軍医の自宅にて
どれだけ時間が経ったのだろう。
嗚咽を漏らしながらカエデはぐちゃぐちゃの顔を床に押さえ付けていた。
恐らく脳の防衛本能が働いているのだろう、興奮状態から一時抜け出して今は休眠状態のようだった。
これなら直ぐに暴れだす心配もないだろう。
僕はそう判断してゆっくりとカエデを押さえ付ける為に乗せていた膝と両手を離す。
「リサーナ、もう大丈夫だよ」
彼女を振り返るとリサーナは怖い顔でカエデを睨み付けていた。
チラリと僕を見て、彼女は渋々と言わんばかりにため息をついてからカエデに向けていた両手を下ろして指を振る。
するとカエデを床に張り付けていた水がゆるゆると動いて彼女の人差し指の上へと移動した。
体が自由になってもカエデは動かない。
さて、心の内がどうあれ暴れないのは有難い。
僕は彼女を引きずり起こすとベッドの縁に座らせた。
彼女の体にはほとんど力が入っておらず、まるで人形のようだ。
その様子にやっとリサーナは今暴れる事がないと判断したみたいで、そっとカエデの顔を覗き込んで苦笑する。
「あらあら、ぐちゃぐちゃね」
その言葉に僕も苦笑する。
そりゃそうだ。
あれだけ叫んで、泣いていたらぐちゃぐちゃにもなるだろう。
何が理由かは分からないけど、恐らく僕の言葉が彼女の琴線に触れて彼女は壊れてしまったのだから。
「清めたまえ」
ぴ、とリサーナがカエデを指差す。
すると彼女の人差し指の上で浮かんでいた水がカエデの顔に飛び付いて、顔の涙やら涎やら鼻水やらを洗い流していく。
本当にリサーナの水魔法は応用が利いて羨ましい。
僕は魔法の才能があまり無いから。
「流してくるわね」
「ああ、分かったよ。
後道具を持ってきてくれるかい?」
「ええ」
一通りカエデの顔を洗い流すと水はまたリサーナの人差し指の上へと帰って行き、リサーナは汚れた水を連れたまま部屋から出ていく。
さて、僕は彼女の怪我の状態を調べなくては。
カエデの前に屈んで両手を取る。
右手には硝子が刺さり、肘辺りまで細かい切り傷が点々とついている。
掌は硝子を握り締めた事によってぱっくりと切れてしまっていた。
骨までは勿論到達していないが、痛々しい事に変わりはない。
全ての傷口から血が流れ出ているが、刺さっている硝子を引き抜きさえしなければ一気に出血はしないだろう。
左手は比較的無傷だが掌だけは拳を握りすぎた為に爪で押し切れてしまっている。
「痛みは?」
念のために声をかけてはみるが、予想通りカエデは動かない。
本当に人形になってしまったみたいだ。
瞳孔は縮小、脈拍は遠く小さく、緩やかだ。
今は何を言っても、何をしても、反応が返ってくることは無いだろう。
「これでいいかしら」
言いながら、リサーナが入ってくる。
手には僕の仕事道具のポーチが握られていた。
お礼を言ってからポーチを受け取ってカエデに向き直る。
先ずは、硝子からだね。
「硝子を抜くよ。
痛かったら言ってね」
そっと、注意を払いながら硝子を引き抜き、ポーチから紺色のローポーションを取り出して傷口へと流し込もうとして、止めた。
その前にリサーナに聞かなくちゃいけない事がある。
「そう言えば、魔力浸透をしたら気分が悪くなったって言ってたけど、そんなに強く魔力を流したのかい?」
ポーションを代表とする錬金術薬には魔力が宿っている。
効果が高い薬にはより多く、低い薬にはより少ない魔力を込めて錬金術師や薬術師が魔力を宿しながら鉱石や薬草を煎じて作るからだ。
故に魔力量の少ない一般人に対して使用できる薬は安価かつ含有魔力の少ないローポーションしか使用できない事になっている。
まぁ、裏技みたいなのはあるけどね。
とはいえ、壊れてしまったカエデに手荒な事はしたくないし、せっかく休眠状態で大人しくしているのに魔力で変に刺激を与えて暴れられても困る。
そう思ってリサーナの振り返ったのだけど、珍しくリサーナは困惑したようにカエデを見ていた。
「いいえ、そんなには。
貴方でも何も影響しない程度よ?」
「僕でも?
うーん、になるとなぁ…」
どうしようか。
僕は人より魔力量が少ない。
そんな僕でもローポーション位なら裏技を使わなくても飲むことが出来るからよっぽど魔力中毒を起こす心配は無いと思うけど、リサーナの魔力浸透で気分が悪くなったのが少し気にかかる。
もし万が一、ローポーションでカエデが魔力中毒にでもなった時には僕に出来る対処はほとんど無くなってしまう。
リサーナ辺りはそうなってしまった方が面倒が少なくて良いと笑いそうだけど、僕としては御免被りたい。
カエデは今なら例え痛くても気分が悪くても何も反応しないだろう。
なら薬も魔法も使わない方が得策か。
僕はそう結論付けるとローポーションをポーチに戻して代わりに針と糸を取り出した。
「ポーションは使わないの?」
「そうだね、万全は期したいから」
それに、僕はカエデに傷を残してあげたかった。
ここにいる事、そして今日あった事を無かった事にはしたくなかったからだ。
カエデの主張は本当によく分からない。
生きたいだの死んだだの、状況や生まれの事は話してくれないし、分かるように説明してくれる事もない。
ただただ駄々っ子のように鬱憤を爆発させるだけ。
だからとりあえず生きている証拠を残してあげたかった。
夢だとか有り得ないとか、逃避するような言葉を重ねていたから現実だという証拠を残してあげたかった。
それが良いことか悪いことかはまだわからないけど。
「カエデ、今から傷口を縫うからね。
痛かったらちゃんと言うんだよ?」
今は何も分からないでしょう、とリサーナから言葉が返ってくるけど言わないわけにはいかない。
もしかしたら彼女の脳の一部が反応するかもしれないんだから。
「消毒」
針に消毒の魔法をかけてから縫合を始める。
ポーションが支給されるようになってからは出来る医者は少なくなってしまったけど、特殊な環境下では魔法よりも人間の生命力の方がよっぽど信用できるし、薬や魔法は対象者を選ぶから僕はあまり好きじゃなかった。
リサーナなんかは野蛮だと嫌うけど、魔力に頼れない僕にとっては大事な技術だ。
「ねぇリサーナ、君は生き返った人間を見たことがあるかい?」
「あるわよ、アンデッドがそうじゃない」
確かに。
僕は苦笑してカエデの掌に針を進め続ける。
そう、アンデッドはそうだ。
生物的に考えると心臓は動いていないわけだから生き返ったというにはかな。語弊があると思うけど、あながち間違いとも言い切れない。
アンデッドというのは死者の肉体を媒介に発生する悪魔だ。
生前に強い恨み、憎しみ、未練があればある程強力なアンデッドとなり生前の意識や感情を宿す事がある。
そうなれば生きている者を憎み、羨み、自分と同じ存在にしようと暴れ始める。
だからこそ、カエデに今死んでもらうのは困るのだ。
彼女の思いはまだよく分からないが、生きたかったと何度も叫んだ彼女に未練が無いわけがない。
そんな彼女が万が一今死んだとすれば、必ず厄介な敵となるだろう。
あの錯乱状態では力を暴発させて周囲のありとあらゆる者を巻き込んでしまう事は明らかだ。
そのくせ自殺したがるのだから始末が悪い、という僕の本心もあるけど。
まぁそれは一度置いておくとして、彼女は確かに“もう一回死ねばいいんだ”と言ったのだ。
“もう一回”と。
それは既に死んでいて、二度目の生を生きていると彼女が感じている事だと思う。
それだけじゃない。
隊長の執務室でだって彼女は喚きながら“電車に轢かれて死んだ”とか“生きたかった”などと漏らしていた。
「カエデは生きてるわよ。
貴方にも分かってるでしょうけど」
そんな僕の疑問を察知してだろう、リサーナは僕の肩にそっと手を乗せる。
「カエデはどうして死んでるなんて言ってたんだろうね。
こんなにも暖かいのに」
「分からないわ、彼女にちゃんと話してもらわないと」
それはその通りだ。
彼女に関しては謎が多すぎる。
当面はきちんと療養してもらって意識をハッキリさせてもらわないとどうする事もできない。
「ニホンって聞いたことある?」
「ニホン?
えぇと、一本、二本のニホンじゃなくて?」
「えぇ、カエデが言ってたのよ。
ここはニホンじゃないのかって。
まるで国や地域の名前みたいに」
硝子の刺さった傷口が縫い終わり、手をひっくり返しながらカエデの表情を伺うが、特に変わりはない。
本当に意識が飛んでしまっているのだろう。
けど、何となく彼女の前で聞き覚えが無い事実を断言してしまうのは憚れる様な気がして、僕は後で話そうと話題を切り上げる。
「こっちはそんなに深くないからね」
切れた手に針を這わせて、僕らは無言のままカエデに向き合う。
僕は治療のために。
リサーナは警戒のために。
彼女を訓練生に潜り込ませるのは、正直無理じゃないかといつ隊長に報告しようか。
僕は人知れず、ため息をついていた。




