追討使、帰還するの事
惟任上総介率いる御陵衛士及び丹波国の逆賊追討使の一軍が都を立って数日が過ぎた。追討使軍の連絡はたちまち途絶え、偵察に侵入した手練れの者も一人として帰ってこなかった。
陰陽寮の方でも式神を打って様子を探ろうと試みたが、軒並み返り討ちに遭い、丹波国の様子は一向に確認が取れないでいた。丹波の領内に迂闊に近寄れば鬼の襲撃に遭ったり疫病が蔓延するなどの噂がたち、商人も旅人もみな鬼を恐れて丹波を避けて通るようになり、もはや丹波国は人の手の届かぬ暗黒魔境と化してしまった。
「まったく、これは実に内々に納めておいていただきたい情報なのですが」
そう言って卜部季春が頼義に報告した。
「どうやら我が師安倍晴明は丹波の敵方と隠密裏に連絡を取り合っている様子にござる」
あまりに不穏な情報に、頼義は色めき立った。
「それは……安倍晴明が朝廷を裏切って敵に内通していると!?」
陰陽寮の一室、例の紅蓮隊の溜まり場でその報告を受けた頼義は、怒りのあまりにがばと立ち上がった。
「さにあらず。とは申せ半ばそれに近い行為ではございますなあ」
「仔細を!」
頼義の剣幕に季春は苦笑いしながら報告を続けた。
「どうやら晴明師は帝とそのご一族を伊勢に留めるおつもりのようで。伊勢から出ない代わりにそちらも伊勢への手出しは無用、という事らしいですな。都へ攻め入るなら好きにしろ、ただし帝には手を出すな。という条件で話を着けて、相手方もそれに乗った様子にござる」
頼義はそれを聞いて呆れかえってしまった。晴明にとっては帝のご無事こそが絶対条件であり、そのために都が焼かれようが朝廷が崩壊しようが構わぬ、という事なのか。
「まあ、我が師らしいっちゃあ、らしいですがね、へっへっへ」
頼義は事の意味をよく考えてみた。好意的に見れば、おかげで帝の身の安全は保証されたことになる。しかし、それは同時に丹波の鬼の軍勢が後顧の憂いなく都の侵攻に全力を傾注できるということでもある。季春の説明によると、都への鬼の侵入を封じていた三つの門のうちの最後の一つである石清水八幡宮の封印は今だ健在であるとの事。鬼の軍勢はその最後の封印を破るために石清水八幡宮を攻めるか、それとも完全に封印が破れずとも構わずに都へ攻め上るか、そこが判断の迷う所だった。
「もし、奴らが直接に都へ攻め上るのであれば時間が無い。惟任どのたち追討使軍との一戦の結果いかんによっては、即日この京が戦場になるやもしれぬ、な」
頼義は焦りを隠せなかった。そこまで予測を立てても、自分には何一つ対抗する手立てがない。またしても頼義は己の無力さを痛感させられて歯噛みした。
摂津の渡辺党へ助勢を願い出に行った渡辺竹綱と碓井貞景はまだ帰還していない。坂田金平も、本家に当たる下毛野家に赴いて全国から力自慢の剛の者をかき集める手筈を整えると言って、しばらく姿を見せていない。父は父で、任国である上野国へ再び下るための準備をし始めてまるで京のことなど気にもかけていない。まったく、晴明といい父といい、何でみんなこんなにも都に対して冷淡なのか。頼義は自分が生まれ育ったこの都が灰燼に帰する様を思い浮かべて背筋を凍らせた。それだけは絶対にさせない!しかし自分には何もできない。頼義はその二つの思いの間を行き来することしかできずに苦悶した。
そんな無明な時間を突き破るように、陰陽寮の使部が転げるように部屋に駆け込んできた。
「こ、惟任上総介様以下追討使ご一行、たった今都に戻られてございます!!」
待ちかねた一報を耳にして頼義は仔細もろくに聞かずにその場を飛び出した。
夕陽が沈みかけた直後の薄暮の中、惟任上総介と御陵衛士の一隊が馬に乗って朱雀大路を大内裏に向かって進んでいた。一行の後ろには数台の牛車が引かれて後を追うように進んでいた。身に付けた具足には所々乾いた血や泥がこびり付いている。よほどの大戦であったのか、皆表情は一様に沈痛である。頼義は馬を進める上総介の姿を認めて声をかけた。が、遠くだったためか彼女は頼義に気づかずそのまま先を行ってしまった。
先に到着した伝令使の報告によると、当方被害多数なるも見事敵を打ち破り、姫君たちを余す所なく無事に救出したとの事であった。まず先に御陵衛士たちが姫たちを護衛しながら先行し、残った本陣は後から遅れてやってくるとの事だった。
最初の一報を受けた左大臣道長は、さっそく攫われた姫君の家族たちを呼び寄せ、大内裏の応天門前に集まってその帰りを出迎えようと待機していた。娘や妻を鬼に攫われた公卿たちは、任国にも帰還せず、ただひたすらにその身を案じてやつれ衰えていたが、今は吉報を聞き及んだためかすっかり元気を取り戻し、娘たちの帰りを今か今かと待ちわびているという。
「良かった、姫様たちも、惟任どのたちもご無事で。本当に良かった……」
「確かに。しかし、いや……?」
通り過ぎていった一行を見やりながら安堵する頼義の横で季春が何やら不審な様子を見せる。
「それほどの大戦であったにしては、返り血こそあるものの、皆の鎧が少しも傷ついていないように見受けられまするが、はて……?」
朱雀門を入ってすぐ正面に立つ応天門の門前に、牛車の一群がようやく到着した。惟任たち御陵衛士の姿はすでになく、御者も付かずにノコノコと歩く牛車を見てそれぞれの公卿の家人たちが慌てて轡を取り、輿の御簾を上げた。すると中から次々と攫われた姫君たちが降りてきて、それぞれの家族の元へ駆け寄って行った。
「お父様、お父様ああ!!」
「ああ、旦那様、よかった、旦那様……!」
衣服は薄汚れ、所々に破れやほつれが目立ったが特に怪我もなく病気にもならず、みな弱りながらもしっかりと自分の足で歩いて父や兄、夫の胸に飛び込んで行った。公卿たちは人目も憚らず涙を流し、長いこと囚われの身であったために生じた汚れや悪臭も気にせず優しく姫たちを抱きしめ慰めた。
「おお、よしよし。すまなかった、すまなかったなあ。もう大丈夫だぞ。恐ろしい事はもう忘れて、今日はゆっくり休むがよい」
「お父様、お父様……!」
それぞれに暖かく抱擁を繰り返す家族たちの姿を見て、道長も家中の者たちも安堵と喜びで胸が熱くなり、我が事のように涙を流した。そして
「お父様、お父様。姫は、お願いがございます」
「なんだ、申してみよ。お前のためなら父は如何様にもいたすぞ」
「ありがとうございます、では」
姫君たちは一斉に懐に手を差し入れて、何かを取り出した。
「死んでくださいまし」
そう言うと、姫たちはつい先ほどまで暖かく抱きしめ合った父や夫の喉元に隠し持っていた懐剣を一斉に突き立てた。




