五才で婚約破棄されましたが、六才からが本番です。
ある日、貴族幼稚園でいじめがはじまった。
その名も「婚約ごっこ」といういじめだった。
「なあおい、俺と婚約しようぜ、サタンシー」
「――こんやく? ……うん、べつにいいよ」
誘われるままにうなずく幼女サタンシーを見て、同じ組の第二王子ヘッケスが満足そうに笑って言った。
「よし、じゃあいまからお前は俺の婚約者だからな。婚約したら、婚約者の言うことはなんでも聞くんだ。わかったな?」
「……うん、わかった」
「はははっ、しっかり頼むぞ、俺の愛しい婚約者」
第二王子ヘッケスはかしこかった。なにしろ幼稚園のお遊戯とは別に、三才の頃から宮廷学術師数名による個別エリート教育を城の自室で受けている。彼に媚びへつらって取り巻く他の園児が、全員バカに見えた。
王子の自分にゴマをすってこない園児はサタンシー嬢だけだが、こいつがまた群を抜いてバカだった。
発育も発達もあきらかにまわりから遅れていて、小ズルい女児たちのようには知恵も色目も使うことはできず、いつもほうけたように一人遊びばかりしている。
バカは嫌いだ。見ているだけで虫唾が走る。
だいたいこいつは、生まれだって卑しいんだ。
サタンシー・ゴルモワール。
勇者が首を討ち取ったあの悪名高き魔王ゴルモワールの、忌まわしき一粒種。
世界を恐怖と絶望に陥れ、さんざん悪行をしでかした大罪者の、その娘だ。
長い黒髪は縮れて汚らしく、糸目からときおり覗く瞳は虚ろながら邪悪な紫。
いずれも魔王の遺伝だ。
償っても償いきれない罪業をこいつは背負っている。
だから王子ヘッケスは、わからせてやることにした。
「おい、サタンシー。婚約者なら、俺の鞄を持て。ついでに、お友だち皆の荷物もな」
「何を遊んでるんだサタンシー。婚約者の許可もなく勝手なことをするな。お前は俺の言ったことしかしてはいけないんだぞ。ここにいる全員にあやまれ」
「早く食べ終えろよサタンシー。婚約者の俺が盛ってやったリゾットだぞ。ウジ虫が入ってたって喰えるだろう? 喰え」
「顔をあげるな。靴を舐めろ。俺と婚約出来て幸せですと言え。違う、ほら、もっと笑って。そうだ、もっとだ」
婚約ごっことは、我ながらいい思いつきだった。
取り巻きの園児たちからも絶賛だ。女児も男児も皆がみな、かしこい王子ヘッケス様を称え敬い、彼の命令で地べたを犬のように這うサタンシーを見ながら大笑いした。
サタンシーはバカだから、婚約者の俺の言うことならなんでも聞く。
第二王子ヘッケスはその正義感を卒園まで見事につらぬき、大罪者魔王の娘を罰しに罰し抜いた。
そして仕上げに、卒園パーティーでこう言い放ってやった。
「聞け、サタンシー・ゴルモワール。罪深く卑しい魔王の娘よ。俺、第二王子ヘッケス・サルベンドは、今日この時をもってお前との婚約を破棄する。どうだ、わかったか!」
「――こんやく、はき? ……うん、いいよ。わかった」
たのしい卒園パーティー会場での婚約破棄劇。
サタンシーを取り囲む、王子とお友だち皆の爆笑。
それは奇しくも、サタンシーが六才の誕生日を迎える前日のことだった。
♢
卒園パーティーからの帰り道、サタンシーはひとり泣いた。
従者や家族のお迎えもなくトボトボと歩いて帰る園児はサタンシーだけ。
むつかしいことはわからなかったが、自分が王子様にもお友だちにも好かれてはいなかったのだと感じた。
みんなが喜んでくれていたはずの、たのしい「婚約ごっこ」も終わってしまった。
こんやくしゃ、いや、元婚約者の王子ヘッケス様の言うことはなんでも聞いたつもりだ。
でもきっと、うまくできていなかったのだろう。
だから婚約を破棄されてしまった。
どうして自分はこんなにバカなんだろう。
王子様の言うとおりだ。
他のみんなとくらべて、発育も発達も遅れているバカで無能のサタンシー。
世間に迷惑をかけ、首を討ち取られた大罪者――魔王の、娘。
生まれの卑しい魔王女。
城へ帰っても、サタンシーを慰めてくれるあたたかな家庭などない。
それどころか、廃城と化し荒れ果てたお家には誰もいない。
勇者様のキセキと平和軍のしゅくせいによって、魔王家は一族郎党皆殺しにされてしまった。その腐臭が、城内のどこにいても充満している。
サタンシーは「みせしめ」の意味で生かされているに過ぎないそうだ。
見せしめという言葉の意味はサタンシーにはむつかしかったが、謁見の間にある玉座の背もたれ――そのてっぺんに突き刺された父王の生首が彼女にそれを飲み込ませた。理屈ではなく圧倒的な暴力によって。
おとうさまとは、おはなししたこともない。
だきしめてもらったことも。
でも、ちからのかぎりブッてくださったことは、いっぱいある。
うれしい、というのは、ああいうきもちのことだろうか。
おとうさまは、にんげんたちとのりょうちあらそいでおいそがしかった。
それでも、ゆびさきからわたしをうんでくださった。
ありがとう。ありがとうございます。わたしはしあわせです。
サタンシーは涙に疲れ果て、やがてそのゴミ溜めのようなお城の床で眠りにつく。
幼き寝息をよそに、漆黒の空を暗い星々が巡り、日付が変わり、月がゆっくりと傾いていった。
目が覚めると、魔王女サタンシーは六才になっていた。
もちろん誰も、お誕生日おめでとうとは言ってくれなかった。
♢
ほどなく迎えた貴族小学校の登校初日。
新一年生の教室には、幼稚園時代と変わらぬ笑い声が満ちていた。
ほとんどがエスカレーター式に進学した令嬢令息ばかりだ。顔ぶれはほぼ同じ。
とはいえ、入学式用のきらびやかな衣装に身を包み、大人になった気分ではある。
婚約ごっこは破棄したが、やすやすとサタンシーを許してやるつもりはない。そうだろう、皆?
第二王子ヘッケス様があおると、媚びへつらうたくさんのクラスメイトは朝から大いに盛り上がった。
まだ一向に、教室へ姿を見せないサタンシー。彼女の机に皆でたのしく落書きをした。死ね。クソ虫。バイタ。うんこ魔王女ちゃん。あばずれ。入学おめでとう、ゴミお魔〇子。あやまってね♡
仕上げは第二王子ヘッケス殿下自らが直々に。
サタンシーの机の上へ、花瓶に生けた枯れかけの白い切り花をゴトリと置いてやった。
今朝一番の喝采。第二王子殿下、万歳! 素敵、ヘッケス様‼
教員席にはすでに担任教師も座っているが、王家の者に逆らえる立場ではない。
王子は満足して自分の席に着き、頬杖をつく。
さあ、あのバカのサタンシーがどんな顔をするか見ものだぞ。
ガラ……、と引き戸が開く。
あいつだ。あいつに違いないが、わざわざ振り向いてはやらない。
あくびまじりの王子が眺める席に、そしてサタンシーがやって来た。
机上の白い花を見るその姿は、幼稚園時代と変わら――……え?
「どなたか存じませんが、素敵な御花を有難うございます。身に余る品のようですが、謹んで」
場を一変させるような絶世の美少女が、机上の白い花をそっと撫でた。
背丈は最上級生並みに高く、手足は人形のようにスラリと細く長く、肩に流した黒髪も艶やかに。
白磁の小顔がたしかな品格でもって王子にサラと傾いた。
髪のすき間から、美貌を飾る可憐な角が覗く。
切れ長の目もと、底まで澄んだ紫の瞳が、間抜け顔の第二王子ヘッケスを映している。
「そうですか、では殿下と御友人の皆様がこの花を私に。いつぞやも大変お世話になりましたのに、至らぬ元婚約者になんと慈悲深きこと。畏れながら、では私も御礼代わりの品を」
ゴロンチョと生ぬるい音がして、クラスメイトたちの悲鳴があがった。
全員の机それぞれに、ある大罪者の生首が転がった。
魔王ゴルモワールの生首が。
「そう大袈裟にお歓び頂いては、かえって恐縮してしまいます。もちろんその生首は本物ではございません。私がこれから殿下をはじめ皆様にお贈り致しますのは、ただの悪夢なのです」
皆の机に転がる生首の口が、サタンシーの囁きに合わせて動いた。
「生首の目をよくご覧ください。いいから黙って見るんだよこのクソガキどもが! そうです、とても綺麗でしょう? いまからその瞳に、あなたがたの最も見たくないもの、最も恐れているものが映ります。お一人おひとり、違ったものが映るはずです。さん、はい」
絶叫が轟く。子供でいっぱいの教室に。
あるものは泣きわめき、あるものは嘔吐し、またあるものは狂ったように懺悔し命乞いをする。
ちなみに、第二王子ヘッケスは小便を漏らした。大便も少し。
「良かった、御満足頂けて。本当はこのサタンシー、皆様にちゃんと悪夢を見せて差し上げられるか少し不安でしたの。いくら『悪夢』が魔王家の御家芸だと言っても、私はまだ六才になりたて、魔王女として覚醒したばかりの、ヨチヨチ歩きのおバカさんなのですから。恥ずかしながら、魔の数字『6』の年齢を迎えてはじめて魔王女の血と力が覚醒することさえ、自分でもこうなってようやく悟りましたのよ」
サタンシーはユーモアを交えてそう言ったのだが、誰も笑ってくれなかったので自分で少し笑った。それから自らのはしたなさを恥じた。もっと謙虚にならなくては。
「これからの六年間、私には皆様とともに学びたいことがたくさんございます。ご存じの通り、私の父は大罪者です。魔王でありながら『悪夢』の用い方を誤り、世間に多大なるご迷惑をお掛け致しました。その罪過のすべてはいま、この魔王女サタンシー・ゴルモワールが負っております。私は、同じ轍を踏みたくはない。言うまでもなく、故あって皆様に生かされた命です。だからこそ学びたい。この異能の、『悪夢』の正しい使い方を。私は五才で婚約破棄されましたが、むしろ、六才からが本番なのです」
分をわきまえつつも、泰然とした魔王女サタンシー。
彼女の声明に、今のいままで教員席で腰を抜かしていた担任教師が遅れに遅れてどうにか頷いた。
チャイムが鳴った。
♢
昼休憩。
校舎裏の片隅にポツンと膝を丸め、魔王女サタンシーはランチボックスをひろげた。
これまで料理を教わる機会もなかったので、持ってきたのは魔樹の実を煮詰めたジャムとカビかけの黒パンだけだ。
学ぶことは多そうである。
咀嚼に集中していると、彼女の隣に誰かが座った。
爽やかなそよ風のような匂いがした。
男の子だ。でも、幼稚園にはいなかった子。
「さっきのはすごかったね。あれが、悪夢か……」
サタンシーは気付いていた。
彼女が教室で悪夢を発動している間、一人だけまったく物怖じせず、碧い瞳を見開く男子生徒がいたことを。
それが、彼。
名前は知らない。
「ラフィエス・セイクウェルだ。勇者セイクウェルの息子。つまり君にとって僕は、親の仇だね。どうぞ宜しく。名前で呼んでくれていい。僕も君を魔王女ではなく、サタンシーと呼びたいから」
嫌味のない仕草で小首を傾げるラフィエス。
急成長したサタンシーより、背は少しだけ低いだろうか。だが不思議と頼りなさは感じない。
美貌にかかる細い金髪は、涼しげな目元のやや上で切り揃えられている。
左目の脇に小さな青あざのような紋章がある。
紋章の意味は、勇気。
「あなたは悪夢が恐くないのね、ラフィエス?」
「まさか。ここへ来るまで何度も膝が震えたよ。今朝がたサタンシーが見せてくれた悪夢のおかげでね」
「……それはどうも」
そのサタンシーの昼食をチラと見て、選ばれし勇者の息子が言った。
「何を食べてるの?」
「魔樹の実を煮詰めたジャムと、カビかけの黒パン」
「ふうん。ひとかけ、もらってもいい?」
「? ええ、どうぞ」
「じゃあ、さっそく――うむ……、複雑な家庭の味がするな」
サタンシーは思わずクスリと笑った。
いや、まじめな話さ……とラフィエスも横顔で笑う。
「うちだってかなりキツイんだぜ。勇者の称号を得て以来、父さんは人が変わってしまったみたいだ。大賢者の母さんも。いまや二人は、この世界で正しいのは自分たちだけだと思ってる。なにしろ世界を救った勇者セイクウェル様と、その妻にして大賢者シレーネ様だからね」
皮肉っぽく上げかけた口角を、ラフィエスは途中で止めた。
自分を恥じているのだ。
「勇者セイクウェルの栄光を汚すな。僕に期待されているのはそれだけだ。そんなこと言われたってさ、父さんや母さんの時代とはもう世界が違う」
それはサタンシーも考えていたことだった。
世界が変わってしまったとき、残された自分はどうすればいいのか。
答えを見出すには、まだきっとたくさんのことを学ばなくてはならないだろう。
でももし、学んだ先に答えなどなかったとしたら?
今朝は皆の前で偉そうなことを言った自分だが、不毛な未来を想像すると実に足がすくむ思いだ。
「――でも」
ラフィエスが呟いて立ち上がり、こちらを振り向く。
雲の切れ間から太陽が覗き、校舎裏にサッとまぶしい陽が差す。
「でも、少なくとも、『勇気』は残されている。この世界にも」
差し伸べた手が、震えようとも。
見つめ返す瞳が、たとえ揺らいでいようとも。
僕らは――
私たちは――
生きていかなくてはならない。
二人は手をとりあって、そして新たな物語へ歩き出した。