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 雪深い街に生まれた。そのまま街を出ることなく生きて、死ぬと思っていた。

 小さい頃から街を離れるなんて考えもしなくて、街で生きるための知識と交流関係があれば十分だった。それが変わったのは、高校生のころ。便利な道具が台頭すると共に、街と街以外の知識が簡単に入ってくるようになった。

 それが良かったのか、悪かったのか。今でもわかりはしないが、それでも知識は道が一つでないことを教えてくれたのだった。


 それから十数年。生まれた街から離れ、灰色が視界を占めるコンクリ―トジャングルで暮らしていた。一人で暮らす分には問題ない給与をもらって、どうにか日々を過ごしている。

 これといった趣味も持たず、朝から晩まで働いて、休日は寝る。幼いころは大人になるという事は、何もかもか自由で、楽しい物だと思っていた。けれど、夢見たようなキラキラしたような暮らしには程遠い。打開する術を持たない自分は、結局のところ特別な人間ではなかったのだろう。昔持っていた万能感は、今ではただの毒にすぎなかった。



 ーー今日も朝から休まずパソコンに向かう。

 文字を打ち込む軽い音は、途切れることなくオフィスに満ちていた。ざわめきは仕事の内容と、他愛もない雑談が半々だ。そろそろ昼休みになる頃合いなので、浮足立った内容が目立つ。自分もそろそろ目途をつけようか、と考えたところに同僚が一人近づいてきた。


宮沢(みやさわ)ー。これやっといて。十五時までに。頼むよ!」

「え」


 びっしりと文字で埋まった書類が机に置かれる。内容を確認する限り、彼の担当する商談に関する書類のようだが、急ぎなのだろうか。時間はちょうど正午を差している。十五時までに終わらせるには昼休みを返上するしかない。


 戸惑った一瞬のうちに、声をかけてきた男、鈴木啓二(すずきけいじ)は「よろしく!」と軽く言うと、返事を待たずに踵を返す。そのままオフィスの入り口で待っていた、後輩の佐々木里佳(ささきりか)と合流した。佐々木さんはこちらをちらりと見ると、口元に笑みを残したまま鈴木へ問いかけた。


「啓二さん、いいんですか?」

「いいの、いいの」


 佐々木さんの言葉を軽く流し、二人は連れ立ってオフィスを出ていく。断ることも出来ずにぽつんと残され、残っていた同僚からの視線を感じた。溜息を吐いて心を落ち着ける。仕事は仕事なので、言われたものは終わらせようと、さっそく仕事にとりかかった。



 ふ、と唐突に集中力が途切れた。

 時刻は退勤時間を差している。昼に頼まれた仕事をこなしてから自分の仕事に取り掛かったせいで、進行スピードは中々鈍い。鈴木は軽い言葉でお礼を言って、書類を受け取った。こちらの仕事は進まなかったのに、なんて文句を言いたくもなるが、ぐっと堪えた。

 ……今日も残業だろう、と覚悟を決める。数時間の残業を行う前にせめて、昼に食べ損ねたせいで空腹を訴える胃をどうにかしようと思う。


 机横に置いておいた鞄から、朝に作っておいたお弁当のおにぎりを取り出す。ラップをはがすと、しっとりとした海苔が顔を出した。コンビニおにぎりのぱりっとした海苔も好きだが、自家製おにぎりならではのしっとりとした海苔も、嫌いではない。

 一口かじるとほんのりとした塩味を感じる。今日の中身は梅干しだ。少し甘めの梅干しをおにぎりに入れるのが、実家にいたころからのお約束。

 ゆっくりと咀嚼していると、帰り支度を済ませた佐々木さんが、机に近づいてきた。


「あれ、宮沢さん。今頃お昼ですか?」

「え、ああ。うん、そうだよ」


 わかりきったことを聞いてくるので戸惑ったものの、どうにか返事を返す。明らかな悪意を向けられると、やはり一瞬戸惑ってしまう。

 今年入社した佐々木さんは、綺麗な外見と明るい性格から、様々な男性から好意を向けられているらしい。今は鈴木とわりといい仲になっているようだが、噂の域を出ない。そんな彼女からは、何故か目の敵にされている。表には出さないものの、一人きりの時や業務終了後にこうして絡まれることも多い。


 佐々木さんは軽く笑うと、自分の鞄を持ち直した。


「今日、啓二さんと食事に行くんです。会社の近くにおいしいイタリアンがあるって」

「へえ、よかったですね」


 おいしいイタリアン、と聞いて何となくあそこかな、というお店があった。会社から出て横断歩道を渡った先にある路地の向こうに、小さいけれど雰囲気の良いお店があるのだ。最近、鈴木からいい店はないかと聞かれて教えていた。


 佐々木さんはこちらの返事を聞いて、一瞬むっとしたものの、すぐに持ち直す。余裕そうに口元に笑みを浮かべる。そして目線を地面に向け、きれいに染められた髪をいじりながらさらに言葉を重ねた。


「よかったら、一緒にどうです? 今日は奢りって、啓二さん言ってましたし」


 くるくると手遊びしながら返答を待つ彼女に、少し困ってしまう。

 今日の昼に鈴木から仕事を押し付けられた関係で、自分の仕事が進んでいない。昼に様子を見ていてわかっているだろうに。誘ってくる彼女に、さすがにどう返したものかと思った。


「嬉しいけど、今日の仕事が終わってないんだ。残念だけど、今回は無理かな」


 苦笑して伝える。嫌われているのだから、悔しがってあげた方がいいだろうか。その方が、多少当たりも柔らかくなるかな、なんて打算をしたが、正直に言った。返事を聞いた佐々木さんは、眉間にしわを寄せた。不機嫌な感情がわかりやすいが、綺麗な人に睨まれるのは、何度あっても慣れない。


「……そうですか。仕事、大変なんですね」


 低い声を聞いて、ああ彼女の望む言葉じゃなかったんだなと思う。今更答えは変えられないし、仕事も終わらせないといけないので撤回するつもりはないが、どうにも感情の読めない子だと思う。普通であれば、意中の相手と食事なら二人きりがいいだろうに、美人は難しいなあ。


「あ、里佳。まだここにいたの?」


 会話が終わり、膠着(こうちゃく)状態だった空間に声がかかる。鈴木がオフィスの入り口から顔を出し、手を振っていた。鈴木が現れたからには、こちらのことは放っておいて鈴木と共に退社するかと思ったのだが、彼女は動くことなく一瞥しただけだった。


「啓二さん。宮沢さん、まだ仕事終わってないんですって」


 佐々木さんは拗ねた様子で鈴木に伝える。


「あー、今日忙しかったみたいだな。仕方ないし早く行こうよ」


 動かない彼女を連れ出すために、鈴木がこちらへ近づいて来た。佐々木さんの顔を見ると、なんとも言えない表情をしていた。とてもじゃないが、これから意中の相手と食事にいくような顔ではないと思う。というか、無駄話をしていないで早く帰ればいいのに、と思ってはいけないだろうか。

 鈴木に窘められた佐々木さんは小さく溜息を吐くと、わかりました。と承諾した。


「でも、少し待って貰えますか。お手洗いに行きたいので」

「全然いいよー。ここで待ってるね」


 軽い調子で鈴木が返答すると、佐々木さんはこちらを冷たい目で一瞥し、オフィスから出ていった。緊張する時間が終わりほっと息を吐くと、手持無沙汰なのか、鈴木が近くのデスクにもたれ掛かった。話すこともないし、おにぎりも食べ終わったので再度パソコンに向かう。キーボードに手をかけたところで、鈴木が口を開いた。


「あのさ、里佳となんかあった?」


 心配げに、というよりは探るように聞いてくる。心当たりはないがこの様子だと、彼女はせっかくのランチ時にまで、わざわざ嫌っている人間の話をしたのだろうか。


「よく睨まれるし、嫌われてるとは思うけど」

「そうなん?」

「退勤後とかよく絡まれる」

「絡まれるって……」


 用事もないのにわざわざやってきて睨んでくることを、絡むと言わず何というのだろうか。仕事上の問題は起きていないので現状は様子見だが、進んで関わりたいとは思わない。


「ていうか、人に仕事を押し付けたのに定時で上がって、残業の邪魔までするの?」

「げ、ごめんて。里佳にランチ誘われてたしさ」

「はー……。これ以上邪魔するなら今後は手伝わないよ」


 もう言うことはないので、改めて仕事に取り掛かる。区切りのいいところまでやったら、今日は帰ってしまおうかと思う。精神的に疲れたし。残業をするためにおにぎりを食べたのに、損した気分だ。


「お待たせしました」

「待ってない、待ってない。宮沢と話してたし、大丈夫」

「そうですか」


 お手洗いから帰ってきた佐々木さんがオフィスに顔を出す。何となく視線を感じる気がするが、給湯室でコーヒーを入れるために椅子から立ち上がる。給湯室は入り口近くなので、佐々木さんとすれ違うことになるが、まあ一瞬なら大丈夫だろうと思う。


 ゆっくりと佐々木さんの横を抜ける。やはり視線を感じたが声を掛けてくることはなかった。


「じゃあ鈴木、佐々木さん、お疲れ様」

「お疲れー」

「お疲れ様です」

 

 軽く手を振って、二人はオフィスから出て行った。やっと雑音がなくなったからか、一日の疲れがどっと圧し掛かってきた気がするが、これからが本番だ。できる限り効率良く仕事を熟せば、早めに帰れるだろうか。


 給湯室に入ると、共用のコーヒーメーカーが稼働していた。残業組の誰かが作った残りを少し拝借し、行儀が悪いが、シンクにもたれて一口飲んだ。香ばしい匂いが鼻孔に届き、ほっと息を吐いた。



 ーーその時、地底から響くような音がした。

 均衡を崩した足が床を滑り、シンクにもたれて居た体はいとも簡単に引き倒された。持っていたカップは弾かれたように手から離れ、粉々に割れて、床に中身をこぼしていた。

 遠くで同僚の叫ぶ声が聞こえる。食器棚に収まっていた湯飲みが次々に床に叩き落され、棚すらも耐え切れずに大きく身を傾けていた。

 目の前に大きな塊が迫る。動揺で動かない体は、逆らうことも出来ず、意識は暗い闇へと、沈んでいった。



5/26 一部修正

6/13 加筆修正済

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