頼義、堕ちるの事
坂田金平は、今目の前で起こったことが一瞬理解できずに呆然とした。今の今まで酒呑童子に相対して共に刃を向けていた源頼義が、うっとりと目を潤ませ、手にした太刀を放り投げてフラフラと酒呑童子の方に向かって歩いて行く。それを霧の中の酒呑童子が笑っているつもりなのか、キュッと口の端をつり上げて迎え入れようとなっている。
「ダメぇ!!そいつの目を見ては!!」
遠くで穂多流の君の切り裂くような叫び声が聞こえる。
「しまった!そういうことかよ!?」
ようやく頼義の身に何が起こったのかを理解した金平は頼義を押さえつけるべく駆け出した。が、その足元を白面童子の低い蹴りが襲う。かろうじて避けた金平は体勢を立て直すが、すでに白面童子が頼義との間に立ち塞がり行く手を阻む。白面童子は独楽のように片足を軸にしてくるりと回転すると片足立ちのままいつでも蹴りが出せる体勢で金平を牽制する。この女狐はどうやら大陸の古い武術をも体得しているらしい。
「ほほほ、折角の逢い引きやさかいに、無粋な真似はせんとおくれやす野暮天はん」
白面の体越しに頼義の姿が見える。彼女は虚ろな動きでゆるりとその手を酒呑童子に差し出す。鬼の王はそれに応えるように自らの手を伸ばし、頼義の手を取ろうとする。
「やめろおおおおおおお!!」
そう叫ぶ金平の肩を踏み台にして何者かが天高く飛び上がった。その人物は驚くべき跳躍力で白面童子の頭上を飛び越え、頼義と酒呑童子のいる所まで一息に肉薄した。
「ん?」
予期せぬ闖入者の存在に一瞬酒呑童子の視線がその人物の方を向いた。その瞬間、強烈な閃光が炸裂し酒呑童子の目を焼いた。
「うわっ、まぶしっ」
思わず目を逸らした隙をついてその男は頼義を酒呑童子から引き離し、その額に何も書かれていない白紙の護符を貼り付けた。
「臨・兵・闘・者・皆・陣・烈・在・前(ひょうとうにのぞむものみなじんしてはげしくおんまえにあり)!摩利支天よ、降魔の利剣にて邪悪を絶たん!オン アニチ マリシエイ ソワカ!」
浄玻璃鏡を掲げた卜部季春が裂帛の気合とともに真言を唱えると、頼義の額に張り付いた白紙の護符に印呪と真言が浮かび上がり、たちまち外法破りの護符となって頼義に取り憑いた巫術を切り離した。頼義はその場で力なく崩れ落ち、そのまま昏倒したようだ。
「季春!!」
金平が倒れた頼義を担ぎ上げてこれを守るようにして剣鉾を酒呑童子に向ける。
「応よ、取り急ぎ殿にかけられた『邪視』は切った、しかし油断めさるるな、こやつとんでもない化物でござるぞ!!」
季春は金平と頼義を酒呑童子から引き離すために二枚の護符を使って即席の式神を召喚する。人形の護符は鎧をまとった鋼の武者となって酒呑童子と白面童子の前に立ちはだかる。
「なんと言う事だ、よもやこれほど強力な『邪魅の瞳』を持つ者がおるとは……!」
「邪魅?なんだそりゃあ」
「かつて殷のとある王は鬼女に誑かされて魔導の道に堕落した。王は鬼女より授けられた邪法で『他人を意のままに操る力』をその瞳に宿し、その力をもって悪虐非道の治世を行なっていたと言う。こやつの目はまさにソレよ。しかも巫山戯ておる、この酒呑童子の邪眼、女であれば無条件に術にかけられるモノらしい!こんな無茶苦茶な魔術、聞いた事もない!!」
霧に包まれてたたずむ酒呑童子は、目の前にあった新しい玩具を取り上げられた子供のように不機嫌な面構えになった。
「ご丁寧に解説どーも。ふん、そこまで見破るとはなるほど陰陽師、なかなか侮れんか?ブサイクな顔だが流石は安倍晴明の門下と言うべきか」
「か、顔は関係ないでござろう、なんだい自分がちょっとイケメンだからってバーカバーカ!」
季春が涙目になって叫ぶ。どうやら顔の事は触れてはならない領域の話題らしい。
「そんなさぁ、意のままに操るだなんて誤解もいいところだよう。みんな僕の格好良さに憧れて夢中になっちゃうだけさ。仕方ないよねえ、だって僕、ほら、美形だから」
そう言って笑顔で片目をつむってみせる。季春は「オエー」と吐き戻す仕草で応戦する。
「うふん、気が変わったよ。都なんて後回しにして伊勢にいる帝の首でも捻り切りに行こうと思ってたけど、先にこっちを遊び場にしよう。そこの娘、頼義ちゃんだっけ?それ、僕のお気に入りだから大事にとっておいてね、後で遊ぶんだから」
そう言いながら酒呑童子は季春の放った式神二体を事もなげに引き裂いた。季春の話では帝のいる伊勢は襲わないという約定を密かに交わしていたと聞いたが、流石は鬼と言うべきか、そのような約束などはなから守る気もないらしい。
「その娘、うまく術を切ったつもりだろうけど、もう『道』は開いちゃったからね、いずれ必ず僕の所へ戻って来るよ。だからそれまで大切に保管しときたまえ。ははははは」
酒呑童子の高笑いが響くと、ねっとりとした霧が一層強く立ちこめ、次の瞬間一気に霧が晴れ渡り、元の静かな都の大通りの様相に戻っていた。周囲を見回しても酒呑と白面の姿は無く、雲のかかった朧月が不気味に金平たちの姿を照らしているだけだった。
頼義の目は、まだ醒めない。




