断章 Re:矛盾情景:男の過去 前編
男の産まれた家庭は現代日本において時代錯誤であった。現実から乖離した暗い物語の世界。
暗殺業。それが静寂零の家業であった。
幼き頃より暗殺の技を徹底的に教え込まれた。
そこに親子の情など無い。
ただひたすらに殺す為の技術を与える。
肉体の作り込みから始まり、組手に潜入の訓練。毒の調合、他者の心に入り込む話術まで。何処までも非情だった。
泣いて、喚いても父も母も許さない。男が、家業を継ぐ者がこの程度で泣くなと叱咤された。幼少期は常に泣いて過ごしていた。
他の家庭が羨ましいと思った。
誕生日には祝われ、クリスマスになればサンタクロースがやって来て夜の寝ている隙に枕元にプレゼントを贈ると聞く。
そんな出来事は一度もない。誕生日もクリスマスも関係ない。他の日と同じ様に過酷な訓練を繰り返すだけの変わらぬ日常だ。
中学になれば何度か逃げ出そうとした。こんな父と母のいる環境でマトモに過ごしてはいられない。
幸いにも未だに人殺しは未経験だ。警察や役所に逃げ込めば保護して貰えると希望を胸に持ち、学校帰りに警察署に向かった。
しかし、それは叶うことが無かった。
常に見張りがいた。愚かな選択肢を取らぬ様にと静寂零よりも格上の存在が止めに入り、現当主である父の元に連れていかれた。
「貴様は親を売ろうとしたのか」――当然だろ。
男の胸中は気が気じゃ無かった。
親として碌なことをしてくれなかった父と母に感謝の念など抱くはずもない。そのくせに親を敬えとほざくのだ。
遂に怒りが頂点へと達し、説教の最中に殴りかかった。たったの一度も父親に勝ったことは無いがここで立ち向かわなかったら永遠と父に支配されたままの操り人形として後世を生きていく気がした。
分かりきってはいたが敗北した。
完膚なきまでに身体を痛めつけられた。今後の稽古に響かない程度に。それでも身体は痣だらけだ。特に眼の辺りに拳を打ち込まれた所は最悪だった。拳の形で眼を覆う様に痣が残り、まるでパンダだ。
そんな自分の姿を見るのが惨めだった。
変えるために行動を起こした筈なのに全く好転しなかった。
寧ろ、自分を奈落の底に落とす行為だった。
「初の依頼だ。完璧にこなせ」
封筒を渡された。
中には依頼内容とターゲットの情報が詳細に書かれていた。男は気乗りしない。殺しは好きじゃない、忌み嫌うべき行為だ。当然、反対したが意味を成さない。
断ることなどできなかった。
「この依頼で成功以外の結果をもたらした時、貴様は死ぬだけだ」
殺したくはないが、死にたくなかった。まだ14の少年だ、その選択は正に地獄だ。選んだ時、生きた心地がしなかった。断れば今すぐにでも殺そうとする、父の野獣の様な鋭い眼光と威圧感に気圧された。
依頼は簡単。とある会社の社長を殺すこと、それだけ。
残酷な運命だった。
持ちたくもない天性の才を静寂は持っていた。
依頼は一瞬で完了した。最も容易く男を始末できた。後は始末屋に任せてその場を去り、完了報告をするだけだ。
その後も様々な依頼が手渡され、流されるままに次々と人を殺めた。
殺人の天才だった。父よりも誰よりも殺す為の才があり、静寂に殺さぬ人間などいないと言わしめる程に。
仕事が終わるといつも吐いていた。死ぬ程気分が悪いから。人を殺して良い気分になれるはずもなく、暗雲が立ち込めたような重い気分をぶら下げながら生きていた。
17の時に転機は訪れた。
ずっと従順に働き続けてきたがそれは魂を擦り減らす行為に他ならない。我慢に我慢を続けたが、3年前と同じく高校の帰りに逃げ出した。
その日の見張りは驚く事に父親だった。
だが、それも当然の結果だ。誰よりも才能ある殺人者が鍛え続け、実務を果たした。であれば、並大抵の者では静寂には敵わない。中学の時よりも成長して体格も変わった。大人とほぼ変わらない骨格に鍛え抜かれた筋肉。
父との闘いは壮絶だった。空気を破裂させる音を出す拳と拳の撃ち合い。判断を誤れば一瞬で肉が抉られ、その命を落とす程に。
父と互角の実力を得た静寂は激闘の末に父を殺した。
幾ら痛めつけても、父は止まらなかった。逃げ出す静寂を暗殺者として残す為に、足を潰しても這って進み、腕を潰しても噛み付いて来た。
力尽きた父の次は母が来た。父に及ばない母を殺すのは容易かった。
お陰で心に大きな穴が空いた。
虚。
哀しみ。
憎悪。
全てが入り混じり、泣き叫んだ。
殺さなければ自由を手に入れられない。
殺さなければ何処までも父と母は追いかけ、手中に収めようとしてくる。
だから、殺した。
殺したくなかった。
どうしてこんな事になってしまったのかと自信を呪った。静寂零が欲しかったものは自由ではない。
愛が欲しかった。
父と母に愛されたかった。どんなに辛くても苦しくても頑張り続けたのは褒められたかったから。一度だって褒められたことはなかった。何をこなしても次を要求されるだけ。
他の家族が羨ましかった。授業参観に体育祭、入学式、卒業式。
学校の生徒が当たり前に得られた日常を静寂零は誰よりも欲していた。
桜の下で校門の前で家族で写真を撮る一家が羨ましかった。
親の弁当が羨ましかった。
いつまでもこの環境にいても愛を与えられることは無いと思ったから逃げ出した。食事は鍛える為に効率化されただけの美味しくない冷えた飯。
いつも一人で温めて食べていた。家族と食べたかった。
だが、殺してしまった。夢は叶わない。
いつまでも親元にいても夢は叶わない。
どうすれば良かったのか。わからない、わからなかった。
どこに行ってもどん詰まりに胸が苦しめられる想いだった。
それでも生きなければならなかった。殺したからには幸せに生きる義務があると考えたから。
愛を求める為に親を殺してでも進んだのだ。
それすら無駄な事に気付かずに。
親を殺して数ヶ月。組織から連絡が来た。一家が属していた犯罪組織だ。
父を殺す程の腕前を認め、それ相応のポストを用意すると接触があった。
勿論断った。殺しを好きでやっているわけではないから。平穏に暮らす為にも自らの犯罪歴を明かしてでも組織を潰すつもりもなかったが、彼らは静寂零を繋ぎ止めたかったようだ。
それからは闘いの毎日に明け暮れた。ごろつきから殺人鬼に暗殺者。様々な刺客が送られ、それが嫌なら戻れた言ってくるのだ。
殺さずに痛めつけて突き返して来たが、何度も懲りずにやってくる。ぶちのめした奴から新しい人員まで何度も何度も。
遂に殺してしまった。このままでは決して彼らは諦めることは無いと理解したからだ。吐いて殺して吐いて殺して。
地獄のような毎日が続いたが、4、50人程殺した頃には誰も来なくなった。
果てしない殺戮の果てに争いのない日常を手に入れることができた。
そこからは数年は静寂零にとってかけがえのない平和な日々を噛み締める事になった。失った物は沢山ある。それでも楽しく過ごす事ができた。
大学に入り、教員を目指した。特に大きな意味はないが、何かコレを目指したいという夢もなかったので漠然と公務員を目指したのだ。
充実したキャンパスライフが始まり、ある女性に出会った。
「あのーすいません。隣、空いてますか?」
一目惚れだった。その女性が視界に入った瞬間に目を奪われた。
「すいません...聞いてますか?」
「あ、あぁ申し訳ない。空いてますよ」
「ありがとうございます」
19歳にして初めて恋をした。




