2:現在と現実
「多分さ、私は子供なんだろうね」
飲み始めてから数時間後、何本目かの缶を空けたところで早瀬は突然そんな事を口走った。
「何だよ、急に」
「あんたはさ、覚えてる?小学生の時、担任の先生が言ってた事」
―――トクン。
瞬間、小さく心臓が跳ねた。
忘れていない。と言うか、ついさっき思い出したばかりだ。今の自分をそのまま表したような、あの言葉。
「………『大人になるとは、頭打ちを受け入れる事だ』」
「そう、それ。ちゃんと覚えてたんだ」
「………さっき、なんとなく思い出したんだよ」
「そうなんだ。………私もさ、今あんたと話しててなんとなく思い出したんだ」
そう言って缶を傾ける早瀬の顔は笑っていたが、その笑顔はどこか自嘲的にも見えた。
「………「成長」出来るのは子供の間だけで、大人になったら今まで「成長」だったそれは「老化」に変わる。今にして思えば、小学生の子供に話す内容じゃ無かったよね」
「それは………まぁ、確かに」
「あの頃はまだピンと来なかったけど、最近になってちょっとだけ意味が分かって来たような気がするんだ」
早瀬はやはり自嘲的な笑みを浮かべたまま、手に持っていた缶をくいと傾ける。
しかし中身がもう入っていなかったらしく、小さく溜め息を吐いてそれを床に置いた。
「………これは私の解釈なんだけど、あの時先生が言いたかったのって「現実を見て生きろ」って事なんじゃないかと思うんだよね。
未来に夢を見てて良いのは子供の間だけで、大人になったら不可能を受け入れて可能だけと向き合って生きる。それが人として当然の生き方だ―――そう言う意味だったのかな、って」
「それは………」
「さっきは偉そうな事言ったけどさ、私もなんとなくはもう分かっちゃってるんだ。
―――ここが私の限界だな、って。
今までずっと、出来ることは全部して来たつもりだった。全力で仕事と向き合って、経験だって積んで来た。
でも、頑張れば頑張る程にそれでも追いつけない人がいる、って事実が浮き彫りになっていく。私じゃ届かない場所がある、って理解させられる。それが………凄く、辛いんだ」
悲しそうに、しかしどこか清々しそうな表情で早瀬はずっと抱えていたであろうものを吐露していく。その姿に、確信した。
―――あぁ、こいつは今、大人になろうとしている。
未来に絶望しそうになって、大人と子供の狭間で揺れている。自分と同じ、現在に縋り付いて生きるだけの人間になろうとしている。
それは………駄目だ。自分は、早瀬に………
「………あ、あはは。何言ってるんだろうね、私。久々に再会した幼馴染にこんな愚痴とか………よ、酔っちゃったのかな?水、持ってこよ………」
きっと、無意識に言っていたのだろう。我に帰ったらしい早瀬は、誤魔化すように笑って立ち上がる。
「なぁ、早瀬」
その背中に声を掛け、呼び止めた。
「………な、何?」
「さっきの話………俺は、違うと思うぞ」
「違う、って………」
早瀬はこちらを振り返らない。しかし足を止め、話は聞いてくれている。その事を確認してから、ゆっくりと言葉を伝え始めた。
「俺はさ、あの言葉………寧ろ逆だと思ってる。
大人になったら成長を止めて停滞してしまう。だから子供のような心を忘れず、未来に希望を抱き続けろ………そう言う意味だって、解釈してたんだ。
それを思い出した時、今の自分が凄く情けなく見えた。未来に希望を見る事なんて忘れて、目の前の現在を生きる事しか頭に無い自分が………大人になった自分が、酷く空虚に思えた。
だからお前と再会して、夢を追い続けてるお前を見て………物凄く、眩しいと思った。格好良いって、心からそう思った。
………自分が後ろ向きにしか歩けないから、なのかもな。前を向いて歩ける人間は、凄く眩しく思えるんだ。
それで、自分とは違う存在だって………あぁもう、何が言いたいんだろうな………」
かつては小説家になるとか言っていた癖に、我ながら酷い体たらくだ。話ばかり無駄に長くなって、伝えたい事はほとんど伝えられている気がしない。
それでも、早瀬は………何も言わず、自分の言葉を待ってくれている。そのお陰で、ようやく言いたい事が固まった。
「えぇと、つまりだな?俺にとってお前は………その、憧れなんだよ。
アイドル、って訳でも無いけどそれに近い。自分とは別世界の、凄い奴。自分には出来ない事が出来る、羨ましい相手。
だから、勝手にそうあって欲しいと望んでる。ずっと、自分には出来ない事をし続けて欲しいって勝手に思ってる。だから、一度だけ言うぞ………」
あまりに身勝手な、理想の押し付け。それでも、憧れた相手には………眩しいままでいて欲しいと願う。それが、俺の―――
―――進藤大地と言う人間の、伝えたい事だ。
「………前を見て、輝き続けてくれ。歩く事を止めないでくれ。勝手だとは思うけど、それが俺の願いだ」
「……………………」
沈黙。俺は言葉を紡ぎ終わったが、早瀬は何も言ってこない。その様子を見て………顔が、急速に熱くなっていくのを感じた。
(な、何を言ってるんだ、俺は………!?)
何だ、今のクサい台詞は。憧れとか、眩しいとか………何を言っているんだ。
漫画ならときめくシーンなんだろうが、ここは現実だ。つまりあんなクサい台詞は、所謂ドン引き案件で―――
「わ、悪い!?お、俺も酔ってたのかなー………み、水をちゃんと飲まないとなー?」
誤魔化すように言いながら俺も立ち上がり、立ち尽くす早瀬の横をすり抜けてキッチンへ向かう。
「………待って」
その背中に声が掛けられて………くん、と腰辺りに引っ張られるような感覚を覚える。
「早瀬………?」
見ると、早瀬が服の裾を摘んでいた。その仕草に思わず胸が高鳴るが、少しかぶりを振って気持ちを軽くリセットする。
「ど、どうした?」
問い返すが、返事は無く早瀬は俯いたまま黙り込んでいる。しかしその間も、服の裾は摘まれたままだった。
それから数分して―――ようやく、早瀬は口を開く。
「………私、さ。あんたが羨ましかったんだ。
ずっと子供から抜け出せない私と違って、ちゃんと大人になってた。現実を見て、真っ当に生きてた。
あんた風に言えば………眩しかった、かな」
「………止めろ、その表現。恥ずかしい」
「ふふ、ごめん。………でも、そう思ったのは本当。隣の芝生は青く見える、って言うのかな?あんたは私を格好良いって言ったけど、私にとってはあんたの方が格好良かった。
だから………私も、自分が情けなかった。いつまでも子供みたいに夢を語って、前に進んでない気がしてた。過去に縋り付いているような気がしてた。
そんな私の前に、大人として現在を生きてるあんたが現れた。………正直、嫉妬した」
「嫉妬、って………」
「そのまんま。私はまだ過去にいるのに、あんた一人だけ先に行ってずるいって思った。
………でも、そんな私にあんたは「格好良い」って言ってくれた。過去じゃなくて未来を見てる、って言ってくれた。それがどれだけ嬉しかったか、あんたに分かる?」
「それは………えと」
上手く、言葉が紡げない。恥ずかしさとか胸の高鳴りとか色々なものが混じって、何も言えなくなってしまう。
そんな俺を他所に、早瀬は続ける。
「………あんたは私に「このままで良いんだ」って思わせてくれた。未来を願って良いんだって、信じさせてくれた。あんたのお陰で、私はまだ前を向いていられる」
「そ、そうか………それは、良かった」
戸惑いながらそう言うと、早瀬はずっと俯かせていた顔を上げてこちらを見た。その顔と瞳に、思わずドキリとしてしまう。
薄く紅潮した顔と少しだけ涙で潤んだ瞳は、魅せられる程に可愛らしくて。
きっと真っ赤になっていたであろう俺の顔を見てか、早瀬はどこか悪戯っぽく笑いながら言う。
「………ちゃんと、お礼しなきゃね」
「お礼、って―――」
不意に、早瀬の顔が目の前に近付いてきた。何が起きているのか分からず、硬直していると―――
「………ん」
柔らかい感触が、唇に触れた。触れたものは、どこか甘くて………
………ほんの少し、アルコールの味がした。