鬼切り姫、元服するの事(その二)
口走った瞬間、道長は直ぐに正気に返り
(しまった……!)
と心の中で毒づいた。
(まただ、またこの繰り返しなのか)
昔から、道長はどうにもこの少女の願い事を断ることができないでいる。「桜の枝を一折り取ってくれ」というささやかなものから、「不二のお山の雪が欲しい」などという子どもらしくも無茶な願いまで、なぜかあの瞳で見つめられ、懇願されるとその願い事を叶えないではいられなくなる。否、どうしても叶えなくてはならないという観念に囚われてしまうのだ。
道長はその度に必死に「叶えてやらなくてはいけない」という、強迫のような、甘い誘惑のような衝動に抗おうとしてきた。しかし、結局はその強迫観念に抗しきれずわがままを聞き入れてしまうのが常であった。今もまたすゞ子はじっと道長を見つめ返す。
(負けるな、耐えろ、耐えるのだ……)
そう自分に言い聞かせて大いに悩みもがきながらも、しかし道長の口からはその抵抗も虚しく
「うむ、そなたの帝に対する勤王の思い、また一族の未来を憂うその大志、しかとこの道長の心に響いたぞ」
「で、では」
「あいわかった。帝に願い出て、まずは従五位下の位を授けよう、それはとりもなおさず今後そなたを一人前の男子として扱うという証左にもなろう、女人にこれほどの高位を授けるなどとは前代未聞だが、そこはそれ、この道長に任せるが良い。従五位なれば各省庁の少輔の役にもつけよう、まず源氏の御曹司として十分にふさわしかろうて」
(待て……)
「あ、ありがとうございます道長様!」
「さすれば官位に伴った役職も授けてやらねばのう。さしずめ……」
(待て待て待て待て待て!)
あれだけ必死に抵抗したにもかかわらず、道長は結局彼女のために最大限の便宜を図ると口にしてしまっている。止めねば、これ以上この娘の願うがままにさせてはいけない、いけないのに……
「兵部省の衛士小隊の長にそなたを任じよう、それでいかがかな」
(だからダメだってーっ!)
もう道長は自分で自分を止められない。
さすがに己の期待した以上の好条件を提示されたからか、すゞ子もいささか当惑し
「そ、そのような大役をこの若輩者に……道長様、この頼義、此度のご恩義一生忘れませぬ。此れよりは父同様、いやそれ以上の忠勤を持って帝と左大臣殿にお仕えいたしまする!」
(あーあ、言ってしまった……)
道長は頭を抱えた。ついに最後まで止められずにこのような先例のない事態を招く羽目になってしまった。
個人的事情による過剰な身贔屓人事、これは間違いなく政敵に余計な隙を見せることになろう。この先必要もない無駄な苦労を背負うことになるのは火を見るより明らかだった。口約束で先送りにしてうまく誤魔化すこともできよう。自分ほどの百戦錬磨の交渉達者ならば、これしきの小娘一人言いくるめるくらいわけもないことである。
しかし、それはできない。できないのだ。なぜなら、すゞ子に頼まれた願い事は如何なることがあってもやり遂げなくてはならないのだ。そう、何があってもやり遂げねばならない、何があっても。
衛士小隊とは都を守る軍団の中でも最小単位の組織である。貴族の子弟が成人した折にはまずここに放り込まれ、社会人としての心得やらを叩き込まれる。とは申せ実際に戦に赴くことはなく、やる仕事といったらせいぜい教練と市中の警備くらいのもので、いずれそれぞれに適した役職に就くまでの猶予期間的な位置付けの閑職であった。
その辺りならば、まあ取り立てて周囲の連中もとやかくは言うまいという道長の深謀遠慮であったが、そこで道長ははたと思いついた。
「うむ、そなたに丁度いい隊がある。いずれ劣らぬ一騎当千の強者揃いじゃ。そこにそなたのような立派な若武者が指揮を執るとなれば正に当代無双の戦部隊となろう」
ふふん、この純情無垢な少女をあの餓狼の群れに放り込むのは些か気が咎めないでもないが、最高権力者としてせめてもの意趣返し、この道長を思うがままに動かしたからにはこれくらいの試練はあっても良かろう。道長は心の中でほくそ笑んだ。
「その部隊はな、名を『紅蓮隊』という」