えげん4
おおかみ様を斬り捨て、結界を張りながら走り続ける。
先輩二人に体力で負けているのは格好悪いからと密かに特訓していたおかげか、以前ならとっくの昔に音を上げていたであろう距離を走り、結界刀を振り続けた。
俺の武器が短木刀を媒介にした霊力でできた刀だったのも幸いした。
これが本物の刀だったなら、その重量に負けて今頃は腕をあげることすらできないほど疲労していたかもしれない。
そうしてどれほど走り続けたのか。
最早自分がどこを走っているのかすら分からなくなった頃に、俺はそこへ辿り着いた。
「……空?」
突然狭い通路が途切れたかと思えば、そこには広大な空間が広がっていた。
以前一度だけ行ったことのある球場よりも広いだろうか。その空間の四方は切り立った崖のような壁に囲われており、その遥か上方には切り取られた空と中天にさしかかった太陽が見えた。
マジで何処だここ。
市内にこんな大穴開いてる場所があるのか。
「……あ」
いつの間にかおおかみ様たちが居なくなっていたこともあり、少しの間懐かしむように空を見上げて、そして視線を下ろして気付いた。
空間の中央。そこにも巨大な穴が開いていて、その上を工事現場の足場のような鉄板が通されている。
その先。穴の中央の上に誰かいる。
太陽の光を受けて白く輝く衣装を纏った、黒髪の誰か。
「……斎藤さん?」
それがよく知る幽霊少女と重なって、思わず俺はその名を呼びながら歩みを進めていた。
しかし――。
「うわっ!?」
突然中央の穴から強い風が吹き出した。
いやそれは風ではなかった。穴から離れたここからでも分かるのは、幾多もの人々の念の奔流。
――痛い
――苦しい
――寒い
――助けて
――助けて!
――助けて!!
そんな苦痛に苛まれながら助けを求める人々の念が穴の中から噴き出し、そして蛇のようにのたうちながら中央に居る女性の周囲へと絡みついている。
先ほどまで見えていたはずの白い衣装は黒い瘴気に覆われ、もはやそこに人が居たことすら分からないほど厚く黒い壁となって此方と彼方を隔てている。
「どう見えますか? 見鬼である君にこの場所は」
「誰だ!?」
目の前の光景に目を奪われていたせいか、声をかけられるまで人が居ることに気付かなかった。
振り向いたそこに居たのは、黒髪を撫でつけたようにオールバックで固め、縁の薄い眼鏡をかけた少し不健康そうな男。
見た目はどこにでも居そうな、サラリーマンですと言われれば信じてしまいそうな平凡な容姿だ。
しかしその周囲。男に絡みつくように伸びるそれは……。
「アンタ……何百人殺せばそんなことになるんだ」
「おや? 霊の類は祓っているのですが。もしや君は人の念まで見えるのかな? なるほど強力な見鬼だ」
そう言って口元を隠すように指先で眼鏡を押し上げる男。
しかし一瞬見えたその口元は笑っていた。人殺しと言われたことを否定もせずに。
「おまえが犬笛か」
「いかにも。待っていましたよ望月時男くん。ああ、随分と長いこと待っていたんですよ私は。君という存在が現れるのを」
当たって欲しくなかった予想が肯定されてしまった。
しかも俺を待っていた? 長いこと?
「少しばかり困った状況になっていましてね。君は犬神をどう作るか知っていますか?」
「……犬を頭だけ出して埋めて、ぎりぎり届かない位置に餌を置いて飢えさせるんだろう」
犬神については諸説あるらしいが、有名どころではそういうものらしい。
そして仕上げに犬の首を斬り落として祀ることで犬神と成す。
何故その話を今する。
いや、橘はおおかみ様を蠱毒や犬神と同じものだと言っていた。
ならもしかして目の前のコレは。
「気付きましたか。いや察しが良い子は話が早くて助かります。つまりはこの穴の底に押し込められた人々の無念を犬に見立て、目の前に餌を置いてやったわけです」
「……悪趣味にも程がある」
つまりこいつは人を使って犬神と同じことをやったんだ。
しかも一人や二人ではなく、それこそ何百人もの死者……もしかすればまだ生きていた人間もこの穴の底に押し込めて、目の前に救いに見える光を置いた。
そうやって、人々の無念と渇望を増幅させていったんだ。
「この日本では年間八万人近く行方不明者が出るとされていますが、それは長期的に見ると少し大げさな表現なんです。その内の半分は当日中に発見されるし、八割は一週間以内に見つかる。それでも自分から失踪したがっている人間や、死にたがってる人間というのは結構な数いるんです。しかもそういう人間は大抵酷く追い詰められている」
材料には事欠かなかったとでも言いたいのだろうか。
というかこいつは何でそんなことを自慢げに俺に話しているのだろうか。
古典的な悪役を気取ってるわけでもあるまいに。
「しかし餌が問題でした。入念に結界を張ってもかすめ取られることが多い。その点彼女は優秀でした。いや優秀過ぎたというべきでしょうか」
「……斎藤一二三か」
「ええ。彼女は穢れの類に対して強い耐性を持っていました。しかも家族とは不仲で親しい友人もいないので浚っても大した騒ぎにならないと好都合だったんです」
ああ、それで目をつけられてしまったのか斎藤さんは。
そして餌としてあの場所に放り込まれ、今までずっとおおかみ様を抑えこんできた。
「そう。彼女は優秀過ぎた。餌としてかすめとられないのは良かったのですが、長い時をかけておおかみ様の呪いを抑え始めた上に、私の支配から逃れ始めたんですよ」
「つまり邪魔になったと」
「その通り。おおかみ様はもう完成間近です。しかし彼女という餌を殺してしまうとおおかみ様は不安定となるし、代わりとなる人間なんてそうは居ない。なら心を折ってやろうかと思ったのですが、彼女は自身への痛みには鈍い上に、親しい人間はいない。
さて困ったことになった。そこで私は幾つかの策を用意しました。どれも不確かで、成功すればいいな程度の大して期待もしてない戯れに近かったのですが……」
そう語る犬笛は爛々と獲物を見るような目を俺に向けている。
ちょっと待て。嫌な予感がする。根本から間違っていたのではと脳が警鐘を鳴らしている。
「そのうちの一つは、彼女に新たに親しい人間を作らせるというものでした。そのために私は彼女に縁がある場所へ彼女の分身を作り配置しました。何も知らない無垢な魂の欠片。しかし予想外のことが起きました。その分身の一つが自我を持ち始めたんです」
ああ。なるほど。
確かに彼女は最初は置物のように無反応だったという。
しかし次第に、俺が現れてからは顕著に外界へ反応を示し始めた。
「せいぜい彼女が興味を持つ人間を探す監視カメラ程度の役割のはずだったのですが、自我を持った欠片は一人の少年を気に入り好意を抱き始めました。もちろんそのことは彼女自身にも伝わっており、分身が抱いた感情は彼女にも共有されていきました」
斎藤さんの心を折ると犬笛は言った。
そのために俺を待っていて、そのために今こうして長々と説明をしている。
そう。この説明はご丁寧に俺に自分の悪事を教えるためのものじゃない。
最初から最後までこの男は――。
「そう。つまりは君がここに誘い出され、今私に殺されるのは、斎藤一二三が君に恋をしてしまったからなんですよ。望月時男くん」
斎藤さんの心を折るためだけに、笑いながら全ての罪を彼女に押し付けた。