2:現在の自分は
「それじゃ、乾杯!」
「………乾杯」
カツン、と缶の縁を当ててからくっと酒を喉に流し込む。軽く喉が焼けるような感覚と、そのひりつきを癒す液体の冷たさのちぐはぐさが何とも心地良い。
「ぷぁー、美味い!やっぱ一仕事終えた後の酒は良いねー!」
「おっさん臭いぞ、その発言」
「うるさい、実際そう思うんだから別に良いでしょー?」
そう言って早瀬は缶を傾けるが、中身が入っていなかったらしく、持っていた缶を床に置いていそいそと次の缶を開け始める。
「おい、ペース早くないか?」
「大丈夫、私酒強いから」
「だからってなぁ………」
一応は止めるが、聞くつもりは無いらしい。諦めて自分も缶を傾け、一口飲み込む。
「………………」
ふと、周囲に目を向けた。連れてこられた時から少し気になってはいたが、改めて見ても………
「………結構、良い家だな」
連れて来られたのは、2LDKマンションの中層階だった。中も綺麗で、見た感じ築十年も経っていなさそうだ。
「んー、そう?別に普通じゃない?」
「いや、俺たちの歳でこれは普通じゃないだろ。少なくとも俺の給料じゃ無理だ」
自分が住んでいる家が六畳一間のアパート、家賃にして六万ちょっと。この部屋は、その倍と言われても全く違和感が無い。
「………お前、今何の仕事してるんだ?」
となれば当然、そこが気になる。ついさっき見た目から漫画家を連想したが、もしかしたら本当にそれもあるかも知れない。
「んー………うん」
彼女は一瞬だけ逡巡するような様子を見せて、しかしすぐに「まぁ良いか」と言うような表情になって言った。
「………イラストレーター」
「……………は?」
思わず漏れたその声は、自分でも驚くほどに裏返っていた。冗談程度に考えていたが、まさか本当にその系統の仕事をしていたとは。
「………もしかして、信じてない?」
驚愕からの無言だったが、早瀬にはそれが不信に映ったらしい。不満そうな表情を浮かべて、こちらを睨みつけてくる。
「いや、信じてないって訳じゃ」
「いいよ、証拠見せたげる。こっち、来て」
否定も聞かず早瀬は立ち上がって廊下へ行き、そこに面した一室の扉を開けて手招きした。
(………ま、良いか)
誘われるままにその後を追い、扉の中に入る。
「………おぉ」
瞬間、先程に負けず劣らず驚愕した。
部屋の中には、無数の本棚が並んでいた。内容はバラバラで漫画や画集、中には骨格図解などが所狭しと詰め込まれている。
その奥に、大きなディスプレイのようなものがあった。恐らくは液晶タブレット―――液タブと呼ばれるイラスト用の道具だろう。
「………なんか、イラストレーターって感じだな」
口から出てきた感想は、まるで子供のように壊滅的な語彙だった。
それを聞いた早瀬は、小さく笑いながら言う。
「そりゃ、イラストレーターだからね。どう、これで信じた?」
「最初から疑ってた訳じゃない。まぁ、驚きはしたけども」
そう返すと彼女は満足そうにして、部屋を出て元の場所へ歩き始める。
その背中を追いながら、自分は問いかけた。
「いつからやってるんだ?」
「えーっと………もう十年近くなるかなぁ。中学の時にネットに上げ始めて、高校生になったぐらいでお金貰って描くようになった」
「そんなに前から?凄いな、中学生でプロ目指し始めたのか」
驚いた表情を浮かべる自分に、彼女は笑いながら言う。
「前からって言うか、あんたといた時から私ずっと言ってたと思うんだけど。覚えてない?」
「えっ?えー、と」
言われて、記憶に意識を走らせる。そう言えば確かに昔から絵は上手かった覚えがあるが………
「………あ」
そこでふと、思い出した。
「………『将来の夢』」
「思い出した?」
「ああ、そう言えば卒業文集に書いてたな」
卒業前に書いた文集の中に、将来の夢を書くページがあった。早瀬は確かにそこに「イラストレーターになる」と書いていたのを今思い出した。
「懐かしいな………夢を叶えた、って訳か」
「んー、私的にはまだまだ、かな。まだ人気も仕事もそれなりで、上を見ればきりが無いし。目指す頂点は遥か先、なんてね」
「はー………凄いな」
素直に尊敬する。夢を叶えて、なおもそこで終わることなく努力を続ける………生半可な覚悟で出来ることではない。
………少なくとも、自分には出来なかった。
「で、あんたは?」
「………え?」
「あんたは今、何してるの?たしか、文集には小説家とか書いてたんだっけ」
「俺、は………」
問われた瞬間、心臓が強く跳ねた。
何故だろうか、上手く声が出ない。
別に、言い淀む事など何も無い筈だ。才能がないことにいつまでもこだわっていられない。夢はとっくに諦めて、会社員として普通に暮らしている。
何もおかしくない。この世の九割近くが送っている、ごく平凡な社会人生活だ。
なのに、何故。
「………………」
こんなにも―――声が、出ないのだろう。
「………っと、ちょっと」
「―――」
「ちょっと、どうかしたの?」
「ッ………」
気が付くと、早瀬は不思議そうな顔でこちらを覗き込んでいた。どうやら数秒、沈黙したまま突っ立っていたらしい。
「………もしかして私、何か余計なこと聞いた?」
「い、いや、そうじゃない。そうじゃなくて、えーと、そう。最近仕事が忙しかったから、疲れてちょっとぼーっとしただけだ」
「そうなの?」
「ああ、俺、今は普通の会社員で―――」
今度は、さっきのように詰まることなく普通に話せる。しかしその代わりのように、胸がもやもやとしていた。
………誤魔化すように会話を続けながら、ふと思う。
早瀬は夢を追い、叶えた。そこで立ち止まることなく、今も走り続けている。
―――なら、自分は?
かつての夢を投げ捨て、現実に逃げた。努力の苦痛に耐え切れず、目を背けて未来を見ることを止めた。
そんな自分が、彼女と比べてなんとも情けなく見えて。
………また、あの言葉が脳裏を過ぎる。
『大人になるとは、頭打ちを受け入れることだ―――』