黄昏を背に、至る夜明けに手を伸ばして
覚えていないのではなく存在していない。突然始まった記憶と記録、そこに存在するのは、深紅の髪に真っ赤な瞳の女性の姿と、ヤシロという単語。
「全てを与えながら、何も遺してはいかなかったのか」
その女性は何らかの感情により表情を変化させ、何らかの感情によりその言葉を呟いた。それを受け取る者の表情は無機物のように淡々としていて、言葉を理解しているのかどうかも、それを認識しているのかどうかも判断できない。女性が瞬きをすると、それを真似るように瞬きをした。嗚呼、と女性から落胆にも似た声が漏れる。
「なんて憐れな、愛しい子」
その言葉が何に向かっていたのか、本人ですら理解できてはいなかった。ただ、それはじっと相手を見つめて、瞼を閉じるその様を真似て、自身の瞼を下ろした。
黄昏を背に、至る夜明けに手を伸ばして
ヤト、という名をつけたのは深紅の魔女と同じ機構のひとりで、憐れみと祝福の為に名を贈った。深紅の魔女はそれを厭いながらも、自らで名を与えることができなかった為に甘んじてそれを受け入れた。それから、その存在はヤトとなった。
この世界の機構は唯一の大樹を中心に蜘蛛の巣のように広がっている。その全てが大樹の目であり、大樹の指先である。故にヤトの誕生は一瞬にして知れ渡り、あらゆる機構の目がその存在を注視した。何故それを気にしたのか、深紅の魔女以外にそれを知ることは叶わないだろう。彼らは心を持たぬ者として、世界を回すシステムでしかないのだから。
「お前がヤトか。名を与えられた愚か者」
ヤトが歩行機能を模倣し、意味も無く歩き回っているとどこからか声が聞こえてきた。それは侮蔑と嘲笑を含んだような、明らかに差別的な意味合いを持っていたのだが、それがヤトには分からなかった。
未だに言語機能を模倣しきれないヤトに、不出来な生命だとどこからともなく野次が飛んだ。そこに姿は無いというのに。ヤトはただ淡々と、向けられるそれを受け続けた。
「今日は何を学んだんだい、ヤト」
深紅の魔女に問いかけられて、ヤトは首を傾けた。何、の指す所が分からない。学ぶ、と言うことが分からない。
「ヤト」
深紅の魔女は緩く口元に弧を描いて、いずれ分かるようになる、とだけ呟いた。その表情はいつかの顔に似ている、とヤトは判断できたけれど、それが何を表しているのかよく分からなかった。
「何も持たぬ者から何を奪おうというのか。恐れを理由に奪うだけの愚か者。お前達こそ随分あさましいものと成り果てた。それは今お前たち自身が証明している。ただひたすらに大樹の愛を受け、その返し方すらも忘れた衆愚のなれの果て。お前達がこの子を論じることなどできぬ。去れ」
深紅の魔女はいつもヤトの前に立ち、その全てに向き合った。多くの言葉が彼女を貫いて、視ることも消すことも叶わない傷を残していこうとも、それを止めるものはいなかった。
ヤトの時間が積み重なるたびに、ヤトは多くを模倣し、吸収していった。ヤトには基盤となるヤシロの知識はあったけれど、まるで難解な辞書で文字の羅列を追っているかのように、認識した事柄に紐付けることができなかった。それを深紅の魔女はひとつひとつ丁寧に繋げていった。そのたびに、魔女はヤトに言葉をかける。
「どうかお前は、お前の幸せを見つけられるように」
ヤトにはそれがどういう意味なのか分からなかった。ただその頃には、ヤトは何をすべきかということを理解していた。
「お前がそう望むなら、己れはそれを叶えよう」
そう返すたび、魔女は再び憐れみの表情を向けた。ヤトはそれを見ながらただ、この返答は正しくなかったのかもしれない、と漠然と理解した。
排除せよ。異物を許してはならぬ。排除せよ。それは存在してはならぬ。
ヤトは、機構の様に完成したものでは無かった。けれど、機構を真似るようにその思考も行動も停滞していた。生物の本能のような変化を、生きているという証明である選択を、ヤトは何故かいつまでも学ぶことはなかった。深紅の魔女はそれが不思議だった。何かに遮られている訳ではない。ヤシロの記録を持ち、ヤシロが存在を譲り渡したというならば、この不完全なこの存在が完全な停滞に身を置く訳が無い。可能性があるとすれば、この環境だろう。深紅の魔女は思案する。
「ヤト」
ヤトはじっと深紅の魔女を見つめる。その姿はヤシロのようだが、ヤシロとは存在を対にするように、別の方向を向いている。深紅の魔女はその性質を感じながらも、それ以上に進むことのできない目の前の存在に目を細めた。
「お前は、此処にいてはいけない」
「……そうか」
「私の言葉の意味が分かるかい」
「此処に己れがいること自体に問題があるということだ」
「それでは、それ以外の意味は。私がお前に告げる理由は分かるかい」
「意味と理由が異なることは理解している。だが、己れにはそれ以上を理解することはできない」
「……そうか」
深紅の魔女が微笑む。ヤトはそれを見て、見たことの無い表情だ、と思った。深紅の魔女はぎいぎいと椅子を軋ませて背もたれに寄りかかる。じっと目を閉じて、静かな時間の中で、激流のような感情を整理する。
嗚呼、そうだった。私は忘れていたのだ。この感情と言うものを知ることができたのは、他の誰かがいたからだった。
深紅の魔女はゆっくりと瞼を上げて、ヤトに真っ直ぐに視線を向ける。ヤトの胸は動いていない。呼吸というものを知っているのに、今のヤトは模倣していない。瞬きというものを知っているのに、今のヤトはただの一度も目を閉じることは無い。じっと傍に在るものを見続けるその純粋な目は、ただ単純に、目の前を映すだけの鏡。どれだけ取り繕おうと、それは本質を見てしまうだろう。
ヤトが見ているこの世界は、なんて寂しい世界なのだろうか。深紅の魔女はそう思う程に、憐れみが深まってばかりだった。憐れみは偽りの優しさを生む。それはきっと、他の機構と同じ、それ以上を望めない者の言い訳になるだろう。
「ヤト」
深紅の魔女は決意した。
「さよならをしようか」
願いを叶えることを望む者に告げる、静かな離別。ヤトはそれを聞いて、暫くじっと動かないでいたが、それから頷いてただ一言、お前が望むなら、と返した。
そして数日が過ぎた。空の新月と泉の満月が入れ替わる晩、深紅の魔女はヤトを連れてその場所にやってきた。
「お前に祝福を」
この言葉にどれだけの意味があろうか。深紅の魔女はそう告げると、自らの髪を切り捨てた。地につくほどの長さの髪は無造作に切り取られ、それを魔女は泉に投げ入れた。
「これは縁。もしくは導。真理に繋がる己が縁を偽り、汝を掬いあげる蜘蛛の糸」
魔女は自らの心臓に刃を突き立てる。人間であれば致命傷になるその深々とした傷からは、血が滴る事は無かった。しかしその刃にはどんな赤よりも鮮烈な赤が纏われている。泉に映すとそれは思い出したように滴り落ち、水に溶けて消え去っていく。
「これは誓い。もしくは制約。存在を確立する縛り、またはそれを仮止めする楔」
魔女はヤトに泉に入るよう促した。ヤトは泉の真ん中まで進むと、止まっている筈の水がうねるように動くのを感じた。それはまるで生きているように、ヤト自身を呑み込もうとしているかのように緩やかに纏わりつく。
「月をもって時を絶つ。水をもって空を成す。回帰する理、その綻びは結び目、今彼の者の羅針盤は歪曲する。赦せ。壊せ。満ちるは是、賛美の時は来た」
深紅の魔女はヤトを見つめる。ヤトはじっとただ魔女を見つめて佇んでいた。深紅の魔女はその姿に少しだけ微笑んで、もう一度名前を呼んだ。そしてもうひとり、そこに誰かを見出すようにヤシロ、と呟く。ヤトは再び、見たことの無い表情だと思った。
「覚えておいで、ヤト。お前はたったひとりだ。その幸福を、その孤独を。お前がいつか知る日が来ますように」
「それは、己れに必要か」
「そうとも。ヤシロが遺していかなかったということは、きっと、お前に必要だったということだ」
ヤトは理解ができないまま頷いた。そうか、と返すヤトに魔女は、味気のない返事だ、と笑った。ヤトの視界が歪む。沈むように飲み込まれるように、その身は何かに溶けていく。そして意識できないままに、ヤトという存在は大きな流れに混じり、行き先も知らずどこまでも流されていった。痛みも無く、恐怖も無い。時間も無く、留まることすら許されない。
そうしてヤトは、彼の大陸へと流れついた。
ヤトが動けると認識できるまで、随分時間がかかった。恐らくその身が流れ着いてから、およそ数カ月の時が流れていた。瞼を上げ、上体を起こし、ゆっくりと立ち上がる。ヤトは周囲を見渡した。どこかの洞窟であることは間違いない。そしてヤトの体はこの世界が、ヤトがこれまでいた世界と異なっていることを明瞭に感じ取っていた。
ヤトは立ち上がり、何事も無かったかのように歩き出す。昨日の延長のように、ただ無表情に淡々と。疲労による停止が無い体は、時間を忘れて進み続けた。本能がヤトにあってそこを目指したのか、ただ道の延長上にそこはあったのか、ヤトは小さな町に辿り着いた。
「ちょっとアンタ!」
ヤトはその声に初めて足を止めた。振り返ると恰幅のいい女性がヤトに向かって目を吊り上げている。
「アンタ子どもだろう。何だいそんなに汚れちまって」
「……」
「親はどうしたんだい」
「親と言うのは己れを生み出したもので間違いは無いか」
「はあ?当然さ。置いてかれたのかい」
「もともといない。己れが生まれた時に消えたと聞いている」
それを聞いて、女性はばつが悪そうに頭を掻いた。ヤトはその様子をじっと見つめている。
「アンタ、これからどこに行くんだい」
女性の問いかけにヤトは首を傾げる。女性はヤトの様子に大きなため息を吐いて、ぐいぐいと腕を引っ張った。
「こんな子どもを、放っておくわけにはいかないだろうさ」
ヤトは特に抵抗することは無く、ただその女性に引きずられて行った。
世話を焼かれながら、ヤトは数日そこに滞在した。その間ヤトは人間を観察し、旅人を観察し、種族を観察し、文字や知識を習得した。小さな町故に多くの情報を得られなかったが、ある程度の行動を保証する程の知識をヤトは学習した。
そんな日々が終わったのはある日、自身の手を引いたあの女性が病で倒れた為だった。
「お節介だったろうが、もう面倒は見てやれないねえ。何処に行くんだか知らないが、しっかりやんな」
ヤトは取り敢えず頷いた。女性がふと、こんなことなら娘に会いに行けば良かった、と呟くと、これまで殆ど反応を見せなかったヤトが、自ら問い掛けるようにそれは何処にいると言った。女性は少しだけ驚いて、ああ、と身内の事を語り出した。ヤトは静かにその言葉を聞き、彼女の願いを確認すると、振り返ることもせずその場所に向かって行った。
そこからは、何とも短い時間だった。ヤトが休むことなく向かったそこには娘の姿は無く、空の酒瓶だけが転がっていた。誰かに聞くために振り向いたヤトは何かに殴られたが、それは完全に無意味だった。
「お前は〇〇という娘を知っているか」
その言葉を聞いて、男は怯えるように後ずさり、そして再び瓶をヤトに向かって振り下ろした。ヤトは避ける必要も無かったのでそれに当たるが、その頭からは血の一滴も出ることは無かった。ヤトは再度同じことを問い掛ける。
「あんな女!俺の言う事も聞かないで!心配なんて嘘を吐いて!くそ!俺が殺したんじゃない!勝手に死んだんだ!」
ヤトは言葉の組み合わせから娘の現在を理解した。死んでいる。しかしそれはヤトにとって問題では無かった。娘に会いたいと言ったのだ。ヤトは居場所を聞き出そうと男に近寄った。男が逃げようとしたのでヤトは即座に男の服の裾を掴むと、強引に引き倒した。
「娘は何処だ」
男は暫く支離滅裂なことを言っていたが、やがて娘の居場所を吐くと、めそめそと泣き始めた。ヤトは必要なことを聞いた以上そこに用は無いと、さっさと男から離れて示された場所に向かおうとした。
「ううっ、情けねえ……俺が、俺があ……生きてるんじゃ……くそ、死にやがって……もう嫌だ、殺してくれ」
ヤトはぴたりと足を止める。くるりと振り向いて、男に問い掛けた。
「死ぬことを願っているのか」
「ああ、そうだ……畜生、こんな、こんな……」
「わかった」
ヤトはすたすたと迷い無く男に近寄った。男は訝しげにヤトを見上げる。ヤトは手を伸ばし、一瞬にして男の首をへし折った。どさりと崩れ落ちる体を後目に、ヤトはごく自然にその場所を去った。
目的地について、無造作に盛られた土を掘り返すと、そこには人骨だけが残されていた。ヤトはこれだろう、と当たりをつけると、いくつかの骨を持って彼の女性の元まで帰り、当然のようにそれを見せ、聞き及んだ話をした。
愕然とする女性の顔、気力を失った目。ヤトは表情の変化と、それが意味する感情を推察した。繋げることは深紅の魔女から教わっていたため、以前よりも状況の把握が円滑に行えた。事実のみで、そこに内包する全ての意味と、感情の本質的なエネルギーを置き去りにして。
そして彼女は、数日の間に亡くなった。その結末を知ることは無く、ヤトはその場所を後にした。
ヤトはヒトの多い場所を選んで移動した。願いを察知すると、ヤトは無遠慮に声をかけた。泣き喚き懇願する者、笑みを持って近づく者、ただ純粋に願う者。ヤトはなにひとつとして区別せず、それを受け続けた。そこに正しさも過ちも無く、ヤトは何一つとして選ぶ事は無かった。
「嗚呼、嫌い、嫌い!あいつを殺して!」
「頼む、孫を助けてくれ!」
「どうしてこんなことを!」
「友達だったの……ただちょっとだけ、願ってしまっただけなのに!」
「有難う、おにいちゃん」
「君は本当に、良い子だ」
ヤトは向けられるもの全てに反応した。何を殺すことも厭わず、何を求めることもせず。ただそれだけを為す。それが自分の求めることなのだろうと。
いかなる種族であろうと、いかなる理由であろうと、ヤトはそれを受け続けた。その間にヤトは多くの事柄を学んだが、そこに表情が生まれることも、ヤト自身の望みが生まれることもなかった。
ヤトに寄ってくるのは、いつの頃からか悪意が多くなっていた。それは願いのみが大きく、自らで責を負わないような、無責任な悪意。しかしそれはヤトには分からない。
「お前さんに、頼みたいことがあるんだ」
その男は、柔和な笑みを浮かべた老人だった。善意のような顔をして、その男は当然のようにその言葉を口にした。
「こいつを殺してほしいんだよ。何、報酬は弾むとも」
「わかった」
間髪を入れずヤトが返答すると、男はにんまりと笑って、説明を始めた。
虫の鳴き声が騒々しい静かな夜、ヤトは目的の場所に向かっていた。さわさわと微かに水の流れる音がする。反響音に曇りがあり、ヤトは洞窟がそこにあることを察した。その方向に足を進めると、目的の場所がすぐに見えてきた。無遠慮に踏み入る。何かの明りが揺らめいて、ヤトの濃い影を躍らせた。
「おやおや、珍しい客人だ」
ヤトが声の方向に目を向けると、そこには随分と背丈の小さい老婆がいた。盲目なのかずっと目を閉じたままで、しかしヤトのことが見えているかのように反応する。ヤトは円滑にことが進むよう180程まで身長を伸ばして行動していたので、老婆の姿はいつもより殊更に小さく映った。
「お前さん、私を殺しに来たね」
「そうだ」
「成る程ねえ。さて、それはいつまでだ」
「次の祭典までに、だそうだ」
「ほっほ、そうかい、そうかい」
老婆はじっとヤトを見据える。その目を開くことも無いのに、視線だけが向けられているようだった。ヤトも真っ直ぐに老婆に向き合った。ぱちぱちと火の爆ぜる音がする。岩の間から吹く風に炎が揺らめいた。
「お前さん、私が殺さないで欲しいと願ったらどうするね」
「相反するものはこれまでもあった」
「どうしたのかね」
「叶えられないと、謝った」
「ふふ、はぁっはっは!そうかい。謝ったのかい。随分素直な子だねえ。随分、憐れな子だ」
老婆は自分の向かいの席を指し示し、ヤトを座らせた。ヤトは素直にそこに座ると、お前も願うことがあるのか、と尋ねた。
「私の願いか。そうだね、祭典まで数日ある。その間、お前さんと一緒に過ごさせておくれよ」
「分かった」
ヤトが返事をすると、老婆は可笑しそうに笑った。そうして手元の丸い鉱石を弄りながら、ヤトをじっと見つめた。
「お前さんにいいことを教えてやろう」
「何だ」
「命と、その繋がり。約束と、願い。お前さんが知るべきこと。お前さんに知ってほしいと誰かが願っていること。私のまじないは、ひとつの選択肢だ。お前さんに選択肢をやろう。最後には、お前さんが選ぶんだ。いいかい」
ヤトは理解ができなかったが、分かった、と頷いた。老婆はにっこりと笑って、皺くちゃな目じりを優しく緩めた。
「逃げるんじゃないよ。お前さんを思う、その娘の為にもね」
その日から、ヤトは老婆から多くのことを教えられた。ヤトは模倣するようにそれらを学習していった。
老婆は名をサトリと言った。サトリは数えきれないくらいの問いをヤトに投げ掛けた。その度にヤトは辞書的な答えを返す。そうするとサトリは更に深くまで問い掛けた。ヤトはやがて回答を持たない所まで辿りつくと、サトリは決まって、そこから先は自分で答えを持て、それを私に返してみせな、と言うのだ。ヤトは素直に考えた。何度も何度も考え、解を出した。そしてサトリは、お前はそう思うのかい、と頷いて見せる。いつもそこで話が終わるのだが、サトリはただの一度も、ヤトの言葉を間違っていると言うことは無かった。
「さあ、ヤト。これはお前ならどう答えるんだ」
「……それはまだ、己れには分からない」
「相変わらず素直だこと。だが、私がそれを許さないことは分かっているだろう。考えな。考えて、答えを出しな。なに、時間などまだ十分にあるし、お前さんなら簡単に私を縊り殺せる。安心おしよ」
「どうして」
「んん?なんだい」
「いや、この言葉を考えていた。何故ヒトは疑問を持つのか」
「お前はどう思う」
「分からない」
「ああ、良い答えだとも。お前はこれを、分からないと言う。知らないとは言わないのだ。無知で無垢な生命の擬いもの。お前さんは知らないことを知らないと言う。分からないことを分からないと言う。その線引きを、よく分かっている」
ヤトは首を傾げながら、サトリの開くことの無い目を見た。サトリはいつも少しだけ笑ったような顔をしている。穏やかな雰囲気から飛び出す言葉は刃物のように鋭く、そこから目を逸らすことが許されないような、静かな威圧感があった。
「お前は何故、言葉にすることが必要だと思う」
「言語化することがコミュニケーションとして重要だからだ」
「それもあるがね。誰もが安心したいのさ」
サトリは手持ちの鉱石をからからと鳴らしながら、いつものようにヤトの前に座り、爆ぜる火を眺めている。ヤトも思考のみで時間を消費するように、座ったまま微動だにしなかった。
「言葉ってのを持つと、それが誰かと共有することで同じような意味を持ち始める。そこに内包する個々の意味合いなど淘汰されるのさ。けれどヒトは、その普遍さに今度は甘えたがる。自身では掴みきれないその形の無いものが、内で蠢いていることに耐えられない。だから言葉にして、安心したいのさ。既知の事実に落としてしまえば、得体の知れないものに恐れる必要はないからね」
ヤトには、その話の複雑さは分からなかった。分からない、と答えると、そうかい、とだけ返ってきた。
サトリは多くの問答のうち、時折こうやって長話をすることがあった。ヤトにはその表情が、何かを懐かしんでいるからだと理解できた。サトリは基本的に自身の話をすることは無かったが、そういった長話の時だけ、少しだけ懐かしむようにぽろぽろと溢すのだ。ヤトは何となく、それがサトリにとって大事なことなのだと理解していた。本質的な理解というよりは、傾向程度の認識でしかなかったが。
「ヤト、お前さんの価値はどこにある」
もう目の前まで、祭典の日は迫っている。それでもサトリは逃げようとも、騙そうともしなかった。ただただいつものように問答を繰り返し、時間を潰すのだ。
「価値。お前さんが何かに向ける価値。誰かがお前さんに向ける価値。それはいつも変化している。お前さんを守り、お前さんに牙をむく。お忘れでないよ。そのどちらも間違でない以上、そのどちらも正しくない。けれど、その差が小さければ小さいほど争いは大きくなる。お前さんはそのとき、どう行動するのか。その選択肢を失いたくないのなら、お前はお前の価値の在り方を知らねばならん」
「その価値とは、己れの考え方の事か」
「そうさね。お前さんが考えようとした時に、答えを導きすために使った、それさ」
サトリはゆっくりと立ち上がり、初めてヤトの隣に座った。ヤトに触れようと手を伸ばすが、その手は空を切った。ヤトがその手を取る。サトリはにっこりと笑って、嗚呼お前さんがヤトかい、と言った。
手を握り、頬に触れ、冷たいねえと呟く。髪を梳り、頭を撫で、随分大きいと笑った。
「もっと小さい子どもかと思っていたのに、随分と大きい子どもがいたものだ」
抱き寄せて、じっと動かない。ヤトも何もするでもなく、サトリのなすがままになっていた。サトリは満足したようにヤトを離すと、再びヤトの手を両手で包み、温めるように何度も何度も握った。
「いいかい、ヤト」
ヤトはサトリの言葉を待った。サトリはヤトの手を離すと、腰元の袋からいくつかの鉱石を取り出し、ヤトに握らせた。それを投げて御覧と言われ、ヤトは軽くそれらを地面に投げた。サトリはその方向をじっと見つめ、酷く安堵したかのように息を漏らした。
「願いの責任は、願った者が負わねばならない」
サトリは再び鉱石を取り出し、同じように地面に投げた。ヤトの投げた鉱石の近くで散らばったそれらを、サトリの目は見えているかのようにただじっと見つめている。サトリはそれを拾うこと無く、ヤトの方に向き直った。
「お前さんのことが、心配だった」
「今のはまじないか」
「そうだ。けれど、私の最後のまじないが示したのは、私が安心するものだった。ヤト、お前さんはこれから私を殺す。私は残念ながら、お前さんが本当にこのことを理解した時に、赦してやれない。だから憎むことにする」
ヤトは少しだけ眉を寄せた。憎む、という感情が如何に負の方向性を持つのか、ヤトは以前よりも理解しているつもりだった。それなのにサトリは、それをヤトに向けると言う。殺す側と殺される側にある感情としては、恐らく間違ってはいないだろう。しかしヤトは何かか引っ掛かっていた。それを形容する言葉をヤトは持っていない。恐らくそれをこれまでの他の誰に向けられたとしても、ヤトは解を得ることはできなかっただろう。
「ヤト。覚えておいで。赦しなど、自らの内にしか無いものだ。それを与えることは本来誰にもできず、それを他に求めることは過ちに違いない。目を逸らすでないよ、ヤト。赦しを与えんとする者は、傲慢以外の何ものでもない」
両の頬を挟んで、目を逸らさないようにしながら、サトリはヤトに説く。それはサトリの内の持論なのかもしれないし、それは誰かと相反してぶつかるのかもしれない。ヤトの素直さはその答えに愚直過ぎた。サトリはそれを知ってなお、ヤトに説く。何度も何度もヤトに触れながら、サトリはやがて来る死の時まで、眠ること無くヤトに触れ続けた。
時は待つことなく過ぎ去っていく。今日は晴天なのだろう、朝の空気が澄んで、冷たいような気さえする。ヤトは無表情にサトリを見つめる。サトリはいつの間にか泣いていて、手も随分と冷たくなっていた。
「ヤト。お前さんの名を呼ぶものがきっと現れる」
「そうか」
「いつかお前さんは色んなことが解るようになる。いいかい、多くのことを知って、お前さんはお前さんとして、色んなことが解るようになる」
「そうか」
「そうして、その思いが育ったとき、お前は初めて赦される」
ヤトの胸に手を当てて、サトリは語りかけるように言う。
「この子と共に」
ヤトはそれが誰を示すのか分からなかった。けれど、思い起こせば、サトリは時折、いない誰かに語りかけるように話すことがあった。最初から最後まで、ずっと一緒にいたであろう誰か。ヤトはそれを尋ねたが、サトリから返答が来ることは無かった。
さあ、とサトリはいつもの席に座る。そうして立っているヤトを見上げ、嬉しそうに笑った。
いつか来る最期は、独りだと思っていた。
サトリは小さく呟く。その両眼からは涙が流れていた。恐怖だろうかとヤトは思う。それでも笑っているサトリを見て、違うのだろうと見当をつける。何故笑っているのだろう。ヤトは疑問に思った。けれどもう尋ねる時間が無いことは、お互いに分かっていた。
「さあ、さよならをしようかね」
「そうだな」
「お前さんがいつか、理解できた時でいい。お前さんならきっと赦すだろうから、私もこの罪を置いて行ける」
「罪?」
「お前のそんなまっしろの両手に、こんな命を預けてしまって、すまないねえ」
ヤトはその両手を、サトリの両手に先導されながら首へと伸ばした。これまでの誰よりも細く、弱いことは明白だった。それでも、何故かどんな相手よりも力が必要だった。ヤトはその一瞬にどれだけの力を籠めたのか、自分でも分からない。
ただ、ほんの僅かでも早く、終わらせようと体が動いた。
悲鳴も、恨みごとも、何も無かった。何も無くなったという感覚だけが、そこに残っていた。ヤトは両手を見る。横たえたサトリの姿を見る。これまでに感じなかった何かを言葉にしようとして、喉の機能がそれを阻害した。
近くの川縁に咲いた花を摘んで、見たことのある送り方の真似をする。その周囲に咲き誇るように、色とりどりの花がサトリの傍に舞った。
「サトリ」
ヤトは洞窟を出ようとして、一度だけ振り返った。そして一言、さようなら、と呟く。
もうその言葉に、誰も返してはくれなかった。
いつもの足取りで願った者の元に戻ると、その建物は静まり返っていた。門扉には誰もおらず、軽く開いた扉からヤトは無遠慮に入りこんだ。以前話をした大広間に向かう途中、何人かが道端で死んでいた。ヤトは目もくれることなく、一直線に願った者のいそうな場所に向かっていく。
部屋の扉を開けると、中には先程まで動いていたかのような人間達が、一瞬にして事切れたかのように部屋のあちこちに散らばっていた。その表情はどれも苦悶に満ちていて、ヤトにはそれが苦しんだ表情としか思えなかったが、実際は恐怖と苦痛を煮詰めたような末期の叫びに近い醜悪なものだった。
死体は喋らない。何を望むことは無い。
「お前の願いは叶えたぞ」
ヤトはそれだけ伝えると、興味が無さそうにすたすたとその部屋を後にした。
願い。ヤトはその単語を口にする。
願い。ヤトは自分に問い掛ける。
願い。思考を止めないようただ歩き続ける。
ヤトは三日三晩考えたが、解には辿りつかなかった。サトリのように答える人間がいるかと思って問い掛けると、異様なものを見るような視線を向けられ何処かに行ってしまうので、ヤトは次で止めようと思い、適当に目の前の人物に話し掛けた。
「願い?願いとは何か?成る程、君は人々が何を望んでいるのか知りたいという訳だな!」
「そういう訳ではないが」
「よしよし、そんな君にはギルドを勧めよう。ここには人々の願いや望みが集まってくる」
「そうなのか」
「ああ!君も頑丈そうな体に良い目をしている。真っ直ぐで人を裏切らない目だ。そんな人間を待っていた」
「人間ではないが」
「そうなのか?まあ何だっていい。最近は色んな奴が増えているからな。どうだい今日にでも。試練を受けて合格したら、色んな願いが叶えられるぞ!」
「…………分かった」
献身の精神は素晴らしい、と興奮気味に話すこの男はギルドマスターらしい。ヤトはそんな話をしたかった訳ではないのだが、ギルドマスターはお構いなしにずんずんとヤトを引っ張っていく。
「答えは知っていけば自ずと出るものだ。そうだろう?」
「分からない」
「そうかそうか!なら知っていけばいい。君の選択肢の先に、その答えはある!」
自信満々に言われて、ヤトは流されるように頷いた。試練を難なくクリアし、ヤトは正式に依頼を受けられるようになった。解を得られるなら、とヤトはギルドの仲介を受け、それなりに仕事をこなしていった。
「最近、よく一緒になるなあ!」
ヤトはいっこうに相手の顔を覚えていないが、ヤトのことを覚えている者に話しかけられるようになった。
「おい見ろよ、あいつも最近見るようになった顔だ」
ヤトは指を差された方を見る。明らかに人波を避けるようにしながら、掲示板を確認する者がいた。
「あいつもよく見るだろう」
「全く覚えが無い」
「まあなあ。お前もそうだが、チームワークってもんがねえからなあ」
顔なんて覚えてねえか、とひとり納得する男から視線を外し、先程の男を見る。旅人のようだが、人間では無い雰囲気がある。ヤトの感覚的にも魂の質が人と違うことが分かった。先程から話しかけてくる男は一方的にべらべらと話すと、勝手に何処かへ去っていった。ヤトも何かないかと掲示板を覗く。適当に見つけたものに登録しようとギルドマスターに声をかけた。
「ああ、丁度良い!先程他の枠が埋まって、あと一人だけ欲しいなと思っていたところだったんだ」
「先程?」
「ほら、彼だよ」
ヤトが示された方向を見る。そこには先程掲示板の前にいた長髪の男の姿があった。
「なんだかふたりとも似てるねえ。知り合いかい?」
「全く」
「成る程、まあ広い大陸だ。そういうこともあるだろう」
ひとり勝手に納得しているギルドマスターを後目に、ヤトは仕事を行うべく今回の人員とその集合場所を確認した。確認はするが、仕事が終われば記憶からは消える。覚えている必要が無いからだ。
「さあ、今日も一仕事、よろしく頼むよ!」
威勢のいい声に完全な無表情で頷きながら、ヤトは行動を開始した。
そうして過ごしていく日々の途中、ヤトはある日運命に出会う。
その運命は無愛想な顔をして、願いに食い荒らされそうなヤトの手を掴み、引っ張り上げてくれたのだ。
ヤトはその手を離すことは無いだろう。何故なら、ヤトが望んだから。自ら望んで、ヤトはその手を取ったのだ。
その奇跡と赦される日が訪れるまで、あともう少し。
(いつか巡る旅の始まりまで)