nemeless
ジルの部屋の前のドアをノックする。乾いた音がした。
一瞬遅れて部屋の中から「どうぞ」という声が聞こえてきた。それを確認してから、ドアの傍らに控えている壮齢女性の使用人に目を向けた。使用人は手で僕に部屋の中に入るように促してきた。僕は小さく頷き、ドアを静かに開けて、部屋の中に足を踏み入れた。
ジルは窓辺に設置されたベッドの上で、上体を起こしたままこちらを見つめていた。ドアを閉めて、僕はジルの傍へと近寄る。
「駄目だよジル。ちゃんと横になってないと」
僕はジルの肩にそっと手を乗せて言った。
「……このままがいい。横になってるとアルとお話ししづらいもん」
「ダーメ」
そう言うとジルは渋々ながらも素直に横になってくれた。だけど口元が隠れるほど深く布団をかぶり、少し拗ねるような表情を浮かべる。その様子に思わず苦笑いをしてしまう。
ベッドの横に置かれた木製の小さな椅子に腰を下ろして、ふぅと小さく息を吐いてからジルの顔を眺めた。色素の薄い、青白の顔。頬は痩せこけていて、桃色だった唇は寒々しく紫に染まっていた。僕と同じ顔を持って生まれた、僕と双子の彼女。だけど、今となってはその顔は不憫なほどに変貌を遂げていて、かつての面影はとっくに失われてしまっている。
「……」
ここに来る前に色々考えたのだが、いざ彼女を目の前にすると何を話すべきか思いつかない。言いたいこと、伝えたいことはたくさんある。しかしそれをどう伝えればいいのか、土壇場になって分からなくなってしまった。
僕がなかなか言い出せないでいると、静かな声でジルの方から話を切り出してきた。
「私、もう長くないんだって」
彼女はか細い声でそう言った。それを聞いて僕の心臓が、どくん、と小さく動揺した。
「……知ってる」
前々からジルの命がいつまで保つか分からないと医者から聞いていた。それでもいざその時が来るとなると、身を引き裂かれるような気分になる。
「今日は、父さんから別れの挨拶をして来いって言われて来たんだ。多分、これっきり僕は君に会うことが出来なくなる。死に目にも会えない。だから……」
「そっか……。うん、仕方ないよね」
彼女は顔を陰らせ寂しげに呟いた。
僕とジルの家系にはあるしきたりがある。その家系に連なる者が絶対遵守しなければならない重大な決まり。
それは、双子のどちらかに不幸があった時のものだ。
当家では双子の一方が亡くなることは大変不吉なものとして恐れられている。元々僕たちの家系は血筋的に双子が生まれやすいらしく、これまで何組もの双子が存在したそうだ。そしてその双子の代には決まって家が栄えた。何かの事業に成功したり、有力な政治家を輩出したりと家の繁栄に大きく貢献した。そのことから双子が生まれることは大変歓迎され、僕たちが生まれた時も大層親戚類から喜ばれたと聞いている。しかし、双子の一方が欠けたとなると話が変わってくる。
僕達の一族の中では、双子の片方が死ぬともう片方の魂をあの世への道連れにすると信じられている。これは生き残った双子の片割れが、放心状態に陥ったり、まるで人が変わったかのように粗暴になったり、中には犯罪に走ったりしたことに端を発するらしい。このことから家の者は、きっと彼らは死んだ者に魂をみちづれに持って行かれたに違いないと思うようになり、双子が欠けることをとても恐れた。
しかし、ある日これに関しての対処方法が、著名な占術師から授けられた。
その方法とは生前の双子の絆を断ち切ることだった。つまり、二人の繋がりを完全に無くしてしまうこと。
これが当家でずっと信じられてきたため、僕とジルはこれを最後に、永訣を強いられることになってしまった。
「……ジル、僕に何かやって欲しいことはないかな。今、この場で出来ることに限られるけど、僕に出来ることならなんでするよ」
「べ、別にそんな。やって欲しいことなんて――」
「なんでもいい。君のために何かをしたという事実を、出来るだけ残したいんだ」
僕が少し強い語調でそう告げると、ジルは少し照れくさそうに、
「じゃあ、……手を繋いでくれる?」
と言った。「お安い御用だ」と微笑み、僕は快諾した。
彼女の手を握ると、その手は枯れ枝のように細く、石のように冷たかった。その手を温めるように両手で包みこんでやると、ジルは安堵するように穏やかな表情をした。
「アルの手は、あったかいね」
「ジルが望むのなら、もっと温かくなるよ」
僕がそう言うとジルは「もう充分あったかいよ」とクスクス笑った。弱々しくも明るい笑顔だった。
「……アルは私のために充分色んなことをしてくれたよ。私のために外のお話を聞かせてくれたり、一緒に本を
読んでくれたり、寝るまで一緒にいてくれたり」
「僕は、……君のためになれたのかな?」
「うん。とっても。だから、私はアルと一緒にいられて幸せだったよ」
そう言うジルの表情は本当に優しくて、慈悲深く僕の不安を和らげてくれた。
「僕も、ジルと一緒で幸せだった」
それだけ言うと、僕はジルから手を離し立ち上がった。これ以上彼女と居ると泣いてしまいそうだったからだ。僕は彼女の前では泣きたくなかった。幸せだったのだから、出来れば笑って別れたい。
ドアの前まで歩いていって、ドアを開く前にジルの方を振り返った。
「ジル」
僕が呼びかけると「なに?」と返してきた。
「……ごめんね」
「……んん。私、本当に幸せだったんだよ。だから、ね?」
「うん……」
彼女に何て言っていいのか分からず、僕はそのままドアを開けてジルの部屋から出た。何故か彼女に会う前よりも、もやもやとした煩わしい感情が居座っていた。
部屋を出るとすぐに先ほどの使用人が僕に近寄ってきた。
「ジル様とのお別れは済みましたか?」
「ああ……」
僕が呟くようにそう言うと、使用人は「そうですか」と淡々として返した。
「それでは、失礼ですがジル様から何か受け取っていないか、確認させていただきます」
そう前置いて、使用人は僕の衣服をまさぐった。ポケットはすべて裏返し、上着どころかシャツまでも脱がされた。そうして使用人は、徹底的に僕の衣服の中を点検した。
すべて調べられると、ようやく僕は使用人から解放された。僕はぼんやりした頭を左右にふらつかせて、自室に戻った。
部屋の中は実に寂しいものであった。かつてあった様々な家具類はほとんど撤去されており、必要最低限の物しか置かれていない。まるでここが、自分の部屋ではないような錯覚を覚えた。
撤去された物はすべて、ジルと関わりのある物。これもまたしきたりに則ったもので、僕と彼女を繋ぐものはすべて失われてしまった。彼女と一緒に読んだ本も、彼女を招き二人並んで眠ったベッドも、彼女から誕生日プレゼントにもらった可愛らしいアクセサリーも、なにもかも。彼女との思い出が少しでもあるようなものは容赦なく廃棄され、僕とジルの間は徹底的に引き裂かれた。もう手元には、彼女との思い出の品など一つも無い。
中に入って、撤去された物の代わりに置かれた新しいベッドに、ばたりと倒れ込む。ぽすっと静かな音に包まれた。ふかふかのマットに滑らかな肌触りのシーツ。柔らかい。だけど温かくない。
なんだか今日はもう疲れた。僕は目を閉じ、そのまま沈むように眠りに就いた。
それから三日後に、ジルは死んでしまった。
勿論僕はその場に立ち会えなかった。ジルの訃報は事後的に父さんの口から伝えられたが、それはあまり現実味を帯びて感じなかった。すごく悲しくて、寂しいはずなのに、それがどこか僕の知らない遠い所で起きたことであるような、漠然とした痛みだけが湧き出た。
本日、ジルの葬儀が執り行われる。当然、僕が参列することはできない。葬儀は街の大教会で開かれるため、他の親族はそちらに出かけていて、僕だけが屋敷に取り残されている。
葬儀に出席できないのだから、せめて今日一日彼女の部屋で彼女のことを悼みたいと思ったのだが、それは許可されなかった。彼女の部屋は厳重に封印されていて、入ることが出来ない。
だから僕は中庭のベンチに座ってぼんやりと過ごしていた。中庭にはジルの部屋の窓が面している。せめてここで彼女の追悼を行おうと思った。
彼女の部屋の方を眺めながら思う。ジルの存在が、僕の中で段々希薄になってきている、と。彼女との思い出の品はすべて取り上げられてしまった。そういえば、近々彼女の部屋を塗り固めてしまうことも決定したらしい。
彼女が生きていた証拠がひとつ、またひとつと消されていく。
ああ、彼女との思い出に溺れたい気分なのに、僕にはすがりつく物が何一つもない。僕がこれからどのようにしていけばいいのか。
残された道は二つ。何にもしがみつくことが出来ずにこのまま溺れ死ぬか、溺れないようにただがむしゃらに生きていくか。ジルが生きていたらどちらを望むだろう――なんて、答えは聞くまでもないか。
ぽつぽつと雨が降り出して来た。懐中時計で時間を確認してみる。かれこれ三時間もここにいたようだ。
「……屋敷の中に戻ろうか」
誰にでもなくそう呟き、僕はベンチから立ち上がった。中庭を横切り、庭内を四角く縁取る植え込みに沿って歩く。しとしとと雨に濡れた葉が滴をこぼしていた。それを何気なく眺めていると、植え込みの中に何やらゴミらしきものがあるのを発見した。なんだろうと思い、草をかき分けて手に取ってみると、それはくしゃくしゃに丸められた紙きれだった。広げてみると、それは上品な装飾が施された便箋だった。そして、その中央には小さな文字でたった一言。
「…………」
僕は手紙の落ちていた場所から、真っすぐ上の方へと視線を移した。そこにはあったのはジルの部屋だった。
便箋には宛名や差出人の名前は書かれていない。だからこれを誰が書いたか、またこれが誰に向けての言葉なのかは分からない。それでも……。
あの日、ジルと別れた直後に感じた、あのもやもやの正体がようやく分かった。
――そうか、僕もこう言えばよかったんだな。こんな簡単なことでよかったんだ。
「……ありがとう」
ジルとの思い出はすべて失ってしまった。だけど、僕たちはこうして別れた後も思いを重ねることができた。これだけで、僕は溺れずに生きていけそうだ。
ぽつりぽつりと雨粒が便箋を濡らし、紙面がじんわり滲んだ。僕は慌てて便箋をポケットの中に突っ込んだ。
最後に、僕は彼女の部屋を仰ぎ見て、その場を立ち去った。
遠くの空では雲が大きく裂けて、太陽がそこから顔をのぞかせてるのが見えた。