2-1 月夜の雲海
2-1 月夜の雲海
遺嶺洞を抜けると、燃え盛る火の玉のような夕日が、俺たちを出迎えてくれた。地平線に沈む直前の、もっとも赤い太陽だ。じきに紫色の空が迫って来て、夜が訪れるだろう。
「う?おぉ?ここ、ずいぶん高い場所みたいだな?」
俺はあたりの景色を見渡して、素っ頓狂な声を上げた。
周りに見えるのは、剣のように切り立った山々だ。夕陽に照らされ真っ赤になった、巨大な石柱がそこかしこに立ち並び、その足元は雲海に隠れて見えない。雲の上に浮かんでいるみたいだ……いや、まて。あそこにある大岩みたいな山は、本当に浮かんでないか……?
「……すごいな」
フランがこくりとうなずく。小学生みたいな感想しか出てこないが、それ以外に言い表しようがないだろ……
俺たちが出てきた遺嶺洞の出口は、山をぱっくり割くようにできた谷の切れ目に開いていた。後ろに見える山脈が、俺たちが抜けてきたクロム山脈なんだろう。山を抜けたらこんなところに出るだなんて、びっくりだ。
『ここは、山脈と山脈に挟まれた谷合の地なのです』
ぽかんと口を開けていると、アニがチリンと揺れて説明を始めた。
『遠く向かいの方に、別の山脈のすそが見えるでしょう。あれはニオブ山脈です。主様たちが進む湖畔街道は、山同士の合間を縫うように伸びています』
へー。湖畔街道って言ったら、いつかに一度通ったな。たしか、一の国の勇者クラークと初めて出会った場所だ。ふーむ、あまりいい思い出じゃないな?
切り立った崖に沿って、這うように道は続いている。道幅はそこそこ広いが、岩だから足元は悪そうだ。道の行く先を目で追っていくと、途中でつり橋が伸びて、別の山へと繋がっている。ずいぶんボロッちく見えるけど、大勢が乗っても大丈夫かな……?
不安を覚えながらも、馬車はゆっくり進んでいく。
遺嶺洞から出ると、空気が薄くなったようだ。それと合わせるように、ロウランの姿も本格的に薄くなってきていた。もうほとんど透明で、いまにも消えてしまいそうだ。
「ぐすん。さみしくなるの……旦那様、見えなくなっても、ロウランの事忘れないでね?」
「あー、はいはい。たまに魔力を流すから、お前も余裕があれば顔出せよ」
「うん。ねえ、もしいいなら、それに加えておはようとおやすみのちゅーも……」
「却下」
ロウランは頬を膨らませたまま、ついに見えなくなってしまった。はぁ、やれやれ。とりあえず、これで当面は胃を痛めなくてすみそうだ。我ながら、とんでもないやつを仲間にしちまったなぁ。
それからすぐに陽が沈み、あたりは暗くなってしまった。幸い、今夜は月が明るいので、視界にそこまで不自由はない。けど、場所が場所だ。足を踏み外せば、雲海に真っ逆さまだからな……ヘイズは無理をせず、適当な場所で野営の指示を出した。
今夜のメニューは、干からびて固くなったパンと、味の薄いスープだった。むむ、この前からだんだん質素になっている気が……ここまでの旅路で、食料もだいぶ減ったようだな。でもその分だけ、ゴールに近づいたってことでもある。
近々、どこかの村で補給をするのだろうと、エラゼムが言っていた。鮮度や積載量の問題で、最初から山積みをするというわけにもいかないそうだ。
(……ところで)
さっきから、後ろでハァハァと荒い息遣いが聞こえる……首筋にじりじりと視線が当たって火が出そうだ。そういや、今夜は月が明るかった。つまり、満月に限りなく近いという事なわけで……
「……アルルカ」
「はぁ、はぁ……え?なに?」
俺が振り返っても、アルルカとは目線が合わなかった……俺の顔じゃなくて、首元を見てやがる。くぅー、人を輸血パックかなにかだと思いやがって。
「はぁー。わーったよ。吸わせてやる」
「っ!~~~~!!」
キラキラ。しっぽが生えていたらちぎれんばかりに振っているだろう。こんなんだが、むしろ今までよく我慢した方だな。何かとバタバタしていて、血をやるどころじゃなかったからなぁ。俺は皿を置いて立ち上がると、馬車に戻ろうと歩き出そうとした。だが、アルルカは俺の腕を掴んで引き留める。
「あん?戻らないのか?」
「まさか、あのクサくて狭い馬車に戻る気?嫌よ、あんなところでなんて。それより、もっと人気のない所に行きましょ……?」
アルルカは俺の腕を抱き込むと、むぎゅっと胸を押し付ける。げぇ、コイツまでロウランみたいなことを……当然、そばにいたフランが憤然と割って入る。
「ふざけるな、変態ヴァンパイア!そんなの絶対認めないから!」
「はぁ~!?そっちこそ、むっつりスケベじゃないのよ!」
「なっ……!ち、ちがう!」
「じゃあお子ちゃまは引っ込んでなさい。こっからはオトナの時間よ!」
「……それなら、俺は帰っていいか?子どもはそろそろ寝る時間だから」
「ダメよ!」「ダメ!」
息ぴったり。馬が合うんだか合わないんだか。
他の仲間たちは、遠巻きに見つめるだけで助けようとはしてくれない。ウィルはまたかという顔をし、エラゼムはオロオロ、ライラは晩飯の余りの鳥骨を食べるのに夢中だ。俺がどうにかするしかなさそうだなぁ。
「アルルカ、なんで馬車じゃ駄目なんだよ?人の目ってことなら、完全個室じゃないか」
「冗談じゃないわ!月に一度の楽しみなのよ?あんなところじゃ、ムードのかけらもないじゃない!」
「ムード……?」
今までの吸血シーンで、そんなシャレたものがあっただろうか……?
「そのムードとやらは、どこでなら見つけることができるんだ?」
「そーねぇ。まず最低限、このうるさい小娘がいないことが条件ね」
「がぁー!」
俺が止める間もなく、フランがアルルカに飛び掛かった。ドターン!周りの兵士たちが何事かとこちらを見る。うひゃ、バカ騒ぎしている場合じゃないぞ。
「こら!二人とも、やめなさい。やめろ!おすわり、おすわり!」
もんどりうった二人を正座させる。あー、ったくもう!この前は一時的とはいえ、共闘もしたってのに。
「エラゼム、悪いけど手伝ってくれ。馬車まで持ってくから」
「承知しました」
俺はフランを、エラゼムはアルルカを引きずって馬車まで戻る。その間も二人はずっと睨みあっていた。
「ふぅ……さてと、話の続きだ。アルルカは、ここじゃいやだって言うんだな?」
「そうよ。こんなうるさいのが近くに居ちゃ、たまんないわ」
「さいで……しょーがねーな。フラン、そういうことだからさ」
「だからさって……行くの!?」
「まーなぁ。正直、俺も恥ずかしいから、あんまりまじまじと見られたくはないんだ。それにほら、いちおう、アルルカとの約束もあるから」
「だからって……」
「最近はアルルカも協力してくれてるし、無下にはしづらいだろ?月に一度くらい、大目に見てやってくれ。な?」
「う……」
フランは、それこそ待てをくらった犬みたいにしゅんとうなだれた。どう見ても納得はしていなさそうだが、ここは我慢してもらおう。
「それじゃ、アルルカ。とっとと行こう……あと言っとくけど、もしフランをからかったらこの話はナシだからな」
「うっ。わ、わかってるわよ……」
怪しい。アルルカは今まさに、勝ち誇った顔でフランにちょっかいを出す寸前に見えたけどな。ったく、性格悪いのは相変わらずだ。
「んで、どこに行く?その辺の草むらか?」
「そうね……でもここ、岩と崖ばっかりじゃない。それだったら、いっそ……」
「え?わわっ」
アルルカは俺の背後に回ると、腰に手を回してきた。かと思った次には、真っ黒な翼が左右に広がる。翼が振り下ろされると、俺の体はふわりと宙に浮かんだ。
「あ、アルルカ!?どういうつもりだよ!」
「そのへんじゃムードに欠けるじゃない。もっといい場所にいきましょ!」
いい場所って……アルルカはぐんぐん高度を上げていく。こちらを悔しそうに見上げるフランの顔がどんどん小さくなり、ほとんど点にしか見えなくなると、上昇をやめて前に飛び出した。
「お、おい!あんまり遠くには行くなよ!」
「わーってるわよ、うるさいわねぇ。そんな事より、楽しみなさいよ。ヴァンパイアと一緒に飛べるなんて、滅多にないことなのよ?」
「そりゃま、そうだろうけど……」
シチュエーションとしては、あまり嬉しいもんじゃないよな?
アルルカはほとんど羽ばたいていないのに、びゅんびゅんと風を切って飛んでいく。目の前には大きな白い月。眼下には月明かりに照らされた青い雲と、点在する山々。海の上を飛んでいるみたいだ……アルルカの腕は細いが、腰に回された手はしっかりと俺を掴んでいる。ドギマギしていた気持ちが次第に落ち着いてくると、頬に受ける風を感じられるようになった。ぞくぞくするほど冷たいが、けして嫌な寒さじゃない。
「ん~~~。気持ちいいわね。やっぱり飛ぶのは、高い所に限るわ」
「……まあ、確かにな」
「でしょう?光栄に思いなさい。あたしが一緒に飛んだ人間は、あんたが初めてなんだから」
あれ、そうなのか?でもまて、よくよく考えたら、こいつは今まで人間をエサとしか思っていなかったんだ。今までアルルカとまともな関係を気付けたのは、俺しかいなかったってことになるよな……
(ヴァンパイアとしては、それは正しいことなんだろうけど……)
羊と仲良くなる狼はいない。もしそうなったら、狼は飢えて死ぬだけだ。やっぱりこいつは、どこまで行っても怪物なんだろうか。
アルルカはしばらく、月下の夜空を滑空した。その後、雲海に浮かぶ一つの石柱に目を付けると、大きく旋回しながら高度を下げていった。石柱の上には松にも似た木が生えていて、俺たちはそのうちの一本の枝の上に降り立った。
「ふぅ、うふふ。こんなに飛んだの、久々な気がするわ。ここんとこ、ずっと土の中だったじゃない。気分がいいわ」
アルルカはずいぶん満足げだ。俺はやつから離れて、ゆっくりと枝に腰かける。枝は太くて、俺たちが乗ってもびくともしない。
木は曲がりくねって、崖にせり出すように生えていた。まるで雲の上のブランコに腰かけている気分だな。
「ひょっとして、あんなにごねたのは、飛ぶための口実か?」
「あら、そんなことはないわよ。その辺の藪の中よりは、ここの方がよっぽどロマンチックじゃない?」
「はあ?フッ、よく言うぜ」
これからするのは、単なる吸血行為だ。ロマンが介在する余地はないだろ。俺が鼻で笑うと、アルルカはむっと眉をひそめた。
「ふん。あんたみたいなおこちゃまには、アダルトなロマンがわかんないのよ」
「そりゃそうだろうよ……で、しないのか?」
「……する」
アルルカも俺の隣に座る。俺は上着をはだけると、シャツのボタンを緩めた。と、そこで前回のことを思い出した。
「ちょっとまて。アルルカ、言っておくけどな、この前みたいな茶番にはもう付き合わないからな!」
「う、うるさいわね。わかってるわよ……この前のは、あたしもトびかけたからね。しばらくはしないわ」
しばらくはって、もう少ししたらやる気か……?いや、よそう。藪蛇になるかもしれない。
「今回はね、前とは趣向が違うわ。前はギリギリまで焦らしたけど、今回は逆よ。最高の一瞬を楽しむんじゃなくて、至福の時間を長く楽しむことにしたの」
「至福って……それに、長く楽しむだと?あのなぁ、そんなにたくさん血はやらないからな」
「わかってるってば。ほら、早くこのマスクをのけてよ」
ほんとに分かってんのか……?俺は訝しがりつつも、アルルカの口元を覆うマスクを外してやった。月夜に照らされて、アルルカの小奇麗な顔があらわになる。磁器のような肌は病的なほどに白く美しい……って、いかんいかん。見惚れたなんて知られたら、フランに半殺しにされる。
アルルカはぺろりと唇を舐めると、俺の首筋に顔を近づけた。
「それじゃ、はじめるわよ……」
生暖かい吐息が肌にかかる。ああ、鳥肌が立ちそうだ。アルルカはまず手始めに、ぺろぺろと首を舐めた。こうする事で、感覚がマヒして、牙の痛みを感じなくなるのだという……これ、くすぐったいんだよな。そしてついに、二本の牙がつき立てられた。ぷすっと刺さる感触。だが、痛みはない。
「……はい、っと」
あれ?ものの一秒足らずで、アルルカは顔を離した。おかしいな。いつもなら、数秒程度は血を吸っているのに……
「んん~~~。やっぱりいいわぁ、コレぇ……」
アルルカはうっとりと、恍惚の表情を浮かべて味に浸っている。うーん、まあ本人が満足そうだから、いっか……俺がシャツを戻そうとすると、その手をがしっと掴まれた。
「あん?なんだよアルルカ」
「まだだめよ。全然吸えてないもの」
「は?いや、だって今……あ。ひょっとしてお前、わざと少ししか吸わなかったのか?」
そういうことか。アルルカは得意げに微笑む。
「んふふ。そーいうことよ。あんたの血はおいしいけど、刺激が強すぎてゆっくり味わえなかったのよね。だから今回は、短く何度も味わうことにしたの」
「うわー、それ……俺はすごいめんどくさいやつじゃないか」
「いいじゃない。これくらい付き合いなさいよ」
アルルカは上機嫌で笑うと、自分がつけた噛み痕に鼻を寄せて、深く息を吸い込んだ。
「だぁー!だからそれやめろって!」
「なによ、減るもんじゃなしに、けち臭いわね。はぁ、いい香り……香水にして持ち運びたいくらい」
こいつ……俺は早くもうんざりしてきた。
「ちっ。口車に乗らなきゃよかったな」
「ひひひ。あんたは甘いのよ。だから付け込まれるんだわ」
「う、うるさいな。そんな事もないだろ……」
「どこがよ。あのミイラ女もそう、ゾンビ娘に対してもそう。あんたがお人好しなもんだから、次々と面倒くさいものがくっついてくるんじゃない」
う……まぁ確かに、みんなを仲間にしたのは俺だしな。俺が言い返せないでいると、アルルカは足を組んで、雲の海に浮かぶ白い月を眺める。
「それに、今回だってそうじゃない。あの王女の頼みなんか、断っちゃえばよかったのに。あんた、あの女に命を狙われてたんでしょ」
「それは、そうだけど……でも今回は、人の命が掛かってるんだぞ」
「だから?あたしたちとちがって、人はいずれ死ぬわ。あんたが原因なわけでもないんだから、ほっといたって誰も文句は言わないでしょうに」
「……それをほっとかないから、人間なんだよ」
アルルカはこっちを見て、目をぱちくりしばたいた。それからまた月に目を戻す。
「人徳って?まあ、そうかもしれないわね……ヴァンパイアのあたしからしたら、到底理解できないもの」
俺は月明かりに照らされる、アルルカの白い横顔を見つめる。
人間は、助け合う生き物だ。別に、道徳的な話がしたいわけじゃない。人は弱いから、協力しなきゃ生きていけないってことだから。だが、ヴァンパイアは違う。不死性と強い魔力を持ち、これと言った弱点も持たないヴァンパイアは、単独で完結した存在だ……だが、そんなヴァンパイアであっても、満月の夜にはどうしようもなく欲するのだ。自らよりはるかに劣る、人間の血を。
「……アルルカ。聞いてもいいか?」
「ん?」
アルルカはこちらを見ないまま返事をする。
「お前は……こうなる前は、人間だったはずだろ。お前はどうして、ヴァンパイアになったんだ?」
柔らかな夜風が吹き、彼女の黒髪を揺らした。
つづく
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