起きる
目が覚めた。
この天井を見るのは二度目だなぁ、と存外能天気な頭でぼんやり考える。
整理しよう。
私の名前は藤堂楓。
営業所勤務で日本在住の極々一般的な社会人だ。
残業は多いし、友達もいないから休みでも仕事の事を考えてしまうような孤独な社畜思考であることも付け加えておこう。
どうにも余ったプライベートの時間では買い溜めたゲームをコツコツとやるかソシャゲをやるばかり。
こんな性分だから結婚は無理だろうと早々に諦めていた。
田舎から地方都市にある会社へ出社している為毎朝の満員電車が辛いが、五年も経てばそれも薄れてしまう。
同僚とはプライベートで会うことはないが、まぁ良心的な人達に囲まれて仕事をしている。
上長にも部下にも比較的恵まれた方だと思う。
だが、今はその日常の悉くが遠く離れてしまった。
ベッドから抜け出して、派手に割れてしまっている窓に近付き外を見る。
うん、まずもってここは日本ではない。
個人個人が好き勝手に建てた統一性の欠片もない住宅街が並ぶわけでも、省スペースと言わんばかりに雑居ビルが犇めいている訳でもない外は煉瓦作りを基本とした街並みが整然と並んでいる。
身を包むのは麻製か、はたまた綿製か。
とにかく化学繊維によって滑らかさを追求した現代のものとは程遠い。
見える範囲であんなに慣れ親しんだ沿線は見当たらず、街を走るのは排気ガスを撒き散らす車ではなく、馬車ばかり。
手に視線を移すと、丁寧に包帯が巻かれていた。
夢じゃ、無いのだろう。
あの痛みも現実で、彼の言った言葉も。
夢だ妄想だと宣っても、私の右手はじくじくと膿んだような痛みを残してくれている。
夢でも妄想でもなく、私を現実に繋ぎ止めてくれる鎖のような痛み。
私はきつく眼を閉じて、慎重に息を吐き出した。
「ぁ、」
がちゃりと、扉が鳴った。
振り返って扉を見やると満タンの水差しを持ったクリスが驚いたように私を見ていた。
彼はその後困ったように小首を傾げて部屋の中へと入ってくる。
「起きたんだね、気分はどうかな?」
「……悪くないです。
ご迷惑、おかけしました」
水差しを交換していたクリスは私の返答を聞くと、心底驚いたように私を振り返る。
そして、あぐあぐと空気を噛んだ。
「あ、え?
い、意識はハッキリして、」
「はい、ハッキリしています」
私の様子に本当に度肝を抜かれているらしい。
いや、それに関しては私もビックリなのだ。
私には昨日の記憶があまり無い。
所々覚えているのは彼らと会話した後狂ったように叫んでいる所だけだ。
だが今日起きてみると、頭はスッキリして思考はクリアだ。
こうして起き上がって普通に会話し、昨日の失態を謝罪できるほどに。
驚くなという方が無茶である。
とはいえそう思うと、羞恥が心を過って私はワンピースの裾を握りながら目線を下げる。
「あの、すみません。
色々とお見苦しいものを」
「い!
いや、大丈夫だよ!
えぇと、とりあえず座ってくれるかい?
顔を見せてほしいんだ」
言われるままにベッドの縁に座り、クリスの出方を待つ。
クリスは私の目の前に屈むと手首を掴んだり、目の様子を確認したりしながら訝しげに私の表情を伺っているように見える。
「うん、体調は問題なさそうだね。
気分が悪かったりするかい?
手の傷の調子は?」
「大丈夫です」
そう、と返事をしながらクリスは唸る。
「覚えている事はあるかい?」
クリスは私の手を握りながら私を見上げて微笑む。
まるで小児科医の先生だな。
私はどこか笑ってしまいそうな気持ちを抑えがなら記憶を辿ってみる。
けれど、覚えている事は大して変わらない。
電車に轢かれたと思ったら空から落ちていて、天使に拾われてここにいる。
なんともまぁ、荒唐無稽な話だ。
「覚えている事、ですか」
出来るだけ、白々しくならないように注意を払いながら私は首を傾げる。
「そう、何でも良いんだけど」
「…空から落ちてました」
「それより前の事は?」
「何も、覚えていません」
こうするしかない。
言ってもきっと誰も信じてくれないのだから、いっそ知らぬ存ぜぬを貫いてしまわないと今の保護された環境が変わってしまうかもしれない。
これが現実だとして、問題はどう生き延びるかだ。
少なくとも、クリスは私に危害を加える様子はない。
そして、ここは日本じゃないみたいだけど、誘拐などでもない。
急に空から落とされる誘拐があってたまるか。
私のしれっとした様子にクリスは困ったように少し眉尻を下げる。
「何も?」
「えぇ」
「……言いたくないなら、それでいいんだ。
僕は咎めはしないよ。
けど僕も軍人の端くれでね。
君が保安上危険ではないかをある程度判断しなくちゃいけない」
あ、お見通しですか。
けど、言ってしまった手前、私から何かを言うわけにはいかない。
というより言いたくないからという理由でも許容してくれるなら、どちらにせよ知らぬ存ぜぬを通す他無い。
しかし、この優しそうなクリスが軍人とは驚きだ。
体格の良い身体なのだからそこに関しては驚きは少ないけれど、なんというか、困ったように笑う彼の顔は軍人というよりは草臥れたサラリーマンという方がしっくりくる。
決して顔色が悪いとか、そういうんじゃなくて、ただただ疲れきったような顔が印象的だった。
「…よし。
カエデ、ホットミルクは好き?」
「はい?」
突然の質問に眼を白黒させる。
ほっと、みるく?
いや、そこはこう、言えない理由を教えてくれとか、もう少しあるんじゃ?
「えぇと、嫌いじゃありません」
「そうかい、良かった。
ならキッチンへ行こう」
うきうきという表現がぴったりな様子でクリスは立ち上がる。
え、本気で?
「あ、靴はとりあえずそこにあるクロッグを使うといいよ」
言いながらクリスは私の足元を指差す。
その指の先に視線を向かわせると私の踵の後ろ、ベッドの下に茶色の革製のようなスリッパが置いてあった。
クロッグとはこれの事か。
私はそれを手にとって履きやすいように前に出すと、それは予想以上に硬く、予想以上に重い。
待て、この感触は。
「木靴は初めて?」
クリスの声に肩が跳ねそうになる。
木靴!?
え、なに、下駄ってこと!?
ちらりとクリスを盗み見るとクリスは相も変わらずにこにこと微笑みながら私を見ている。
悪意が有るか無いかは一旦置いておくにしても、私の反応を伺っているのは明らかだ。
くそ、どう答えるのが正解か。
履いたことは、ある。
下駄ならだけど。
だけどそれをそのまま言うと他に何を覚えているか聞かれそうだ。
だからと言ってこのまま履いたとしよう。
問題は、今目の前のクリスは木靴を履いていない事にある。
彼が履いているのは黒い革のブーツなのだ。
黒い紐で編み上げる革のブーツ。
もしクリスにとって木靴というものが時代錯誤の、骨董品だとしたら?
いや、でも骨董品が普通にベッドの下に置いてあるか?
普通捨てるか売るだろう。
というか、何故私はこんな木靴一つで右往左往しなくてはいけないんだ!!
いくら考えても答えはないだろう!
私は腹を括ってそっと木靴に足を入れる。
そして立ち上がり、履いた感覚を確かめながら小さく息を吐き出す。
「大丈夫です」
「そう?
良かった」
結局、初めてかどうかは答えずに私はクリスへ視線を向ける。
クリスは私が立ち上がったのを確認すると、おいで、と言いながらドアを開けた。
クリスの後を大人しく着いて歩くとからからと木靴が鳴る。
廊下を進んでそのまま階段を降りるとリビングが広がっていた。
きょろきょろと不躾に室内を見渡しているとクリスは部屋にあるテーブルと対になった椅子を少し引いて私を促す。
私が勧められるまま腰掛けると、クリスは満足そうに笑って奥の部屋へと姿を消した。
「リサーナは今、登営してるけどその内帰ってくるからね」
「分かりました」
これは暗に動くなという事だろうか。
体を硬くしてクリスの行動を伺っていると奥の部屋の様子が見えた。
奥はどうやらキッチンになっているらしい。
真ん中に大きめのテーブルがあって、椅子はなさそうだ。
壁際にはどうやらシンクやコンロと思われる物が添えつけられているようだ。
クリスはそれに向かって何か作業をしているようで、話を思い返す限りではホットミルクを作っていると思う。
この部屋の生活感は落ち着く。
床には深紅のカーペットが敷かれ、壁は二階のコンクリートの打ちっぱなしのような雰囲気はなく、落ち着いた柄の壁紙が貼られていた。
壁には焦げ茶色のブックケースとキャビネットが並び、暖炉までもが備え付けられている。
ブックケースには陶器製のティーカップや分厚い本が、キャビネットには花瓶が置かれ、赤色の花が飾られている。
その花瓶の横に、写真があることに気が付いた。
白黒ではあるが、幾人かの影が映った写真だ。
思わず立ち上がり、間近で見る。
八人の男女の写真だ。
全員が堅苦しい軍服のような服を着込んでいる。
中心には幸せそうに微笑む、クリスとリサーナ。
照れたような、はにかんだようなリサーナの笑顔は、私が見た快活そうな彼女からは想像がつかない。
その二人を取り囲むように残りの六人が笑顔で映っている。
いや、一人だけ笑顔ではない。
天使だ。
私を拾った天使だけが不機嫌そうに写っている。
「あ、気付いた?
それは僕とリサーナの結婚の時の写真だよ」
振り返ると、クリスが二つのマグカップを持って奥の部屋からこちらに来たところだった。
クリスはそのまま私の横に立つとマグカップを一つ差し出してくれる。
「ご結婚されていたんですね」
そう言えば、二人とも自分達の家だと言っていたような気がする。
新事実だ。
私はクリスからマグカップを受け取って啜ると、じんわりと暖かい甘味が口に広がった。
「そう、まだ五年だけどね」
じゃあこれは、五年前の写真か。
そう言われればクリスもリサーナも今より少し若いような気がする。
天使に至っては、少し幼い。
「天使も、写真に写るんだ」
「え、天使?」
少しぎょっとしたようにクリスが私を見た。
しまった、声に出た。
長い独り身生活の悪癖である。
私は誤魔化すのも面倒で、写真に写る黒銀の彼をそっと指差した。
「え、天使って隊長の事かい?」
「…違うんですか?
私、彼に助けられた時、空飛んでるし、天使なんだって思って」
ちらりとクリスをを見上げると、彼はぽかんと口を開けていた。
あ、これは確実に天使とかじゃない。
これまでのやり取りで薄々感付いていたけど、これは確定だ。
彼も、彼の周囲のこの人達も、一切合切皆人だ。
「ん?
ちょっと待って、カエデ。
今何て言ったの?」
クリスは相変わらず間抜けな顔のまま私を問いただす。
いや、変な勘違いをしていたのは自覚してるから何度も聞かないでほしい。
けれど答えないわけにもいかないわけで。
私は渋々また口を開く。
「空を飛んでたから、天使なんだって」
「違う、その少し前」
「少し前?」
何を聞きたいのか、クリスは徐々に口角を上げながら私を促す。
えぇと、確か。
「私、彼に助けられ」
「彼?
彼女じゃなくて?」
「え?」
私の言葉を少し喰うような形でクリスに問われるが、彼女?
いやいや、確かに中性的だったけど、そんなはず。
「この人だよね?」
ぴ、とクリスは黒銀の彼を指差す。
「そうです」
え、本当に、まさか?
「この人はクナイ・ファミリア。
僕らの部隊長で、正真正銘、女性だよ」
ぴしり、と固まった後、私は驚きのあまり絶叫していた。
その声にクリスは面食らったように固まった後、慌てて私からマグカップを取り上げてキャビネットに置くが、そんな事はどうでもいい。
そ、そんな!
だって、あんなに格好いい人が!?
「で、でも!
初対面の時、お、女呼ばわりしてきました!」
「隊長は言葉遣いが悪いし話さないからね。
他所の人なら気付かなくても無理ないか」
私の戸惑いにクリスは困っているようで、落ち着いてねー、と間延びした声を出しながらゆっくりとしたリズムで肩を叩いてくれる。
「ほ、程がありませんか?」
「士官生は男社会だからね。
舐められたくなかったんじゃない?」
いや、分かるようで全く分からない!
寧ろ出る杭になって打たれまくりそうだ。
その辺もここは日本とは違うというか!!
「ただいまー」
私が衝撃と格闘しているとリサーナが外から入ってくる。
いつもの白シャツと黒ネクタイだが、その上に着用している黒いジャケットは階級賞のようなものがいくつか着いており、なるほど、紛う事なき軍人である。
「あら、かなり元気そうね」
「聞いてたのと様子が違うっすね!」
リサーナの後ろから、ひょこっと男性が顔を出す。
幼いような顔は、先程の写真で見た顔だ。
「ああ、ロッツィが来たのか」
クリスが呼ぶ名前は、恐らく彼の物なのだろう。
彼はリサーナよりもやや小さい体躯を目一杯主張してリサーナの前に出てくると私へ手を差し出してきた。
「初めまして、僕はロッツィ・エイブラハム。
リサーナさんとクリスさんの後輩っす!」
元気そうな彼の手を握り返そうと手を動かすと、それよりも先に彼、ロッツィの手にクリスが自分のマグカップを握らせた。
「悪いけどロッツィ、これキッチンに持って行ってくれるかい?
カエデ、そのマグカップは僕が片付けるよ」
流れるような動きでクリスはキッチンへとロッツィを連れて行く。
小首を傾げているとリサーナが顎に手を当てて私を観察しているのが眼に入った。
「あ、えっと、ご迷惑おかけしました」
「え?
あぁ、と…、まさかそういう事?」
「え?」
視線を下げたリサーナに疑問を感じてリサーナを見続けていると、リサーナは直ぐに何でもないように明るく笑って私を見る。
「何でもないわ。
体調は平気?」
「は、はい」
「そう、なら良かったわ。
昨日はかなり暴れてたからどうしようかと思ったけど」
「ほ、本当にご迷惑おかけして…」
うぐ、と痛いところをつかれて黙る。
気まずい事この上ない。
「はいはーい!
了解したっす!
なら検査室までご案内っすね!」
キッチンから元気な声がして、私がキッチンを振り返ると普段の顔よりもよっぽど疲れた顔のクリスと目があった。
「手の怪我から変な菌が入ってるとも限らないからね。
一回軍の医療施設で検査させてもらうよ」
…流石にそれは嘘臭いです、クリスさん。




