壊れる
泣き疲れた日の朝はぼぅっとする。
瞼が重たくて反応は緩慢で、周囲の違和感に気付きにくい。
私は眼を擦って寝返りを打った。
家のベッド、こんなに硬かったっけ。
でも、そんな事とりあえずどうでもいい。
今はただ、眠りたい。
「っ!!?」
跳ね起きる。
仕事!
携帯!!
今何時!!?
キョロキョロと見渡して私は固まった。
「ここ、どこ…?」
待って待って落ち着いて。
昨日、何した?
飲み過ぎた?
いや、跳ね起きた体からはアルコールの怠さは感じない。
やけっぱちになって知らない人の家に来た?
いやいや、飲んでもないのにそんな状況になる筈がない。
遂に過労でぶっ倒れた?
いやいやいや、打ちっぱなしのコンクリートみたいなグレーの壁に木造の床の病院だなんて有り得ない。
近世の外国が舞台の映画で見たことはあるが、私が住んでいるのは日本の地方都市に程近い田舎だ。
そんな病院があるとすれば深夜番組なんかでちょっとした話題になる筈だ。
落ち着け落ち着けと自分に言い聞かせながら周囲を見渡す。
まず、私が着ているのはクリーム色のワンピースだ。
患者着というよりは寝間着だろう。
ベッドは硬く、貯まる一方であった給与から大枚はたいて買い求めた我が家の物とは比べ物にならない。
ベッドサイドの棚は木造で、上にはランプと水差し、コップが並んでいる。
「あら、起きたのね」
がちゃりとドアが開いた直後に見えた顔は見覚えが無かった。
肩甲骨辺りまで伸びた黒髪の女性。
赤色の大きなアーモンド型の瞳がとても綺麗な人。
「私の事覚えてる?」
私の訝しむような視線に気付いたのだろう、彼女は苦笑いを漏らして私の側へと歩み寄ってくるとそっと布団を握る私の左手に右手を重ねた。
その温もりに閃光が走る。
「り、さーな、さん…?」
違ってくれと願いながら言葉を紡ぐと彼女、リサーナは満足そうに明るく笑う。
「なんだ、覚えてるのね」
聞きたくなかった肯定にぐらりと視界が揺れた。
酷く気持ちが悪い。
頭が痛くて起き上がっているのが辛い。
彼女に触れられた左手が異様に熱かった。
「気分が悪くなったのね。
ごめんなさい、水は飲める?」
リサーナは私の背中を擦りながら水を差し出してくれる。
すると背中が摩擦のせいかじんわりと熱を持ち、揺れた視界が安定して頭痛も治まってきた。
と同時に頭もいくらかクリアになり左手の熱さは鳴りを潜める。
「ここは何処ですか?」
「私の家よ。
服は窮屈そうだったから勝手に着替えさせたわ」
家?
ここが?
こんな、日本では見たこと無いような家屋がリサーナの住まい?
私が落ち着いたと思ったのか、リサーナは背中を擦るのをやめて両手でコップを握り締める。
するとじんわりと暖かかった背中は急激に温度が下がり、クリアになりつつあった思考にまた靄がかかるようだ。
「外、外を見なきゃ」
ベッドから出ようと掛け布団を引き剥がして窓に駆け寄る。
そこは、私の慣れ親しんだ日本とはかけ離れた光景だった。
煉瓦造りの家々が建ち並び、少し広めの街道にはちらほらと馬車が行き交っている。
人々は映画から飛び出してきたような質素なドレスや服を身に纏い、誰もがスマホも見ずに前だけを見て歩いていた。
近世ヨーロッパ。
そうとしか言いようがないような光景。
「ここ……、ここは、何処なんですか」
「だから、私のい」
「ここは日本じゃないんですか!!」
全然検討違いの回答に思わず言葉を遮って声を荒げる。
有り得ない。
有り得ない有り得ない!
こんな、こんな事は有り得ない!!
私は、電車に轢かれて死んでる筈で、こんな、こんな訳の分からない所で目が覚めるなんて有り得ない!!
左手が熱い。
背中が熱い。
熱くて熱くてイライラする。
さっき背中の温度の下がったのが嘘のようだ。
熱が籠る。
爆発しそう。
「こんな事有る筈無い!!」
感情に任せて窓を叩く。
割れた。
窓が割れた。
私が叩き割ったのだ。
破片が散り、拳に刺さる。
痛い。
どうして痛いの?
夢と現実の境目は痛みの有無じゃないの?
「リサーナ!」
ばたばたと男性が入ってくる。
彼も知ってる。
クリスだ。
あの訳の分からない天使が連れてきた、私の夢の中の人物だ。
「丁度良いところに」
「何があったんだい?」
「分からないわ。
起きたからもう一度魔力浸透をしたんだけど気分が悪くなったみたいだったから魔力を抑えたの。
そしたら外を見なきゃって言って、見たらこの状態よ。
多分まだ魔力が安定しきってないせいもあるんだろうけど」
疲れたようにリサーナは言う。
魔力って、何?
そんなもの、現実で有る訳無い。
「ああ、血が出てるじゃないか。
治療しないと」
「来ないで!!」
手を伸ばして近付いてくるクリスに、私は硝子の破片を手にとって差し向けた。
ピタリと彼は止まり、ため息をつく。
「それを置いて。
治療するだけだよ。
怖い事は何もしないから」
「答えてください!
ここは何処ですか!!」
「ここは僕らの家」
「この国は何処なんですか!!」
自分の息の音が五月蝿い。
気持ち悪い。
死んだ筈なのに。
生きたかったのに死んだ筈なのに。
聞こえてくるこの生を主張する音は何?
この痛みは何なの?
生きてるの?
死んでるの?
これは夢?
それとも現実?
訳の分からない間に私は外国に連れてこられたの?
目の前が歪む。
恐い。
凄く恐い。
答えて。
せめて私の知っている言葉を返して。
「ここはザフキエル公国。
神の番人の国だよ」
音が消えた。
いや、耳鳴りがする。
凄く耳障りな音。
どうして音が聞こえるの?
どうして生きているように感じるの?
こんな、訳の分からない世界なのに。
「…カエデ?」
クリスが、私の知っている単語を口にした。
カエデ。
私の名前。
知っている。
落ち着く。
「ああ、そうか」
ふと力が抜けた。
そうだ、何で気付かなかったんだろう。
「もう一回死ねばいいんだ」
この握り締めた硝子で首を貫こう。
そしてこの、現実の様な夢を終わらせて、ちゃんと死ねばいいんだ。
今度は眼を閉じずに。
ちゃんと死を感じよう。
そうすれば、私でも分かる感覚にありつける。
忌避していた物に救いがあるなんて、とんだ皮肉だ。
私はクリスに向けていた硝子を緩やかに自分に向けて、そして。
「拘束せよ!!」
体が硬直した。
目一杯の力で腕を振り下ろしているのにピクリとも動かない。
止めて、どうして私の体さえ思うようにいかないの!!?
「急いで!」
「分かってる!」
クリスが駆けて来て私から硝子を取り上げた。
血で濡れたそれはずるりと不愉快な感触を残しながら抜け落ちていく。
それとほぼ同時に何も握っていない私の手が喉を打った。
気道が一瞬潰れて言い様の無い鈍痛が私をまた刺激する。
自分の拳の勢いによろめくとそのまま後ろ手に両手を拘束されて組伏せられた。
床に激突する衝撃に肺から空気が抜け出す。
「水よ、拘束せよ!」
ヒヤリとした物が足首、腰、肩、首に回って床に縫い付けられる。
動かない!
動かない、動かない!!
「うあああああああああああああああああ!!!!」
声の限りに叫ぶ。
叫べば声と一緒にこの感情も出ていく気がして。
「大丈夫、大丈夫だから!」
背中を何かが行ったり来たりする。
体を舐め回す熱が溶けた気がした。
まるで背中から熱が溶け出すようにとろとろと、逃げていく。
「大丈夫だから、怖くなんて無い。
僕らが居るから」
怖いよ、怖い。
どうして?
どうして私はここにいるの?
どうして私の体は動かないの?
どうしてあんなに熱かったの?
どうして目につく人は皆私と同じじゃないの?
どうして皆そんなに平然としていられるの?
どうして?
大丈夫だからと何の意味もなく繰り返される言葉。
私はどうして、と壊れたテープのようにそれだけを呟いていた。
ああ、私は既に、壊れてる。




