『情報屋』
カーテンを閉め切った暗がりの一室。時刻は昼間だというのにその部屋の主はカーテン一つ開ける気は無かった。
部屋は乱雑としておりそこら中にペットボトルが捨てられ、部屋の隅には積み重なったゴミ袋が山のように盛られていた。中身は菓子の袋やカップ麺ばかりで碌な食生活をしていないことがみてとれる。カーテンの隙間から溢れる僅かな光源は宙を舞う埃を可視化しており、極めて汚い部屋だ。これから人に会う予定があるのにも関わらずの体たらく。
しかし、それを諫めるものは誰もいない。父も母も部屋から出ることだけを祈り、甘やかす...とは違うのだろう。少女の心が癒えるのを待つばかりだ。
当の本人はというと学校にも行かずに昼間からパソコンを弄るばかりだ。ゲーミングチェアに座り、ヘッドホンを耳に当ててモニターに食いつくように顔を近づけている。素早いタイピングで何かをしているようで、その顔からはイラついた証に青筋がたっている。
「あー!クソ!クソだね!大体私からすればなぁ!」
遂には怒りが限界突破したのか言葉を荒げて今にも叫び出しそうになっている。テーブルの端に置かれたポテトチップスの袋に手を突っ込みボロボロと破片を床にばら撒きながら不満な顔で咀嚼をする。
「うぜぇ!うぜぇ!っくそ!...流石に汚ねぇな」
テーブルに何度も拳を当てた後、冷静になったのか自身の周りを掃除する。どうやら自身の生活圏のみを掃除しているようだ。その証拠にベッドとパソコン周りは整理整頓されており、ゴミも散らばってはいない。その他は悲惨ではある。ゴキブリの一匹や二匹湧いてもおかしくはないだろう。
*
2ℓの炭酸ジュースを胃に流し込み、時間を確認する。パソコンの時計が指し示すは17時52分。あの後もゲームだの掲示板だのを徘徊しては癇癪を起こすを繰り返し、気がつけば約束の時間が近づいてきた。相変わらず掃き溜めの様に汚いが来訪者が来るからと言って片付ける気は毛頭ないようだ。汚れてはいるがトイレで外に出るのでゴミの獣道ができている。そこを通ってもらってベッドにでも座らせる算段だ。因みに風呂は週に一回入れば良い方だ。
仕方ないとゲームなどは止め、退屈そうにしているとインターホンが鳴った。
「はぁ...来たか。会いたくねぇー。直接人と話したくねぇよ」
*
神楽坂アメリアは放課後、電車に揺られて30分。少しばかり遠出をしていた。というのも先日、『情報屋』への交渉の件が纏まったからだ。ある程度の資金は支出すると決定を下し、本人と交渉する事になったからだ。彼女は基本的にメールや電話を通してしか受付ないのだが、矢上がふっかけた。直接会っての交渉でなければ今後の取引には応じないと。実際問題、彼女の諜報能力はずば抜けて高いので困るのだが、その脅しは効いた様で直ぐに交渉の場を用意すると言った。そこまで起点の回らない少女且つ金にがめつい性格で簡単に場を設けられたのは矢上の想定の範囲内だ。それに彼曰く、「あの娘は多分対人が苦手だと思うからね。直接会って交渉すればこっちが有利な様に契約できると思うよ」とのこと。
『情報屋』との取引が始める前、軽い人物調査を行い引きこもりだと面が割れた為それに間違いは無いだろう。何が原因か分からないが何かしらのトラウマを植え付けられた結果、殻に篭ったのだ。他者との関わりの薄く、苦手意識があるのなら強気にふっかけて行って問題ない。但し、余りに理不尽な契約を押し付けるわけでもない。彼女には命を懸けて戦ってもらうのだ、あくまで法外な値段を提示されない為の処置。主導権を握らせないのが目的だ。
駅から更に歩いて15分程度。ようやく『情報屋』の住む家屋に着いた。なんて事のない普通の一軒家だ。表札には「鏑木」と書かれており、下にインターホンが設置されていたので押し込む。すると10秒もしない内に声が聞こえてきた。
『はい、どちら様でしょうか』
「私は乖凛さんの友達のアメリアと申します。本日はお呼ばれしましたので遊びに来ました」
『ほ、本当ですか!?しょ、少々お待ち下さいね。確認しますので...!」
母親と思わしき人物は嬉しい悲鳴をあげて慌ててその場を離れた。友人と遊ぶ事も無い彼女の元に友人を名乗る者が現れたのだ。驚きと喜びが隠せないのだろう。待っているとインターホンでは無く、玄関が開けられた。
「ごめんなさいねお待たせしちゃって。あの娘が人を呼ぶなんて初めてだから...」
アメリアはにこりと笑った。
「それは光栄です。それほど彼女も私に心を開いてくれてるのでしょう」
まぁまぁ!ととても嬉しそうにする母親。玄関を上がると目の前に階段があり、どうやら二階に上がって右方にある部屋が乖凛の部屋らしい。
「ちょっと部屋が汚れてるかもしれないわ。さっき注意したんだけど...お片付けが出来るとは思えなくて」
「気にしないでください。私は大丈夫ですので」
本当は部屋まで案内したかったが、どうやら上まで一緒に着いていくと怒るらしい。仕方なく言われるがまま、階段を上がる。右には「乖凛」と書かれたネームプレートが飾ってあった。小さい頃の名残だろうかと考えながら軽くノックをする。「どど、どうぞ...」と震えた小さな声が僅かに漏れたので失礼しますと部屋に入ると、そこは地獄だった。
「...臭い」
「く、臭い...??」
悪臭漂う部屋の空気、汚れ。アメリアは耐えれずについつい本音を言ってしまった。しかし、乖凛は気づいていない。それも当然だ。人間の鼻は匂いに慣れるのだ。汚臭であれ、その臭いが充満する場所にいようがやがては慣れて感じ無くなる。汚部屋にずっと住む乖凛が気がつく筈もなく、第一声に臭いと言われた事に少なからずショックを受けていた。
(しょ、初対面でそんな事言うか!?普通!!...臭く無いよな??)
(あ、余りにも汚い...思わず口に出してしまったわ。...普通こんなに劣悪な環境で人を呼ぶかしら?)
気まずさもあり、互いに長い沈黙が訪れてしまった。そんな空気感を乖凛は当然対処できる筈もなく、アメリアから話を切り出した。
「...どこに座れば良いですか。先日伝えた件の交渉がしたいのですが、長話になってしまいますので」
「あ、はい。えっと....ベベッドにどうぞ...」
汚れた床を余り踏みたくないので出来る限り面積を減らす為に爪先立ちでそっと進んでいく。
(そんなに嫌か...)
ベッドとパソコンの位置は近く、目と鼻の先に乖凛がいる。それはもうアメリアの鼻腔を刺激して...。
「貴方、昨日お風呂に入りました?」
「っひ、い、いえ。入ってなぃです...」
臭い。兎に角臭いのだ。普段から清潔感を保つ事を大切にしている。アメリアはこの部屋は苦痛以外の何でもない。更に加えて言えば乖凛本人も不潔だ。ボサボサと伸び切った髪はフケが見えており、更に異臭を放つ。一体何日風呂に入らなければこんな臭いがするのかと疑問に思えた。
「...お風呂に入ってきてください。交渉以前の問題です。一週間も前に話し合いの予定を立てた上で、貴方はこの部屋を交渉の場に指定しました。その上で身なりも整えず、部屋も汚いまま。如何なものでしょうか。...貴方がお風呂に入ってる間に私が掃除をしてあげます。宜しいですね?」
アメリアの言葉は丁寧であるが、確実に怒気が込められていた。悪臭に気圧され、怒るよりも困惑が大きかった。しかし、乖凛を前にして彼女からはエチケットのエの字も見受けられない。そこで彼女の堪忍袋の緒が切れたのだ。静かに怒る彼女に乖凛は気圧されるの決まっていた。
「あ、はい...すいませんでした。お風呂入ってきます...部屋もありがとうございます...」
見るからに落ち込んでいた。まさかこんなガチの説教が来るとは思ってもいなかったのだろう。良くも悪くも乖凛の世界はこの部屋で完結しているのでこの惨状を怒られるとは毛程も思っていなかった。両親なら兎も角、赤の他人に教えられるなど社会経験もない乖凛が知るよしもなかった。