聖女になってしまった少女と、勇者になってしまった青年
とある田舎でその少女は生まれた。名をリリア。酒場を切り盛りする両親を持つ村娘だ。癖のある栗色の髪に、蜂蜜色の瞳。不細工では無いが派手でもなくーーどちらかと言うと素朴な顔立ち。それこそ何処にでもいるような村娘であった。
「リリア、酒持っていってくれ!」
「はーい!」
両親の元、酒場の切り盛りを手伝う毎日。決して裕福な村ではなかったが、皆助け合って生きる暖かな村であった。そんな人々が1日の疲れを癒しに来る酒場。
「はい、お酒お待ちどう様!」
「お、ありがとう!」
「今日も笑顔がいいねリリアちゃん!」
「ふふ、ありがと!」
リリアの笑顔に、日焼けの目立つ男達が笑う。リリアは笑顔が好きであった。元気に振る舞えば皆も笑顔になってくれる。1日の仕事で疲れた皆を元気にしたい。楽しく飲んでほしい。そんな思いで彼女は毎日笑顔で働いていた。
ーーそしてリリアには特別な笑顔を向ける相手が居た。
仕事を終えて男達が入って来る。その中、彼は居た。
「いらっしゃいませー! ……あ、ニクス!」
「お、リリア」
リリアは思わずその青年に手を振る。青年の名はニクス。リリアの幼馴染である。小さい頃からの知り合いであり旧知の仲だ。家が隣同士なのもあり昔はお風呂に一緒に入っていたくらい身近である。
「リリア、酒5つお願い」
「ニクスは健康に良い苦汁で良い?」
「か、勘弁してくれよ」
「ふふ、冗談冗談」
ニクスが苦笑いし、男達がそれを見て笑っていた。
気の知れた親友。それがリリアとニクスの関係であったが……いつからだろうか。
「……」
リリアはビールをカウンター内で注ぎながら店の中に視線を向けーーニクスを探す。程なくしてすぐに彼を見つけた。仕事仲間と談笑して、その日に焼けた顔を綻ばせている。
……いつからだろうか。彼に対して特別な思いを抱き始めたのは。気づけば、いつの間にか彼の姿を追うようになっていた。多分これは親友とは違う気持ちなのをリリアは理解していた。
だけれどリリアは気持ちを明かす事が出来なかった。結果がどうなるにしろ、気持ちを明かせばもう元の関係には戻れないと分かっていたからだ。ーーもし、断られたら。その先を考えるだけでリリアは怖かった。
当の向こうはどうだろうか……残念な事にその兆しはニクスには見られなかった。前と変わらぬ親友のニクスである。
ずっとこのままではいられないだろう。この先リリアが何もしなければニクスは他の女性と結ばれてしまうかも知れない。けれども、今のリリアにはどうする事も出来なかった。
■ ■ ■ ■
夜空の下、リリアは歩を進める。場所は村外れの小高い丘。時期は冬。冷たい空気を吸うと鼻の奥がつんとした。
そして程なくしてリリアは目的の場所に辿り着く。丘のてっぺん。そこには1人の青年ーーニクスが居た。
「寒いのによくやるね」
「寒い方がよく見えるんだよ」
ニクスの趣味は天体観測であった。田舎の青年には些か不釣り合いな趣味であったが、小さい頃近所に星々に詳しい老人が居た。かつて王都で働いて居たというその老人は沢山の事を語ってくれたのだ。
リリアはあまり関心を持たなかったが、ニクスは興味を引かれたらしく度々こうやって星を眺めていた。
「はい、コーヒー」
「ん、ありがと」
リリアは作ってきたコーヒーを手渡す。そして自然とニクスの隣へ座る。難しい知識は分からなかったが、リリアも星空を眺めるのは好きであった。
「……今日はよく見える?」
「ここ最近では一番かな」
ニクスは小さなカンテラの明かりで何かを書いていた。
夜空に輝くのは星々の悠久なる輝き。辺りは風が木々を揺らす音だけ。いつもは結構口喧しけど、ここでは2人とも静かになる。偶にポツリポツリと紡がれる2人の会話。
最近……ここにいると、世界で2人だけになった気がする。そう思うと胸がきゅっと熱くなって切なくなる。ずっとこの瞬間が続けば良いのにと感じる。その感覚がリリアは愛おしくたまらなかった。
気づかれぬように視線をニクスへ向ける。真剣に星空を眺める彼を見つめる。くすんだ銀髪に日に焼けた顔。顔立ちは年齢の割にちょっと幼くて、それを言うと彼は怒るのをリリアは知っている。……今は彼のその一つ一つが愛おしかった。
「あの……さ」
「え?」
空へ視線を向けたままニクスは呟く。リリアは見つめていた事がバレたと思ったが、そうではないようだ。けれども彼の顔がいつになく真剣なのでリリアはどきりとする。
「北極星って知ってる?」
……星の話か。リリアホッとする。
「うん、聞いたことある。常に北で輝いている星だっけ。えっと……」
リリアは星空を眺め、北極星を探す。探し方は知っているが……中々見つからない。
「ほら、あの星座の……」
ニクスに指差してもらいようやく見つける。夜空に輝くのは淡い黄色く輝く星。
「ああ……見つけたわ」
「意外と見つけにくいんだよな。……特段輝きが強い訳じゃないからね。でも、多分世界で一番大事な星だと思うよ」
「どうして?」
「あれが特別な意味を持つ星だからさ。どんな時でも北の空で輝き続ける星。船乗り達や旅人は夜空へ目を凝らし、探し続ける。彼らにとっては北極星は他の輝かしい煌めきを放つ他の星々よりも、特別な輝きなんだ」
気づけばニクスがこちらを向いていた。暗がりの中でもわかるほど、真剣な顔をしている。
「リリアは俺にとっての北極星だ」
「……え」
時間が止まった気がした。その言葉の意味を咀嚼して……顔が熱くなるのを感じる。
「あ、あの……」
「好きだ、リリア」
彼の顔が赤くなっているのが分かる。多分自分はもっと赤い、とリリアは思う。そして堪らずーー。
「ず、ずるいわよ!」
「な、何がだ?」
リリアは口を荒げる。今まで溜めていた物を吐き出すように。
「ず、ずっとそんな素振りもなかったのに突然……」
「いやだってそれは、なんか気恥ずかしいと言うか……」
そうは言うがリリアも何も出来なかった為人の事は言えない。それはリリアにも分かっていたのでそれ以上は何も言わず。
「……まあ、私も人の事は言えないけど」
「?」
そして、暫く2人の間に沈黙が漂う。だが、リリアの答えは決まっていた。
「……わ、私もよ」
「え?」
「私にとってもニクスは北極星よ……」
多分信じられないくらい顔が真っ赤になってるのを感じる。心臓の鼓動が早い。
「リ、リリア。それって」
「私も好きよ。ニクス」
ニクスはそっとリリアの手を握る。そして静かに唇が重ねられた。
リリアは思う。この村は貧しく何も無いかもしれない。事実、他の町や村に比べたら特段秀でた物があるわけでは無い。だけど、皆が懸命に支え合って生きている。ーーそして唯一の存在もある。この人と懸命に生きて行こう。輝く星々の素、ニクスの鼓動を感じながらリリアはそう決意した。
そうして、2人は婚約者となった。村の人々は2人を祝福した。村の人々は2人が昔からの仲だと知っていたから、誰もがきっと仲睦まじく過ごしていくだろうと思っていた。それは、2人も同様でこれからの幸せを疑う余地は無かった。きっと幸せな未来が待っている。そう信じていた。
「なんか騒がしいな?」
とある日の午後、ニクスとリリアは村の外が俄かに騒がしいのに気づく。外に出てみると、村の入り口に人だかりが出来ていた。人々の視線の先にいたのはーー。
「あれは……王国の紋章?」
そこにいたの武装した馬にまたがった鋼鉄の騎士達。掲げているのは王国の紋章。つまり、王都から来た騎士団だ。
村人達は困惑する。だってこんな田舎の村に王国の騎士がこんな大挙して来る理由が無い。誰もがその理由が分からず困惑していた。
「……」
「……リリア?」
リリアは自然とニクスの袖を握っていた。その手は僅かに震えている。何か底知れぬ不安をリリアは感じていた。昔からそうだ。何か嫌な予感を感じる時、腹の底が冷える感覚がするのだ。
騎士たちの中から1人の男が歩み出てきた。鎧の細工が他のものよりも豪奢であり、位が高いのが分かる。
男は困惑する村人たちを見渡して、行きを大きく吸い込む。そしてーー。
「偉大なる国王。アートルム王の名の下、聖女ウィアの神託を運びに参った!」
神託。その言葉に村人達は騒つく。それは聖女が神から伝えられる言葉。決まってその言葉は国の行く先を決める物になる。歴史の節目にはいつも聖女の神託があったと言っても過言では無い。
だが何故神託をこんな田舎の村に? 誰もがその理由を想像する事は出来ない。
「聖ウィアはお告げなされた。近いうち、魔の王が復活する!」
村人たちは悲鳴を上げた。魔の王。それは数百年前、世界の支配を企んだ邪悪な王。その時、大陸は戦乱に包まれ多大な血が流された。大きな犠牲の元、どうにか魔の王は打ち倒されたがーーそれが復活する。
「だが、それを討ち亡ぼす力を神託により授かった。勇者の力を継承する者がこの村にいる! それはこの村に住むーーーーニクス! ニクス・アングレス!」
村人の視線が一気にニクスへ向いた。リリアには何が起こったのか分からない。ニクスが勇者に? 魔の王? 神託? 余りの情報量に理解が追いつかない。当のニクスも何が起きているのか分からないようだ。
騎士はニクスの元へ歩み寄りそして跪く。そして恭しくニクスへ告げた。
「王の名の下、聖女の神託に従い貴方を迎えにきました。我らをお救い下さいーー勇者様」
2人の結婚式を一週間前に控えた日の事であった。
ニクスが勇者に選ばれたーー選ばれてしまった。リリアにとってそれはあまりにも残酷な知らせであった。勇者は聖なる力を得る為に聖女と結ばれなければならない。
ーー勇者。それは神々から邪悪を討ち亡ぼす為に力を与えられた存在。前の魔の王を打ち倒せたのも勇者による力が大きい。
そんな勇者にニクスが。リリアには信じられない。だってニクスは日々の暮らしに精を出す普通の村人で、星を眺める事が好きな青年だ。昔からの知っているからこそ、勇者の素養があるなど信じられなかった。
だが、いかにリリアが信じなくともこれは現実だ。神託とは神の言葉に等しい。それに抗うなど許される事では無いのだ。
明日、ニクスは来たるべく魔の王を打ち倒す為に王都へ旅立ち、そこで聖女と結ばれる。勇者の力を継承して魔の王を打ち倒す修行を始めるのだ。ーー恐らくは2度と会えない。
「す、凄いね。勇者に選ばれるなんて」
リリアは気丈に振る舞っていた。今日だって沢山のご馳走を作り、元気に送り出そうとしている。いつもと変わらぬ笑顔を浮かべている。だが、やはり悲しみは隠しきれる物でなく。
「今日はニクスの好きな物……を、あれ……」
ポタリポタリと大粒の涙がリリアの瞳から溢れ落ちた。
「あ、あれ……ごめん。ごめんね……」
止めどなく涙が零れる。溢れ出す感情は止められない。
「リリア……」
だが、ニクスにはどうする事も出来ない。ここでの慰めなど気休めにもならない事をニクスは理解していた。突然与えられた役割は余りに大き過ぎて、争うには余りにも2人は無力であった。
ニクスに出来る事はさめざめと泣く愛しい人を静かに抱きしめる事だけであった。
■ ■ ■ ■
ニクスはリリアの元を旅立った。恐らく2度とリリアと交わる事の無い旅路へ。
その日からニクスの居ない日々をリリアは過ごした。朝起きたら全てが夢で、何もかもが嘘で……そんな事は無く、もうニクスはどこにも居ない。
以前の笑顔は消え失せ、リリアは半ば抜け殻の様になっていた。その姿は余りに悲痛であったが周りはどうする事も出来ない。
ニクスは勇者の力を継承し勇者となり、程なくして魔の王が復活した。ニクスは名を勇者アレスと名を変え、魔の王の軍勢と戦っている。
今世界は戦乱に包まれつつあるが、リリアに出来る事は無い。もう2度と会えないかつての恋人を思い、空虚な日々を過ごす。それだけだ。
だが、時間は確実に過ぎていきーー唐突にその時は訪れた。
「ま、魔物だ!」
地鳴りと共に村人の叫び声が響いた。時刻は日も暮れた夜。リリアは家の外に出る。するとそこには見たことも無い巨大な異形の怪物が居た。
魔物は腕の一振りで家を薙ぎ払う。人々がまるでおもちゃの様に千切れ飛び赤い塊になる。逃げなきゃーーそう思った瞬間、魔物の口から吐き出された火球がリリアの近くに落ち炸裂した。
目の前が真っ暗になり、気づけばリリアは天を仰いでいた。
「……あ」
声が上手く出ない。起き上がろうとしても体の感覚が無い。自分の体が酷いことになってる事をリリアは理解した。酷い眠気と共にふと昔の日々が頭に浮かぶ。ああ……私は死ぬのか。
昔の日々が浮かんでは消えていく。その大半はニクスとの日々であった。そうしてやがて浮かぶのは告白された日の事。今ではそれが恐ろしく遠い日の様に思える。
ふと見ると夜空には満天の星々が輝いていた。そうして自然と北極星を探す。そこには変わらずに輝く星があった。そうしてリリアはゆっくりと目を閉じた。
■ ■ ■ ■
目を開けるとそこは見知らぬ天井であった。ここがあの世では無い事だけはリリアにも分かった。酷く頭がぼんやりとする。自分は確か……そうだ魔物に襲われたんだ。そして死んだ筈。だが、確かに体の感覚をリリアは感じ取る事が出来た。
起き上がりあたりを見回す。周りに数人の男が立っていた。身に纏うのは聖衣……神官だろうか。そして皆一様に驚愕の表情を浮かべている。やがて1人が静かに口を開いた。
「き、奇跡だ。成功だ……聖女様が再臨された!」
ふと横を見ると大きな鏡台が多いてあった。そこに写るのは流れる様な金髪を持った美しい少女。輝く様な碧眼がじっとこちらを眺めていた。
リリアは聖女になった。なってしまった。
あの日、リリアが死んだ日は魔の軍勢の大侵攻があった。その戦いで聖女が戦死してしまったのだ。勇者と並ぶ希望の象徴である聖女の死。それは人類にとって余りにも大き過ぎる損害であり許容出来る事では無い。
戦いは拮抗している。そんな中、聖女の死が公になれば……。それを恐れた王国は禁忌の術に手を出した。聖女の肉体に他の魂を入れ復活させる。もちろんそれは容易にでは無く、数多の魂が犠牲となった。
幸いな事にあの日の侵攻で必要な魂には事を欠かない。あの日死にかけていたリリアも術に使われーー奇跡的にリリアの魂が聖女の肉体に結び付いたのだ。
そこにリリアの意志は無く、本来許される筈もない禁忌の術。だが、人間達にはこうするしか無かった。
「……」
リリアは鏡に写る聖依を纏った自分を見つめる。そこにはかつての自分は無い。リリアは魔力など持っていなかったが、今は大きな力を感じる。
そして名前さえもリリアは奪われた。禁忌の術の制約により、生前の名はおろか過去を明かす事も許されない。それを破れば彼女の肉体な消え去ってしまう。リリアはリリアで無く、聖女ウィアで無ければならないのだ。
自分が自分として生きられない。それはある種の地獄かも知れない。けれどもリリアは聖女として生きる事を受け入れた。その理由は。
「……」
王宮のバルコニーに彼は居た。
(ニクス……)
かつての恋人が静かにそこで風に吹かれていた。戦いをくぐり抜けて来たその体は逞しく大きく、顔には戦傷があったがすこし幼さの残る顔は変わらない。物憂げに空を眺めていたニクスはリリアーー聖女ウィアに気付いた。そして険しい顔でリリアへ向かう。
リリアはその訳を知っていた。ニクスは聖女を憎んでおり、更にはかつての故郷が魔物に襲われ壊滅した事ーーリリアが死んだ事を知っているからだ。
「……生きていたのか」
込められているのは激しい憎悪の視線。神官から聞かされたのは、ニクスは聖女を憎んでいる事。
「何故お前が生きていて……あいつが……」
ニクスは拳をギュッと握る。ニクスは自分とリリアを引き裂いた物全てを憎んでいた。それは王家であり、神託を下した聖女であり、魔の王であり……。見るもの全てが憎かった。
もちろんリリアと別れたのも、リリアが死んだのも聖女の所為では無い事をニクスは理解していた。それに聖女の力無くしては戦えない。だが、どうしようもない怒りは抑えようもない。
かつて守りたかった者は既に無く、だがニクスがあきらめれば沢山の人々が死ぬ。もう引き返す事も止まる事も出来ないのだ。
2人は奇跡的に再会した。
だが、もうニクスはニクスで無く憎しみに苛まれる勇者アレス。
リリアはリリアで無く、勇者に憎まれる聖女ウィア。
何もかもが変わってしまった。もう仲睦まじかった2人はそこに居ない。かつての恋人に憎まれながら生きる。それはどんなに苦しい事かリリアは分かっていた。
(それでも、それでもわたしは……)
彼の側で彼の助けになれるなら、わたしは戦う。
その日から報われる事の無い戦いが始まった。ニクスは憎しみと逃れようの無い使命に追われ戦い、リリアは憎まれながらも聖女としての役目を果たし続ける。
ニクスの顔に笑顔が浮かぶ事は無く、リリアは自らの正体を明かす事は出来ない。かつての恋人から受ける憎悪は氷柱の様に冷たく鋭く突き刺さる。だが、リリアは献身的に支え続けた。それが今自分に出来る事だから、と。
そうして無限にも続く様な苦しみの日々が続き、季節が数回移り変わる。
だが、何事にも終わりは訪れるものだ。魔の王と人間の戦いにもそれは等しく訪れる。そしてその終局の形はーー。
勇者と聖女の前に倒れるのは魔の王。遂にニクスの手により邪悪は打ち倒されたのだ。長い戦いであった。多くの人仲間は死に、そして勇者さえもーー。
「う……うぐっ……」
「アレスっ!」
それは明らかに致命的な傷であった。聖女の力を持ってさえも助ける事は出来ないほどに。勇者は膝をつき蹲る。だが、苦しそうな表情と何処か悲しい表情を浮かべていた。
「もういいんだ……俺はもう……」
そう呟くと勇者は魔法を発動した。勇者の姿が光に包まれ、そして消える。
「転移魔法?! 一体どこへ……」
生き残った仲間達は勇者は行動に困惑する。だが、リリアには分かっていた。彼がどこへ行ったのか。リリアも転移魔法を使いある場所へ向かった。
冷たい冬の風が静かに木々を揺らしている。故郷の丘の頂上でニクスは静かに夜空を見上げていた。神々の輝きが煌々と光を放っている。
もう自分は助からない事をニクスは理解していた。だが、もう別に良い。生き残っても何も無い。だったら静かにかつて恋人と居た大事な場所で死のう。ここなら誰も来ないから。……そう思っていたから、彼女が現れた事はあまりにも予想外だった。
「……! ……何故ここに」
ニクスの前に現れたのは聖女。何故、彼女が俺しか知らない場所に……。だがもうどうでも良いか。これから死ぬのだから。
「なぁ、聞いてくれるか?」
不思議と聖女に対する憎しみはもう無くなっていた。それは役目を果たしたからか、死に際だからかニクスにも分からなかったが……今は最後誰かに聞いてほしい。そんな気持ちだった。
「俺にはな、恋人が居たんだ。小さい頃から知っていて笑顔が可愛くて……かけがえのない大事な人が」
「……」
「勇者になって、もう会えなくなって……それでもあいつが平和に暮らせるならと思って戦っていたんだ……そしたら死んじゃってさ……」
「守りたい人を守れなくて、俺は何の為に戦ってたんだろな。人間を救えても、俺には何も成し遂げられてないのと同じだ……この戦いは俺にとって何も意味はなかったんだ」
ニクスの目から涙が溢れて出ていた。悔しそうな表情。憎しみの表情は浮かべれど、涙は初めてであった。勇者として発露する訳にはいかなかった感情がニクスから溢れ出ている。
聖女はそんな勇者へゆっくりと歩み寄る。そしてニクスへ微笑みながら静かに告げた。
「そんな事ないよ、ニクス」
その言葉にニクスの目が見開かれた。驚愕。何故なら、ニクスという名を知る者は僅かな筈。勇者は勇者アレスなのだ。聖女さえ知らない筈であった。
「あなたの戦いは意味があったよ、ニクス」
「……り、リリア?」
ニクスはその笑顔にかつての恋人の姿を見た。死んだはずのリリアの姿を確かに見たのだ。
「……わたしね、聖女になっちゃったんだ」
全てが終わった今、リリアは誓約を破り全てを話した。あの日の事。そして聖女へ生まれ変わった事。
それを聞いていたニクスはやがて顔を悲痛な表情に歪ませた。ニクスは憎しみをリリアにぶつけていた事になるからだ。
「俺はなんて事を……」
「ううん、いいの。わたしもニクスの事を苦しませちゃったから……でも、良かったよ」
「え?」
「最後にほら、こうやって本当のわたし達としてまた会えたんだから」
「あ……」
リリアはニクスのとなりへ座る。そしてあの日のように静かに手を握った。
「わたしはずっとニクスに守られていた。ありがとう、ニクス」
「あ、うああ。ああああああ……」
ニクスはリリアの胸の中へ泣き崩れた。それは再会できた喜び。自分の戦いに意味があった喜び。様々な喜びがニクスを救済したのだ。
「ずっと一緒にいるよニクス」
「俺もだ、リリア……」
リリアの身体が光を帯び始めた。誓約を反した事による浄化の光だ。そしてニクスにも最後の時が訪れようとしている。だが、2人の表情は幸せそうであった。愛する人と最後を添い遂げられるのだから。
天には北極星が悠久の輝きを放ち、2人を祝福していた。