さとり3
地を駆ける勢いそのままに、黒い霧に覆われた穴の上にかかる通路へ突入する。
瞬間。体の表面を呪いが走り抜けていく。
――苦しい
――寒い
――痛い
――助けて
――助けて!
――助けて!!
そんな人々の死念が光を求めて纏わりついてくる。
しかしそれを以前ほど負担には感じなかった。
受け流す……というのはまた間違っているのだろうが、その渇望に己を侵食される気配がないのは俺が少しでも悟りに通じた結果なのだろうか。
何よりも、この渇望の殆どは俺に向けられていない。
今ならその流れの先もよく視える。
穴の中心。斎藤さんというより強い光に彼らは集い、請い願っている。
だからこそ、有象無象の念をかき集めただけのこの神は形を保っていられるのだ。
斎藤さんという贄を核にして、おおかみ様は存在している。
「そう。だから私はここから離れられない」
俺の考えに応えるように言う女性の声。
その声を初めて実体として聞いた。
「斎藤……さん」
いつの間にか目の前まで来ていた。
黒い霧に覆われて自分の手すら見えないのに、彼女の姿はよく視えた。
夢で見た通り赤い袴姿の上から千早を羽織った女性は、こんな状況でも姿勢を崩さずピンと背筋が伸びているのにそれでも小さく見えた。
そんな小さな体を、救いを求める人々の念が蹂躙していた。
醜悪だとは思わなかった。
ただ悲しい。そう思った。
「……迎えに来ました」
「帰る場所もないのに?」
辛うじて絞り出した声に強烈なカウンターが返ってきた。
確かに深海さんの言う通りなら、彼女に帰る場所などないだろう。
かといって俺が帰る場所になるなどと軽はずみなことが言える状況でもない。
今更ながら深海さんがあれほど忠告してきた意味を実感した。
この人の過去と現在そして未来は、まだ未熟な俺が背負うには重すぎる。
「背負わなくていい。いや、背負ってほしくないのかな。だってここで優しくされたら貴方に依存しちゃうって自分でも分かるから」
「でもそれは……」
「うん。私は望月時男くん。貴方を愛してる」
斎藤さんは言う。
絶望も悲しみも押し殺して微笑みながら。
「貴方のようになれたらと憧れて、もしも傍に居られたら私でも救われたのかなと夢想して、もし共に生きられたらと焦がれた」
それでもと、斎藤さんは首を振って言う。
「だけど愛してるから、一緒にいられない」
本当は怖くて、寂しくて、叫び出したいはずなのに、全てをその優しい笑みの下に覆い隠して、斎藤さんはそう言った。
「さっき望月くんが見たもの、私にも見えたよ。きっと今の私たちの絶望も悲しみも、一瞬のことなんだって。でも私はその一瞬の先が恐い。いや違うかな。疲れたんだと思う。私」
どうやら深海さんは本当にさっき俺が全に繋がりかけたイメージを斎藤さんに送ったらしい。
でもやはり足りない。理解と納得は別物だ。
正論で全ての人を納得させることができないように、正しいと分かっていても人はその通りに行動しない。
「だったら俺が!」
「その先は言っちゃダメだよ。だって嘘でも他の子が好きだなんて、私が言われた側ならきっと悲しいから」
俺の決死の言葉は遮られた。
というか深海さん俺らの会話どこまで見せた。
悟りが大した意味なかった上に、明らかに状況悪化する情報まで斎藤さんに伝わってるじゃねえか。
いやあの人そもそも斎藤さん殺すつもりだったしわざとな可能性も……?
「だからこのまま……」
「ほう。自分なら悲しいと思うからか。しかし本人にも聞いてみてからでも遅くないのでは?」
「……え?」
不意にこの場に居ないはずの人の声がした。
いや。この声をさっきも聞いた。
諦めそうになった俺が踏ん張れたのはそのおかげだ。
でも、何故ここに居る?
「はじめましてだな斎藤一二三! 私は岩城学園の生徒会長であり、ふしぎ発見部の部長も務めている高加茂月紫という! 以後よしなに!」
戸惑うこっちの気も知らず、黒い霧の中でも存在感を放つ月紫部長が、腕組みしたままこちらへと歩きつつ名乗りを上げていた。
修羅場突入