慧眼――さとり
まるで縁側で子供の口から吹き出されたスイカの種みたいに、俺は黒い穴の中から勢いよく放り出されて宙を舞っていた。
当然体勢は滅茶苦茶で慣性までついているものだから、俺はろくに受け身を取れずコンクリートの地面に激突しゴロゴロと転がることになる。
「なにぃ!?」
「ぐぅ!」
犬笛の驚愕する声が聞こえるが、その前に自分の身だ。
随分と手荒い送迎だったが痛めた部分はないし、何より体に開いたはずの風穴が全て塞がっている。
斎藤さんが治してくれたのか。いやいくらなんでも即死するような傷を治せるのか?
もしかしておおかみ様の一部を従えている故に可能だったのだろうか。
腐っても神として作られたものだ。それくらいできてもおかしくないし、それくらいはできないと犬笛も拘らなかっただろう。
「……なるほど。なるほどなるほどなるほど! 彼女にまだそこまで自由があったとは。いや羅門のことは言えませんね。私も詰めが甘かった」
穴に落ちた俺が勝手に戻ってきたのが斎藤さんの仕業だと気付いたのか、犬笛が口元を隠すように手で眼鏡を押し上げながら言う。
ああ本当に。羅門も犬笛も甘くて助かった。
本来なら奴らは俺より遥かに格上だ。それこそ遊びで殺されてもおかしくない。
そう。そうやって遊んでいるから、肝心な所で勝てないんだ。こういう黒幕を気取った連中は。
「しかし状況は何も変わりませんね。貴方は私に攻撃できないままで、逃げることも不可能だ」
確かに。状況は振り出しに戻っただけだ。
相変わらずおおかみ様たちは黒い穴の中から際限なく溢れ出てくるし、犬笛との間には鉄格子がありこちらからは手出しできない。
だがどうにかできるという確信が俺にはある。
きっと斎藤さんはそれを使って俺に逃げてほしかったのだろう。しかしここで逃げたら、誰かが仕方ないと俺を許しても俺自身が俺を許せない。
「さあ。もう一度踊ってもらいましょうか」
だから俺は犬笛が拳銃をこちらに向けてくるのも構わずに――。
「……な!?」
結界刀で空間を斬り裂きその背後へと跳んだ。
「予想してないとでも思いましたか!」
しかし犬笛目がけて振り下ろした結界刀は、黒い霧のような膜に防がれた。
それは今まで相手にしてきたおおかみ様よりも濃い、穴の中に溜まった穢れを全てを濃縮したような闇だった。
その闇に結界刀は阻まれ、反発した磁石のように弾き返される。
「その結界刀がいかに結界や概念すら斬ると言っても、三界におけるもの全てを斬れるわけがない。出力で上回るもの、すなわち神を斬れるはずがない!」
なるほど。
単純だが不変の真理だ。
いかに蟻が小手先の技を使っても象には勝てないだろう。
それくらいの差が俺とおおかみ様の間にはある。
そんなことを考えている間にも犬笛が拳銃をこちらに向けて来たので、三連続で放たれた弾丸の軌道を読み避ける。
「なに……?」
それを見た犬笛が微かに狼狽した。
同時に俺自身も少し驚いている。
弾丸の軌道を見切るなんて達人クラスの技術を俺はいつ身に着けた?
自分でそう疑問に思うのに、しかしできて当然だという確信があり、そんな自分を他人事のように冷静に見る自分が居る。
あの時と同じだ。
羅門相手に追い込まれ空間を斬れるようになったときと同じ。
自分が自分ではないような、どこか世界がズレているような感覚がする。
「馬鹿な……。これが若さゆえの可能性だとでも? そんなもので納得できるか!」
犬笛が何故か口調を荒げ、拳銃を続けざまに発砲するが、その内の三つは避けるまでもなく体の横を素通りしていった。
さて。犬笛は既に脅威ではないが、こちらからの攻撃も通じないのは厄介だ。
恐らくはおおかみ様本体の力で体を鎧っている犬笛に、直接攻撃を通すのは不可能だろう。
ならどうするか。
お約束なら大元を潰すべきなのだろうが、この場合大元が強すぎて俺にどうこうできる存在ではない。
なら間接的に。そう考えていたら犬笛から伸びるソレに気付く。
「その目! その目だ! 何だその目は! 馬鹿にしているのか!?」
弾丸を込め直した犬笛が再び銃口を向けてくるのも気にせず、俺は再び空間を斬り裂き黒い穴のそばへと跳んだ。
そしてよく見極めながら結界刀を振り上げると――
「なっ!?」
犬笛とおおかみ様の繋がりを斬った。
・
・
・
「そうか……そういうことか」
黒い霧が消失し、犬笛の姿が鮮明になる。
しかしその様子は異様で、どこか呆然とした様子で視線が宙をさまよっている。
「その目。その目だ。その目が全ての元凶か!」
そう言いながら拳銃を向けてくる犬笛だが、言葉の意味が分からない。
確かにたまに中里などに目つきが悪いとは言われたが、それがどうしたというのか。
「とんだ勘違いだ。貴様の空間や概念すら斬る力。決してその結界刀に由来したものではない。その目だ。見鬼などではない。もっと早くに気付くべきだった!」
銃口を向けながらも、犬笛は引鉄をひこうとしない。
まるで何かに怯えているようで、しかし同時に恍惚としているような……。
「如来眼。肉眼と同時に心眼で世界を見渡し、真理を見極める。悟りに至った者が持つとされる眼。ハハッ。生涯を賭けて神を作り人を越えようとした私の前に、何の苦労もなく突然変異で悟りの道を行く者が現れるとは。
――なんの茶番だコレは!?」
犬笛の叫びと共に放たれた弾丸が顔面へと向かってきたので、結界刀で空間を斬り背後へと飛ばす。
なるほど。俺が空間や概念すら斬れるのは結界刀の性質ではなく、如来眼とやらでそれらを視て認識できるかららしい。
月紫部長には空間跳躍が仙道の縮地に近いから仙人呼ばわりされていたが、まさか仏方面だったとは。
いや、犬笛は悟りに至った者の眼だと断言しているが、俺としては見鬼以上に色んなものが視えるだけで別物だと思うのだが。
というかそれこそこんな簡単に悟りに至ったら、世の仏道を志す人たちに失礼すぎる。
「クソが!? 死ね! 死ねぇ!?」
さて。いよいよ精神状態がヤバいのか罵詈雑言を吐きながら銃を乱射する犬笛を止めるべきだろう。
「しぃっ!? 貴様ぁ!?」
空間を跳躍し一気に間合いを詰めると、犬笛の右手を結界刀で斬りつける。
すると霊体を斬られた犬笛の右手は見た目には傷はないもののその機能を失い、重力に従いだらりと垂れ下がった腕から拳銃が落ちて地面を滑っていく。
武器は奪った。なら後は気絶させて……などとそれこそ甘い考えは捨てるべきだろう。
この期に及んで犬笛の目には諦めというものがない。
切り札を。それこそ拘束されても形勢逆転を狙えるようなものを仕込んでいてもおかしくない。
殺すしかない。
そもそも今は俺が優位に立っているが、いつこの火事場の馬鹿力がなくなってもおかしくない。
最初からこれは殺し合いだった。
ただでさえぎりぎりなのに、相手を殺さずに止めようなどと思わない方がいい。
そう半ば自分を騙すように言い聞かせ、結界刀を犬笛の心臓目がけて突き出す。
「うん。まだ君はそんな覚悟はしなくていいよ」
しかし結界刀の切っ先が届く前に、聞き慣れた声がして犬笛の頭が胴体から離れて落ちた。
・
・
・
「……深海さん?」
「やあ。頑張ったね。おかげで上手く事が運んだよ」
いつの間にそこに居たのか。
頭と胴体が離れ、糸が切れた人形のように崩れ落ちた犬笛の後ろに、刀を携えた深海さんが居た。
「……」
状況の把握が追い付かず、犬笛を――既に事切れた死体を見る。
まるで斬られたことに気付かなかったみたいに、その首からの出血は少なく、落ちた顔に浮かぶ表情は死ぬ直前のそのままだった。
こんなにあっさりと人が死んだことに、目の前の人がそれを躊躇いなく成したことに少し恐怖を覚え、すぐにその考えを振り払う。
俺がやるべきだった。
犬笛と対峙していた俺が殺すべきだったのを、深海さんは肩代わりしたんだ。
まだ俺には早いと。師として、大人として、まだ子供でしかない俺を守るために。
しかし落ち着いてくると疑問も出てくる。
何故深海さんがここに居るのかと。
「ああ。羅門が居たのは山中の寺だったんだけどね。羅門を倒した後に君の居場所を探ったら、その寺の近くだったからすぐに来れたんだよ」
「……どっから入ってきたんですか」
「そこ」
そう言って深海さんが指さすのは、どう見ても足場どころか手がひっかかる場所すらなさそうな断崖絶壁。
やっぱヤベエよこの人。あんなに今までやりたい放題だった羅門をあっさり倒してきたのといい、身体能力が人間超越してるよ。
「さて。羅門と犬笛が死んだ以上、後はおおかみ様の本体だけど」
「あー斎藤さんでも一部しか押さえ込めないみたいですし」
「ああ。とりあえず要を壊してしまえば後はどうとでも……」
そう深海さんが言いかけたところで、俺は半ば無意識に結界刀を構えて、穴を背に深海さんの前に立ちはだかっていた。
要を壊す。その言葉の意味を理解する前に、何だかものすごく嫌な予感がして体が動いていたのだ。
「うん。やっぱりこうなったか。敵を殺す覚悟はできても、犠牲を見過ごすことはできないだろうね。君のような子は」
そう言いながら、深海さんは仕方がないと笑う。
この場を収めるために、斎藤さんを殺すと何の躊躇いもなく言い放つ。
「何も殺さなくても方法は――」
そう言いかけて、しかし本当にあるのかと自問する。
そもそも今のおおかみ様がどのような状態なのかすら俺には分からない。
いやこの目で見れば斎藤さんにおおかみ様が絡みつき、深く侵食しているのは分かるが、これはどうにかできないものなのか。
時間をかけて切り離せばあるいは……。
「それは危険すぎるね。あの斎藤という子がおおかみ様を押さえ込めていること自体が奇跡とも言える。あの子を逆に支配下に置いておおかみ様が暴走する可能性もある。犬笛は神が生まれるならそれも良しとしていたみたいだけど……」
そう言いながら深海さんが刀を構える。
自分は見過ごすつもりはない。
邪魔をするなら斬り捨てる。
そうその目が語っていた。
「深海さん!」
「何よりも。君は一つ重大な事実を知らない」
「何を!?」
「あの子は死にたがっている。既に全てを諦めている。……それでも君は生きろとあの子に言えるか?」
「……え?」
その言葉の意味が分からず間の抜けた声が漏れた。
斎藤さんが死にたがっている?
いや心当たりはある。
あの空間。ふしぎ発見部の部室を模した場所で最後に告げられたあの言葉は――。
「ッ……それでも!」
「問答無用。……とは言わないけれど、既に君の考えを読んでいる俺を説得できるとは思わないことだ。六角さんにも忠告されただろう」
確かに六角さんは言った。
深海さんはいつか俺の大切なものを斬り捨てる。
だから覚悟しておけと。
深海さんと敵対することを。
その選択を受け入れることを。
「それでも止めたいというのなら、全力で来なさい。その覚悟だけは認めよう」
「……」
その言葉に返事はできず、それでも抗うために俺は結界刀を構える。
例え今の状態でも、深海さんが相手では相性が悪い。
勝てないと分かっている。
だけど納得できないと叫ぶ自分が居て、勝手なことを言うなと憤る自分が居た。
分かった。上等だ。師匠だろうが関係ないぶっ飛ばす。
そう鼓舞するように自身に言い聞かせ、どうせ駆け引きなど無駄だと開き直り、勢いまかせに深海さんに斬りかかった。