした。
「わわわ、私は認めませんぞ! そのようなどこの馬の骨とも知れぬ男をお嬢様が! いやああ! 耐えられない! いったい誰なのです? どんな男なのです?」
「私のために、いつも頑張ってくれて、いつも味方でいてくれる、ちょっとぽんこつだけど、とっても頼りになる、誰よりも私を大切にしてくれてる人」
そう話すお嬢様の頬は、薄っすら赤く染まっていた。そうか……。その男は、お嬢様にこのような表情をさせる人物なのだな……。
私の負けだ。完敗だ。
「分かりました。お嬢様がそこまでおっしゃるのなら、このシュヴァルツ、一肌脱がせていただきます。どのような障壁があったとして、必ずやお嬢様の恋を成就させてみせます」
どうやら、私のやるべきことはまだまだ残っているらしい。いや、むしろ、本当に忙しいのはこれからだ。
お嬢様は、
「今の言葉、絶対に忘れちゃだめよ」
と、いつもと変わらぬ表情で、しかし確かに微笑んだ。
最後までお読みいただきありがとうございます。久しぶりの短編になりました。最近は長編の連載も始めたので、よろしければそちらもお読みいただけると幸いです。