応天門、血に染まるの事
感動の再会の場のはずであった応天門前は一転して阿鼻叫喚の地獄絵図と化した。
出迎えた公卿たちは何が起こったのかもわからぬという顔のまま絶命し、自分の父や兄、夫を刺し殺した姫君たちは皆一様に恍惚とした表情を浮かべて立っている。
道長は驚愕のあまり口を魚のようにパクパクさせて棒立ちになり、周囲にいた家中の使用人たちも今目の前で起こったことが理解できずに呆然としている。
そんな道長たちを横目で見やると、姫たちは血に染まった懐剣を手に蕩けるような薄ら笑いを浮かべたまま、今度は一斉に自分の首を掻き切った。
薄暮の庭園には、公卿と姫たちの死体が折り重なるようにそこかしこに散らばっていた。朱雀門から応天門へと至る石畳の路には所々血の海が出来、応天門の門扉も返り血にベッタリと染まり、むせ返るような鉄臭い匂いが辺り一面に充満していた。左大臣藤原道長は、篝火に照らされて浮かび上がった死体の山を眺めながら、
(自分は狂ってしまったのかもしれない)
などといった事をぼんやりと考えていた。立ちつくす道長の背後、応天門を見越したはるか北西の先、低く垂れこめた分厚い雲に何かの光が赤く仄かに反射していた。
同じ頃、源頼義と卜部季春は朱雀門の前で警護の者と押し問答を繰り返していた。季春の言葉に不穏な空気を察した頼義はその足で姫たちを乗せた牛車を追いかけたが、牛車が大内裏の門をくぐり抜けたところに追いつく一歩手前で、警護の瀧口の武士たちに押さえつけられてしまったのだ。
頼義が「火急の要件ゆえ急ぎ左大臣どのにお取次を」と訴えたものの、今宵は何人たりとも内裏に入れるべからずとの命を受けているの一点張りでまるで取り合わない。
「今、内裏うちではお戻りになられた姫様たちが中納言様や国司諸卿の元にようやくお帰りになられた所なのだ、無粋な真似をいたすな」
警護の武士がすげなく突き返すと、頼義も負けずに声を張り上げて事の重大性を訴えるが、一向に取り合ってくれない門番たちに業を煮やし、いよいよ強行突破するかといった所で季春が急に間に割って入ってきた。
「お待ちを……これは、血の匂い?」
突然の季春の物言いに瀧口の武士はきょとんと顔を見合わせ、鼻をひくひくさせると確かに何やら鉄臭い面妖な匂いがするように思える。
「!?」
反射的に門の立つ方へ振り向いた警護の者たちの隙をついて、頼義は二人の間を駆け抜けて門へ殺到した。中央の大門はすでに閂が下され固く閉ざされている。頼義はその脇にある連絡用の小さな潜り戸を突き破るように転がりながら突破した。
頼義が見たのは、文字通りの地獄絵図だった。驚愕とも不可思議とも取れる表情を浮かべて倒れている公卿たちの死体。得も言われぬ妖艶な笑みを浮かべて自害している姫たちの死体。呆けたように立ちつくす左大臣たち。血と脂と、吐き気を催すような邪悪な静寂が庭園一面に満ち溢れていた。
頼義は瞬きすることも言葉を発することもできず道長たちと同じように立ち尽くしてしまった。
(何が、何が起きている?これは一体何だ……!?)
目の前に広がっている光景はあまりにも自分の理解を超えている。なぜ、なぜこんな事に!その答えも得られぬうちに、頼義はその奥に見えるさらなる異変に気がついた。
「火、火が……!道長どの、内裏うちに火が付いてございます!!」
頼義の絶叫に、道長は最初「は?」と呆けた声を出しただけだった。頼義は道長の腕を掴み、
「お気を確かに!!左府どの、内裏に火の手が回ってございます!!」
と耳元で強く叫んだ。その勢いに道長は喝を入れられようやく正気を取り戻した。
「む、すゞ子……いや頼義どのか……ん?火!?ひぃぃーっ!!」
道長も火の手が上がっている事にようやく気付いて大声をあげた。応天門の向こう、太政官府はじめ二官八省の官舎が建ち並ぶ大内裏の北東の辺りから紅蓮の炎が夜闇を照らしているのが見える。頼義を追いかけて門をくぐってきた警護の武士たちも事の異変に動揺の色を隠せなかったが、
「何をしておる、検非違使を呼べ!!衛門府の者どもを集めよ!!」
という道長の怒号のような命令にようやく守護者としての職務を思い出し、急いで消火活動に向かった。
「あれは……大蔵が焼けているのか?いや、まさか兵庫寮が!?」
内裏の北面には朝廷の運営に使用される金品や備蓄品が保管された倉庫が並んでいる。その一角に兵部省管轄の武器庫である兵庫寮もあり、そこには朝廷軍が戦闘の際に使用する刀剣や弓矢、油などといった軍事物資が備蓄されていた。もしそこが焼けているのだとしたら、これから鬼たちとの本格的な戦争を迎える朝廷軍にとって大打撃となる。道長は正気に戻るやたちまち元の能吏としての本領を発揮し、部下たちに次々と指示を飛ばし状況の把握に努めた。
頼義たちも火災現場へ走って事態の収拾と消火活動に当たった。火元はやはり兵庫寮であり、すでに全棟に火が回っていて手のつけようがなかった。頑丈な土蔵は崩れ、松明用に備蓄されていた松脂に火が移り激しく燃え盛り、弓矢や台車、具足などがバチバチと弾けるような音を立てて燃え落ちていった。道長も現場に到着し消火活動を自ら指揮したがもはや消火する手立てはなく、後はもうただ土蔵が燃え落ちるのを待つばかりとなった。
頼義は逃げ延びた兵庫寮の使部たちを救護しながら火災の原因を聞いて回ったが、重度の火傷を負った彼らの口からは何も聞き出せず、火災が過失か何者かの手による襲撃なのかも掴めないでいた。兵庫寮の土蔵が完全に燃え落ち切った頃に、さらなる衝撃の一報が届いた。
「申し上げます!申し上げます!伝令、伝令!!」
額と左腕に刀傷を負って血まみれになった兵部省の武官が左大臣の元に転がり込んできた。
「も、申し上げます。ただ今兵部省役宅が敵の襲撃を受けまして、兵部卿藤原隆家様、兵部大輔平宗明様、同小輔藤原八束様、みなことごとくお討ち死になされました!!」
一度は冷静に戻った道長も、この急報を受けて再び狼狽した。
「な……!?兵部省が敵の襲撃に、だと!?莫迦な!!どこから敵が現れたと申すかたわけ!!」
道長も伝令の報告のあまりに突飛な内容に怒気を隠さず聞き返した。
「それが襲撃の首謀者は、首謀者は……」
伝令が信じられぬといった様子で思わず口ごもる。
「何をためらうことがある、申せ!!」
道長の怒声に観念して伝令が口を開いた。
「襲撃の首謀者は、惟任上総介様以下、御陵衛士の一隊でございます!!」




