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頼義、母を想うの事

頼義の母は、名を「修理(しゅりの)命婦(みょうぶ)」という、宮中に仕える侍女だった。出自は、実は頼義もあまりよくは知らない。が、父頼信が三男だった事もあり、さほど高い身分の生まれではなかった事は察せられる。


その母がすゞ子……かつて頼義が「姫」として暮らしていた頃、事もあろうに自分の侍女であった女の愛人と不貞を働いた。その男も宮中に随身(ずいじん)として仕える武人であったが、位は(じゅう)六位下(ろくいのげ)という、夫頼信よりもはるかに身分の低い人物であった。その結果として修理命婦は男子を身籠り、生まれた子は密かに不義を犯した男のもとに引き取られた。その事は宮中でもおおいに非難の的となった。母は宮中を下がり、屋敷から一歩も出る事なくひっそりと後の生涯を送った。


それでも頼信はこの不貞の妻を離縁する事もせず、また他所に側室や愛人を作る事もなく修理命婦だけを妻とし、今にいたっている。その事は一層頼信に対して「臆病者の寝取られ冠者(かじゃ)(若僧)よ」と侮られる原因となり、頼信自身の出世にも大きく陰を落とす結果となった。


すゞ子は母を激しく責めた。恥を知れと幾度この実の母をなじったか知れない。これで、母が開き直って毒婦として横柄に振る舞うなり、逐電(ちくでん)して不義の相手と駆け落ちするなりしていたならば、すゞ子もただ母を憎むだけで済んだだろう。しかし、この母はいくらすゞ子が罵声を浴びせようとも、ただ



「許してたもれ、許してたもれ……」



と泣いて謝るばかりであった。


母は弱い人間ではあったが、決して悪人ではなかった。ただ、身一つで男の元に走ることもできず、一生を夫の庇護に頼るしか無いだけの、ただの「女」でしかなかったのだ。この時代、「女」とは、ただ「女」というだけで男にすがり、頼って、ひたすらに耐えて生きていく他に生きて行く道はなかった。


以来、母とは二度と顔を合わせることもなく、誰にも知られる事なくひっそりと母が息を引き取った時も、その葬儀の際すゞ子は母の亡骸に目を()る事すらしなかった。後年の話になるが、前九年の合戦の折、頼義が敵軍に大敗して麾下(きか)の兵七騎のみで命からがら逃げ延びた時に乗っていた騎馬の供養は盛大に執り行った頼義だが、母のために法要を行う事はついぞ無かった。といった逸話が「古事談」に残されている。


そのような母の姿を間近で見ていたすゞ子は、自分の中にもある「女」を忌み嫌った。「女」であるというだけで弱く、儚く生きなければならないという宿命を憎んだ。すゞ子は単衣(ひとえ)を脱ぎ捨て、野を走り武を学び己を鍛え続けた。



「私は……『女』である事にすがって生きたりはしない……!」



その思いだけがすゞ子を「源頼義」として前へ進ませる原動力だった。しかし……


酒呑童子の、あの眼を思い出し、頼義は肌を泡立たせた。あの視線を受けた時の熱い鼓動、言葉を聞いた時の甘美、そしてその声に従う事の陶酔感……!


思い出すたびに、頼義は恥辱のあまり己の顔面を掻き(むし)りたくなる衝動に駆られてしまう。ただ「女」というだけで……「女」というだけで何一つ(あらが)うこともできずに敵の軍門に降ってしまった屈辱。しかも、今度会った時、またあの「瞳」に見つめられたら……というわずかな()()()()()()()が自分の中にひそみ隠れているという自覚が、なおの事自分自身を恥じ入らせた。


涙が出た。悔しくて、情けなくて、恥ずかしくて頼義はその目から溢れようとする涙を必死になって堪えた。余りに堪えんと踏ん張るせいで、正座の上から強く握りしめた袴の裾が血で赤く滲み出してきた。


金平たちに気づかれぬよう静かに別邸を辞した頼義は、独りとぼとぼと家路を辿っていた。金平に殴りつけられた頬が鈍く痛む。この痛みだけが唯一自分を正気に引き戻してくれる(くさび)のように思えた。もう「紅蓮隊」には戻れない。どの面を下げて彼らの前へ姿を現せるというのか。金平の言う通り、京都を離れて母のようにひっそりと父の任国で暮らすか、いっそ髪を落として仏門に下るか……頼義の虚ろな瞳は薄曇りにぼんやり透けた朧月を見るともなく見上げていた。


頼義の後ろには、もう誰もついて歩く者もいない。

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