断章 Re:矛盾情景:男の過去 中編
不思議な高揚感と止まない心臓の鼓動。ドクドクと脈打つ胸は感じたことの無い未知の扉を跨いだ感覚だ。
(なんなのだ、この胸の昂りは)
授業中は心ここに在らず。全く集中できずに無為に時間を浪費してしまった。
勉学に集中ができない。これはマズイと思い、煩悩を払う手立てとして両頬を強めに叩いた。授業直後、彼女の隣でだ。
既に教室は弛緩した雰囲気というよりかは雑踏と騒ぎ立てている。はじまったばかりの大学生活で皆は浮き足立っている。
友達を作る為に話しかける者や共通の趣味で盛り上がる者、果てには可愛い女の子に声をかけて新たな春の訪れを求める者も。雑にあしらわれてしまっているが、兎にも角にも十人十色の行動があった。
静寂の行動はそれほど目立ちはしなかったが、一人の女の目には止まった。普通は授業の前に喝を入れるもので、その姿が珍妙に見えたのだろう。
「どうしたの、気合い足りなかった?」
悪戯に笑いながら話しかけてきたのは静寂が心を奪われた女性だ。
色恋沙汰から遠く離れた人生だったので免疫がない。漫画が如く顔が茹で蛸のように真っ赤とまでは行かないが、耳が赤くなり熱を帯びる。
「少しばかり授業に集中できなくてね。不甲斐ない自分に喝を入れていたんだ」
「へぇ、面白いね。あ、私は百田鳴。これからよろしくね」
「私は静寂零だ。今後ともよろしく頼む」
百田鳴とのファーストコンタクトであった。
最初は外見に惹かれて恋に落ちたと問われれば否と答える。何というか直感的だった。彼は落雷が直撃したのと同じく、落ちるべくして落ちた。
静寂の人生に色が塗られた。
何処までも進んでもどん底で、抜けられない沼にハマっていて薄汚れた灰色の世界だった。
彼女は彩をくれた。
大学に入り、互いにはじめての友人で目指す場所も同じ。自然と距離は縮まっていった。
「零はなんで教師を目指そうと思ったの?」
思い過ごせば出会いから半年が経つのにも関わらず、己の将来について語った事はなかった。静寂にとって、将来とは漠然としており、明確なビジョンを思い描くことができなかった。恩師がいるわけでも、憧れていた訳でもない。自身の職業選択の内で適当に選んだだけ。他者に語るほど熱意がない。
彼女に語るのが怖かったのもある。鳴は明確に教師になりたいと主張して、その発言に違わない努力をおこなっている。
何もない自分では嫌われてしまうのではないか。そんな一抹の不安が心にあった。
「実を言うと理由などない。将来やりたい職業など私には無く、雑に選んでしまった進路だ。...失望させてしまったかな」
「そんなことで失望する訳ないでしょ。相変わらず自身があるのか無いのか良くわかんないなぁ...。零ってさ将来とか夢みたいな...未来の話を絶対にしないじゃん?だから気になってさ」
図星を突かれた気分だ。当たらずと雖も遠からずと言ったところか。話さないのではなく、話せない。
静寂の展望を語らない性格を気にしているようだが、完全に盲点だった。未来の行く末を語らずとも支障なくコミュニケーションは取れると思っていたが、彼女は違ったようだ。
「いつも楽しそうに話を聞いてくれるし、話してもくれる。けど、一歩引いてる感じがするしてさ。だから、踏み込んでくれないのかなって」
関係性とは壊したくないものだ。
友人と恋人。その境界線に立つまで関係は進んだ。
しかし、静寂は踏み出すことを躊躇していた。鳴にとってはそれが不安だったのだろう。遠回しに伝えたかったが、奥手の静寂には上手く伝わらなかったので若干分かりやすく伝えてきた。
彼女もまた奥手なのだ。これでも勇気を出しているつもりだ。無論、そこに気づけば静寂はたじろいだりしない。
後は行動で済ますのみだ。
「...そうだな。私は私の求めるモノに怯えていたのかもしれない。だからいつまでも踏ん切りがつかなかった。すまない、行動で示す。...私の気持ちだ」
絶対にこの幸せを離さないようにと、固く抱擁をした。彼女もそれを受け入れて腰に手を回す。
そこに拒絶の意思はない、それであるのならと唇と唇を重ねた。
正に幸せの絶頂と言えるだろう。
男は求めていた愛を手に入れて、静かにゆっくりと着実に沼から引きづり上がっていった。殺伐とした灰の心は満たされていく。
出会ってから一年と数ヶ月が経った。
夏の残劇。
愛を求めて、愛を失った。
心の拠り所ももはやない。
彼女は既に亡骸になってしまった。静寂が元いた組織が原因で暗殺者に殺された。日の当たるところで持て余すには勿体無いと、再び沼の底に沈める為に。
絶望を与えたからと言って彼は組織の言いなりになどならない。心に残った虚な穴からたっぷりの憎悪と怒りをぐつぐつと煮込んで最悪の復讐者を産み出すだけだ。
「しかし、遅い!あの下っ端め、まさか逃げ出したんじゃないだろうな」
一切の慈悲無く殺戮の肉片となった暗殺者の汚れを片付ける為に下っ端を始末屋の使いにさせたのだが、余りにも遅かった。
始末屋は直ぐ近くに待機しているはずだ、暗殺の依頼があれば共に赴いて直ぐに死体を処理する役割があるのだが。この惨状を目にして逃げ出したのか。
その体たらくに怒りを覚え、血に汚れた手でドアを開けると仮面の男が部屋の前に立っていた。
静寂を軽く超える2mに到達する程の身長と銀色の薄汚れた道化の仮面。シルクハットにタキシードとマント。妖しさ全開の男だ。
「はじめまして、ボクの名は『転変者』。君をスカウトしにやってきた」
「何者だ!私は今虫の居所が悪い。ふざけたことを抜かしているとどうなっても知らんぞ!」
壁を強打して威嚇をする。殴られた箇所はボロボロと崩れ去った。
「ああ、わかっているとも。恋人を殺された、だろう?それで始末屋を呼びたいみたいだがどうにも遅いと。ウンウン、それはムカつくよねぇ」
ヘラヘラと笑いながら喋る仮面の男に怒りがおさまらないが、仮面の男がマントの中身を見せびらかしてきた。
「...生首か。別の組織の人間か?生憎と私は貴様ら外道に組みしない。死にたくなければ早々に立ち去れ、そしてこの遺体を処分しろ」
始末屋と下っ端の生首を掲げていたのだ。
ケヒャケヒャと仮面の男は笑うと、何処からとも無く鎌をその手に持ち出した。
「なるほどぉ。ええまぁ、ですが想定内。貴方はそう簡単に折れるような人間とは思いませんよ。肉体も心も超一級品の汚れた人間。故に、故に!怪人にしなければ損というモノ。ええ、つまりつまりは少々痛い目に遭って頂くかと」
仮面の奥の眼光が光った。瞬時に白い手袋を着用した指で腹部を貫こうと突きを放った。静寂は黙って受け入れる気は毛頭ない。
突如襲ってきた謎仮面に対抗し、突いてきた掌を肘と膝で挟み潰す。
「おやおやおや。よもや只の人間が反応するとはねぇ。正に逸材!!」
「黙れ!」
間髪入れずに喋り続ける仮面の顔面に1発拳を打ち込むが「GOOD!いい拳だ」―――びくともしない。
「ターン制?いいねぇ。ま、これで終わりだけどねぇ」
静寂の鳩尾に蹴りをぶち込み、玄関へ転倒させる。
「っぐはぁ!」
一瞬で内臓を潰せるような重い一撃を浴びて血反吐を吐いて悶絶する。
(!!!この私でも見えなかった!なんなのだ!コイツは!)
苦しむ姿を嘲笑いながら、片手で頭を持ち上げて掲げる。その状態でも必死に抵抗する。
しかし、コンクリートや鉄を穿つことのできる拳をどれだけ打ち込んでも無傷であった。
「あぁ、無駄な抵抗というモノだ。だが安心して良い。目が覚めた時は君が求めた世界にする為の力が備わる。祝おう、新たなる怪人の誕生を...ああ、そうそう。サービスも忘れずにね...ジョーカークリーニング無料体験だ。次回以降は有料だが...今後ともご贔屓に」
指を鳴らすと血に塗れた部屋は何事もなかったように片付き、百田鳴の遺体と怪人に変貌する静寂を残して消え去った。
「adiós」
仮面の男は笑いながら玄関から出て行った。楽しそうに歌を歌いながら...ね。