さとり2
一瞬思考が止まった隙に、左腕の表面を刀が軽くかすめた。
「茫然自失といった様子だったのに辛うじて致命傷は避けるとは。体に武が染みついているようで何よりだ」
「くッ!?」
そう評している間にも、深海さんは次々と突きを、かと思えば斬り払いと、変幻自在の技で追い詰めてくる。
それらの幾つかを避け損ね、体の表面が薄く削がれていく。
マズイ。真偽はどうあれこの眼が悟りに近い、凪いだ心が必要なのは事実らしい。
精神的に動揺したせいか流れを明確に読むことができなくなった。
深海さんの次の一手が読めない。
「いやいや。それは俺が細かいことを考えることをやめたのもあるよ。所謂無我の境地だね。もっとも、この使い方は誤りで、本来は無我の境地というのはそれこそ悟りの境地に至ったことを言うんだけど」
だったら何でそんな説明できるんだよ。
無我の境地とは一体。
しかし俺自身の雑念ははれない。
己自身の馬鹿さ加減に腹が立ってくる。
確かに俺は犬笛を倒せば全て解決だと思っていた。
被害者の斎藤さんのその後の人生なんて欠片も考えていなかった。
それどころか斎藤さん本人はどんな人なのだろうかと、能天気に会うのを楽しみにさえしていた。
俺は自分のことばかりで、斎藤さん自身のことなんて全然考えていなかった。
「まあ仕方ないことでもあるんだけどね。さっきは彼女の人生に寄り添えるかと聞いたけど、そんな決意をするような歳でもないだろう」
そう俺の体を軽く斬り裂きながらフォローするように言う深海さん。
だったら何故聞きやがったこの野郎。
「自覚なしに彼女を地獄に突き落として後悔するよりはマシかなと。あとどうせ死なせるなら別に君が背負わなくてもいいよ」
「この……」
何だその俺が代わりに殺すから気にするなという人でなしの意見は。
そんな意見を聞き入れる方がそれこそ人でなしだろう。
先ほど腕を叩き斬ることもできたのにやらなかったのといい、手加減して俺を中途半端に傷つけて何がしたいんだ。
「いや殺さないよう気をつけてはいるけど加減はしていないよ。というか左腕が動かなくなってるのに気付いてなかったのか」
「え?」
言われて驚いて左腕を見たが、問題なく動く。
いや腕自体は動くが、何だか頼りない。
よくよく見てみれば、左手を握っているつもりだったのに、その手はゆるく開かれていた。
驚いて握りしめようとしても、腕に鈍い痛みが走るばかりで動きやしない。
「人体を斬るなら骨ごと断つのが理想だろうけどね、実戦で常にやってたら刃を損ねかねないしベターではない。だから古流剣術には骨を斬らずに表面の肉だけ斬る技術というのもあるんだよ。そもそも人を殺すなら骨を断つ必要なんてないからね」
その説明に冷や汗が垂れた。
つまり今まで避け損ねたと思っていた攻撃は、全て狙い通りで俺の身体能力を奪うためにやっていたのか。
「まあ全部が狙い通りではないけどね。君が俺の攻撃を避けられなくなってるのは、君自身の体の動きが鈍くなってるからだよ。むしろ反応速度自体は上がってる。だからこそ中々気付かなかったんだろうけど」
「……」
自覚してももう遅い。
確かに体を動かすだけで痛みが走るが、その痛みに気を取られて俺は俺自身の動きが鈍っているのに気付いていなかった。
「まあそれよりも……」
そのことに動揺する俺に向かって一気に深海さんが踏み込んでくる。
逃げる? 間に合わない。
防ぐ? 無理だ。
「もう君は心が半ば折れてる。自分がどうすべきか分からなくなってる。だから頑張らなくていい」
そう深海さんは諭すように言いながら、刀を稲妻を思わせる、この眼で分かっていても視認できない速度で振り下ろした。
今まで加減はしてなかったって嘘だろ。
そんなことを考えながら、俺は斬り裂かれた体を抱えながら崩れ落ちた。
・
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――まだだ望月! そんな戯言に惑わされるな! 助けると決めたんだろう!
そうここに居ないはずの誰かが言った気がした。
「……あ」
気付けば足を踏み出して崩れ落ちそうだった体を支えていた。
気付けば顔を上げて結界刀を構えていた。
何だろう。俺が俺じゃないような。
やるべきことが分かっていて。心を置き去りに体が動いているような。
俺という存在が広がって、世界が曖昧になっていくような。
そんな気がした。
「始まったか。さて。敵はここだ。誰でもない君の敵はここに居る」
そう挑発するように誰かが言う。
そうだ。踏み越えなければ。その先へ至れなければ。
結界刀を手に、俺は全力で駆ける。
この眼に映る世界が広がっていく。
世界が加速する。
世界の先が見える。
誰かを愛し。
誰かを失い。
それでも世界は巡っていき。
死んで。
生まれて。
死んで。
そしてまた生まれて。
その輪廻の果てに、俺は世界になった。
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・
「……あれ?」
気付けば仰向けに寝転がって、崖の端に切り取られて丸くなった青空を眺めていた。
「気付いたかい?」
「……え? あ……ええ!?」
声をかけられ視線を向けた先で、思わぬものを見て思わず起き上がった。
「深海さん!? その傷!?」
「ああ。君がやったんだけど。やっぱり覚えてないか」
体を肩から胸のあたりまで斜めに斬り裂かれ、血に塗れた深海さんが隣に座っていた。
その傍には半ばで折れて転がった刀の切っ先もある。
え? 俺がやった? 結界刀で? どうやって??
「いや俺もちょっと予想外だったけど、そりゃ空間斬ったらその間にある物質も断ち切られるよね」
要するに俺が今まで移動にしか使っていなかった空間斬りで直接体を分断されたらしい。
むしろなんで体ひっついたまま残ってるんだこの人。本当に人間か。
「ええ……というか大丈夫なんですかそれ?」
「ああ。俺はちょっと色々あって人間離れしてるからね。もう傷自体はほとんど塞がってるよ」
人外な自覚あったのか。
なにをどうしてどんな人生歩んだら致命傷が勝手に塞がる体になる。
そう思いながら自分の体を見たら、ぶった斬られたはずの俺の体の傷からも出血が止まっていた。
……俺も人外だった?
「ああ。そっちは斎藤さんの治癒の力が残ってたからだよ。まあともかくおかえり。悟りの一端に触れた感想はどうかな」
「……え?」
悟りの一端?
確かに俺自身の意識が薄れてどっか行ったような感覚はあったが、あれが悟り?
「さっきも言ったけど無我の境地っていうのは大抵誤用されててね。この場合の『我』っていうのは自我のことじゃなくてアートマンを指すんだ」
「アートマン?」
なんだそりゃ。聞いたことがない言葉だ。
「アートマンというのは仏教誕生以前からある概念でね。輪廻転生する中でも人が変わらず己であり続けるのは、アートマンという核があるからだと言えば分かりやすいかな。そのアートマンがあるから己は永遠だとされていたけど、それを否定したのが無我という仏教の考えなんだよ」
「……己自身もいずれ無になると?」
「少し違うかな。今この世に個として存在するものは全から生まれて全に帰る。君も、俺も、全ての人々も、元は全でありいずれは全に戻る。そしてまた生まれた個は君も俺も人々も混じりあった全から生まれた新しい個であり同じものなんだ。」
「……つまりよくフィクションであるみたいに前世の魂そのままで来世に転生するわけではないと」
なんかいきなり宗教的な話になってきた。
いやそもそも悟りが仏教の話だから当然かもしれないが。
「全てのものは絶対ではなく移ろっていくもので、それは一瞬のことである。全ては全であり個であることに拘ることに大きな意味はない……的なことなんだけど。
まあ君を介して触れても全部は理解できなかったね俺にも」
「……俺を介して?」
そういえばさっきからこの人俺が悟りの境地に至ることを予想していたみたいに話しているが、もしかしてさっきの戦いや問答は……。
「うん。いい感じで追い詰めたら至りそうだったから、つい」
「つい!?」
ついで俺はあそこまで追い詰められたのか。
いや斎藤さんのこととか言ってることは本心だったんだろうけど。
「まあ君も結局全に触れただけで悟りには至らなかったね。悟りの道はかくも遠く険しいなりと」
「ええ……」
要は俺は悟りへの道は確約されているが、実際に悟るにはまだ足りないということだろうか。
確かに先ほど言われたような個は所詮一瞬のもので全であるという考えに至れる気は全くしないが。
「至れなくても感じるものはあっただろう。それと同じものを斎藤一二三も感じたはずだ」
そうあっさりと言う深海さん。
いや。確かにこの人は心を読むだけでなく送ることもできるテレパスだが、自分を介して俺が悟りに触れるイメージを斎藤さんに送ったのか。
もしかして最初からそのつもりだったのか。
「今なら説得も少しは楽になってるはずだよ。さあ、行きなさい」
「……あとでじっくり話しましょうね」
どこからどこまで予定通りで、どこからがその場の勢いだったのか。
ともあれ本来なら礼を言うべき場面なのかもしれないが、心情的にどうしても言いたくなかったので捨て台詞を残して斎藤さんの居る穴へと向かう。
「そう。それでいい。俺が何を企んでたって、最終的に掴み取るのは君の意思だ」
そんな俺の心を読んだのであろう、深海さんが静かに呟くのを聞きながら。
もっちー「意識がなんかでっかい存在に持ってかれる!?」
深海さん「悲観的過ぎてめんどいからもう一緒に悟っちゃえ」
斎藤さん「ええ……(巻き込み悟り」




