歩く
時計が無い部屋というのは、良い。
というのも、私は秒針の音が苦手だった。
もう何年か行っていないから遠い記憶になってしまったけれど、たしか、祖母の家の座敷には壁に古い時計があって、ちく、たく、ちく、たく、とずっと音がするのだ。
小さな頃、従兄弟達と泊まる時には必ずその座敷に雑魚寝して、眠るギリギリまで遊んで、事切れたように順番に眠りに落ちる。
私はその頃から眠るという行為が少し苦手で、いつも眠るのは最後。
ちく、たく、ちく、たく、と、秒針の動く音と従兄弟達の寝息を聞きながら息を潜めて、眠りの闇に飛び込むのを躊躇していた覚えがある。
闇は深くて、重くて、何もないから、酷く恐ろしいと感じていた。
その恐ろしさが何から来たものだったのか、当時はよく分からなかった。
だけど秒針のちく、たく、ちく、たく、という規則的な音と、深い闇が酷く怖かった。
それがどうしてなのか、明確に意識したのは小学校の中学年の頃だ。
当時私は小さなアパートに住んでいて、頭の上には父の目覚まし時計。
その日も秒針の音が五月蝿くて、私は眠るのに躍起になっていた。
力を抜くことを意識して、闇の中に飛び込む。
眠れば何も考えなくて、身体は湖に揺蕩うように意識から外れる。
心地良い。
だけれど、考えてしまった。
眠るのは、死ぬのと一緒だと。
何も意識できなくなって、身体は思い通りに動かず、喜びも悲しみもない。
永遠の無。
前世とか来世とか、そんな話は信じていなかった。
自分が覚えていないから。
だから、例えば前世があったとして、来世があったとして、私のこの意識は前世があろうと来世があろうと、きっとその世の私は覚えていない。
覚えていないのなら、何の意味があるのか。
私という自己は、この一分一秒で少しずつ少しずつ終わっていく。
戻れない終わりに歩み寄っていく。
それが恐ろしくて、自分の心臓が動くことすら死に向かっているようで、恐ろしくて恐ろしくて堪らなかった。
起き上がって母と父の元へ言ったけれど、私は怖いとしか言えなかった。
急に死ぬことが怖いと言い出すのは恥ずかしかったし、呆れられると思ったから。
だから母にベッドへ追い返されて布団にくるまった時、私はどうにか落ち着く方法を探すしかなかった。
落ち着け落ち着けと繰り返して、どうにか妥協点を探す。
知らない間に恐怖から泣いていたし、落ち着けと思えば思うほど心臓の音が怖くて堪らなかった。
そうして暫く泣いた後、私は一つの妥協点を見つけ出していた。
人は皆いつか死ぬ。
身体は動かなくなり、意識は闇に溶け、時間と共に私が生きていた事は忘れ去られて、私という存在は何にも残らないまま消えてしまう。
ならば、今を生きるしかないのだ。
一秒も戻らない今を、死ぬその瞬間まで繰り返し、繰り返し、胸を張れる選択と、胸を張れる意欲で取り組もう。
子供の考えた、今思えば気を逸らしておけるかにすら甚だ疑問ではあるが、当時の私には大事な事だった。
闇に溶けてしまうその時に泣かなくても済むように。
そして、そんな馬鹿げた事を考える暇を自分に与えなくても済むように。
ああ、そうだ、その頃からかもしれない。
私が目の前に出された課題を必死に取り組んで、どうにか結果を追い求めるようになったのは。
生来の楽観主義と堕落思考を押し止めて、何とかしようとがむしゃらに動くようになったのは。
その、死への恐怖みたいなものは定期的に私を支配したけれど、私はその都度考えないように済ませた。
それはゆっくりと間隔を空けるようになり、私は気を逸らすのも上手くなった。
だけれど、未だに時計の秒針が聞こえるとどうにも恐ろしくなってしまう。
戻れない一瞬を意識させられて、怖くて怖くて堪らなくなる。
だから、この、どことも分からない、魔法の世界で時計が無いのは私にとって信じられない程の幸運だった。
ずっと潜り込んだベッドで息を殺している間、秒針の音が聞こえていたら、右手の傷の疼きを確かめるだけでは心細くて会話を求めてクリスやアーデンの側へと動いただろう。
気を紛らわせたくて。
人を見て、観察するだけでも良いから。
今は怖くて堪らないのだ。
そんな事を考えていたら、閉じた瞼が段々白くなってきているのに気が付いた。
目を開けば、窓から見える空はうっすら白んで来ている。
朝。
世界から闇が取り払われていく光景に、私は酷く安堵した。
もう大丈夫。
闇へ潜る必要は、もう無い。
そぅっと首を左へ向けると、もう一台のベッドが目に入った。
茶髪の、でも比較的小柄な男性が物凄く気持ち良さそうに熟睡している。
ああ、ここで昨日寝たのはロッツィだったのか。
ゆっくりと足下の方へ視線を動かせば、椅子に腰掛けて腕を組んだままアーデンが寝ていた。
肘掛けも無いのに器用にも身動ぎ一つしないまま眠っている。
ベッドから抜け出せば、起こしてしまうだろうか?
だが、いつ起きて行動するかなんて分からない。
まぁ起こしてしまった時はその時だろうと捨て置いて、私は起き上がった。
みしり、とベッドが鳴り、私はブーツを履くとロッツィと私の使うベッドの間にある窓に近付いた。
窓から見える空は暗く、赤く、朝焼けの様相を呈している。
朝焼けで太陽の光が見えるという事は此方は東か。
それに、朝焼けの日は雨が降るってお祖母ちゃんが言っていたっけ。
下から上へと押し開けて、息を吸う。
爽やかとは言い難い、泥と青臭さの混ざったような匂い。
それでも日本の夏とは違って空気は比較的乾燥しているようだ。
悪くはない。
眼下には寝静まった村が横たわり、音のしない世界はまるで死んでいるようだ。
生きているのは、私だけ。
それはそれで生きていけないなぁ、と私は苦笑してネックレスを握る。
ザフキエル公国の兵器。
欠陥品で私の命綱。
何度考えても、良い大人が本気で信じるのかと自分に問いたくなるが、どうやったって答えはでない。
なら、懸命に生きて、取り組んでみるしかないだろう。
死ぬその瞬間に後悔しないように。
死なんて馬鹿げた事を、考えなくても済むように。
そんな子供の頃に取り決めた信条なんて、久しく気にしていなかった。
兎に角目の前の事に必死で、ああ、そう考えると、余計な事を考えなくても済むようにとした私の思惑通りになっていたという事か。
存外子供の頃の考えも馬鹿に出来ないものだ。
肺一杯に、青臭い空気を取り込んでゆっくりと吐き出す。
深呼吸を繰り返して、赤く、そして青く染まっていく空を私はただぼんやりと眺め続けた。
「うぅー……、ぅお!?」
がばっと左から音がする。
ロッツィが起きた音だろう、私は飛び起きたらしい彼を見ると力無く笑った。
「おはようございます、ロッツィさん」
「お、おおおおはよーございます…。
お加減大丈夫っすか?」
彼のその、しどろもどろな様子や変な言葉遣いが少しおかしくて、私はくすりと笑った後体ごとロッツィに向き直ったり
「はい、大丈夫です。
昨夜はご迷惑お掛けしたようで、大変失礼致しました」
「うぇ?
い、いや、大丈夫、っす?」
「そうですか?」
語尾がかなりおかしい。
これは多分、分かってないんだろうなぁ。
「あ、あああああアーデンさぁん?」
というより、寝起きでまともに考えられていないのかもしれない。
あわあわと言い出しかねない様子でロッツィは靴も履かずにベッドから抜け出すと椅子で眠るアーデンへとすり寄っていく。
「起きている。
顔でも洗え、ロッツィ」
ため息と共にアーデンは腕を伸ばすと足を組んで片目でロッツィを睨んだ。
するとロッツィは、やはり犬のように元気に返事をしてから部屋を出て行ってしまう。
いつから起きていたんだろう。
それは分からないが、アーデンは諦めたように舌打ちをしてから立ち上がり節々を伸ばし始めた。
バキバキと景気よく、関節が鳴る音が響く。
「起こしてしまいましたか?」
そう問うとアーデンは私を睨んでため息をついた。
「俺はお前の見張りだ。
お前が起きれば、俺も起きる」
「つまり起こしたって事ですね。
昨夜の事もそうですけど、ご迷惑お掛けしてすみません」
酷く寝起きの悪そうな不機嫌顔のアーデンに苦笑して私は頭を下げた。
顔を上げれば訝しげなアーデンと目が合う。
「おはよう、アーデン。
…酷い顔だよ?」
がちゃりとドアが開く音がして、クリスが入ってきた。
クリスはまず入り口側にいるアーデンを見ると顔をしかめて小首を傾げていた。
「おはようございます、クリスさん。
昨夜はご心配をおかけしました」
「え?
あ、ああ、大丈夫かい?」
「はい、もう大丈夫です」
戸惑ったようなクリスに私は笑顔で答えて私はベッドに腰かける。
出来れば顔を洗いに行きたいところだが、行くときは多分アーデンも一緒だろう。
それなら待てば問題ない。
「そう、それは良かった。
何か、あったのかい?」
探るようなクリスの問いに私は苦笑する。
何かあったわけでもないのだが、何もないと言っても彼らは引き下がらないだろう。
「いえ、特には何も。
けど思い出したんです」
「思い出したって、何をだい?」
「…子供の頃の事ですね。
あんまり良い思い出って訳でも無いんですけど」
ははは、と軽く笑って頬に手を当てる。
「そう言えば、昨日のご飯って普通なんですか?
クリスさんのお宅でいただいたホットミルクは凄く美味しかったんですけど、」
「ああ、村での食事はあんな感じだよ。
グレンツェの街はザフキエル公国でもその場所の重要性から比較的栄えているし、僕ら軍人は平時の食事は優遇されるからね」
うげ、一番聞かなくてはいけない内容の答えが求めていた物とは違うのは辛い。
しかもどれだけの期間遠征をするのかは知らないが毎食あの臭い液体とパンっぽいゴムを飲み込まなければならないと考えると憂鬱で堪らない。
「クリス、俺達も下へ行くぞ。
ソイツ連れて行け」
そう言って部屋の外を顎で示すアーデンに従ってクリスは私に声を掛けてから部屋を出た。
私はそれに大人しく続き、階下へ降りると酒場には誰も居なかった。
それはそうか、昨日は酒場として営業していたけれど今は流石に時間外だろう。
カウンターの奥にいた男性も、人懐こく話かけてきたウエイトレスも今は姿が見えない。
クリスは迷わずに酒場から外に出て横付けしていた幌の側に向かうと幌の側にはロッツィとライラが立っていた。
「あ、ライラさん、おはようございます。
昨夜はご迷惑お掛けしたようですみません」
「は!?
あ?
俺は別に、何もしてないんで、気にしないでください」
ライラは首の後ろをかきながら目を伏せて私の言葉に応じて黙り込んだ。
んん、やっぱり彼との会話は少し難しい。
暫くすれば慣れるのだろうか。
「カエデ、こっちへ」
「あ、はい」
クリスに呼ばれて移動するとクリスは幌の奥にある厩舎の水瓶の側にいた。
彼はそこから杓で一杯水を掬うと私に差し出してくれる。
「顔を洗うと良いよ。
昨日の洗浄でもいいけど、水を一度も使わないのは不自然だからね」
「不自然?」
「…国や軍の情勢のお勉強はまた今度だ」
不自然とは誰にとってだろうか。
そう聞こうとする前にアーデンに釘を刺されて私は黙る。
「んじゃ、揃ったし行くっすね!」
うきうきと言わんばかりにロッツィは私達を見渡した。
え、朝食とか無し?
起き抜けに行動するの?
平静起きてコーヒーを入れて食事をし、身支度を整えてから出社という、起きてから二時間ほどは自宅にいる生活をしている身からすると、とんでもないことだ。
こんなに急に動いても頭が付いてこないし、人が覚醒して効率よく行動するには朝食は必須。
しかも緊急時なら兎も角として今は平時だろうに。
あーもうこれはクリスだけでも全然違う環境から来ている事を告白してしまって常識とやらを教えてもらった方が良い気がする。
どうせ、アーデンからは完全に不信感を露にされているのだから。
昨日までの私であればそれもそれだと感じて、それでも説明できない事に関しては触れたく無かったが、下らない事を考えたくない今日としてはいっそ全部言った上で疑ってくれた方が楽だし動きやすいという本心がある。
そう言えば同僚によくお前は考えすぎだと言われていたっけ。
そんな事を考えながら少し呆けていたが、彼らにとって朝食無しの即時行動というのは日常であるらしく全員が揃ってさくさくと村の一つの出入り口へと向かって歩き始めている。
終いには私を見張るアーデンに早く行けと苦言を呈され、私は一人嘆きながら歩き始める。
「森に入ったら良いっすよね?」
「ああ、だが良いと言うまでは駄目だ」
相も変わらずアーデン達の会話は意味が分からないが、そんな事よりも雄大と表現する他無い自然が、私の心を掴んで離さなかった。
グレンツェの街へ入る時は街を上空から見る時以外に周囲を眺める必要を感じていなかったから自分を拘束するスライム銀ばかり見ていたし、ここに来る時はずっと幌の中でそれに顔なんて出そう物ならアーデン何を言われるか予想がついていたから我慢していたが、これは、凄い。
目の前には青々とした草原が広がっている。
馬車用の道だろう、村から北東方面に伸びる一本の土の道は地平線へと続き先は見えず、この道の遥か先にはあの要塞じみた街があるかと思うと何故か心を揺さぶられた。
村の西側、恐らく一キロ程離れた場所にはまるで人の介入を拒むように木々が並んでいる。
私の地元も田舎ではあったが道は勿論コンクリートで舗装されていたし、田舎の割にはチェーン店やモールも多い上に平地であった為、こんな草原や森というのは初めて見る。
生まれ育った灰色のコンクリートジャングルとは本来、こうも鮮やかな色彩に溢れた世界なのかと感動する他無い。
「…自然って、こんなに綺麗なんだ………」
「何言ってるんだ、さっさと進め」
べし、と後頭部を叩かれてつんのめり、私の感動は明後日の方向へと飛ばされてしまう。
余韻も何もあったものじゃない。
ため息をついてアーデンに促されるまま止めていた足を動かしてクリス達の後に続く。
「どうかしたかい?」
優しいクリスの問いかけに私は肩を竦める。
「私、こんなに広い草原って初めて見たんです。
だから、驚いてしまって」
「え!?
カエデさんどんな都会から来たんすか!?
ザフキエル公国の領地は平野ばっかっすから草原のが多いっすよ!?」
私の発言にぎょっとしたような声を上げて、前を歩くロッツィは私を振り返る。
「私が居た日本に、草原なんてあんまり無いですよ。
特に私が住んでいた地域なんて、自然さえ人工物でしたから」
言いながら家の周辺や職場の地理を思い出してみる。
道路は所々老朽化してはいるものの、完璧に舗装され畦道さえもコンクリートだった。
自然らしい自然は高齢化に伴って手入れのされなくなってしまった田んぼや畑ばかりで、他に緑といえば敷地の中にデザインとして組み込まれた生け垣か歩道の脇に申し訳程度に植えられた低木くらい。
それを何とかしなければなんて思った事は一度も無かったけれど、こうも生き生きと生い茂る緑を見てしまうと取り戻せない利便性の対価を見せ付けられているようで居心地が悪い。
「自然が人工物って、よく分かんないっすよ。
自然は自然っす」
そう言って後ろ向きに歩きながら腕を組んで歩くロッツィに私は微笑んだ。
分からない方が良い。
少なくともこの草原はこのままで居て欲しいと思う。
「今日は随分喋るんだな」
眉間に皺を寄せてアーデンは私を見下ろす。
「…私にとって大切だと思っていた事を思い出しましたから」
「教えてはもらえないのかい?」
そう言って私を見るクリスに少し逡巡する。
先程も思ったことだが、正直全部話してしまって生活レベルを計るというのは大切なことのような気がする。
私は最早ただの不審者というだけでは無く、彼らの態度を見る限り利用価値のある不審者だ。
大人しくマジックノイド実験を続けている間、生活は保証するとアーデンは言っていたし、そもそも荒唐無稽な話をしたとしても彼らにとって私はそういう、“精神的に問題有りの人間”だ。
不本意ながら出会ってから毎日泣き喚いている人間が今更何を言ったところで、アイツヤバい奴だから関わるの止めようぜ、とはならない筈だ。
多分。
それに、生活や常識以外にも聞きたい事は山積みだ。
だから、それを交換に話を聞いてみるというのは良い気がする。
「…思い出している範囲で良ければ、クナイさん達も交えてお話しします」
「隊長には俺から話す」
ばっさりとアーデンに切り捨てられるが、めげない。
出来ればクナイとも話したいのだ。
「いえ、私を助けていただいた方なのにまだちゃんとお礼もしていませんし、ちゃんと私からお話ししたいんです。
これは譲れません」
負けじと断言して、私はアーデンを見上げた。
自分の立場は分かっているが、それなら私はアーデン達の足元を見てやる。
とはいえ、拒絶されても良いように次策は考えておかなくては。
そんな事を思いながら考えを巡らせていると歩きながら睨み合っていたアーデンがその内に遠征が終わったらだと舌打ちをした。
あれ、なんか、肩透かし?
「さて、お喋りはそろそろ一区切りだよ。
カエデ、準備はいいかい?」
クリスは笑って立ち止まる。
大いなるドラッヘ大森林はもう目の前だ。
「うぅー!!
楽しみっすー!!」
ひゃっほー、と飛んで跳ねているロッツィを見ながら私はもう一度願うようにネックレスを握り締めた。




