えげん2
「ええ。そうですか。分かりました。引き続きこちらで待機しておりますので、どうかよろしくお願いします」
深山市郊外にあるとある企業の工場の程近くにて、連絡を終えた宮間椿月は一つため息をつくと携帯電話をしまう。
「まだ待機ですか姉様」
「ええ。すべて順調問題なしだそうです」
そんな椿月に話しかけるのは、妹である月紫だ。
だがその顔にはいかにも不満そうな表情が浮かんでおり、苛立ちすら見て取れる。
「本当にあの犬神もどきが関わっているのですか?」
「深海様の情報ですから。間違いはないでしょう」
「それならそれで早いところ出番とならないと、あの集団は目立ちますよ」
そう言って月紫が視線を向けた先には、狩衣やら袴装束やらの和装だったり黒いスーツ姿だったりと様々な服装の老若男女の集団。
相手が犬神もどきということもあり深退組の中でも腕利きばかりが集められているのだが、傍から見れば統一性のなさもありコスプレ集団にしか見えないことだろう。
かくいう月紫も、高加茂家の見習いとしてこの場にいるため、その姿は紅袴のいわゆる巫女のような出で立ちだ。
「何事もなく本丸を確保できるならその方がいいのですが。本当にそうなるなら既に必要なものだけ持って逃げたと考えるべきでしょうね」
「それなら深海さんが捉えますよね」
「ええ。でも本当に良かったの? お友達を連れて来なくて」
「……」
椿月の言葉に、月紫は少しだけ眉をひそめて沈黙で返した。
言わなくても分かっているだろうにと、姉の意地悪に無言で抗議するように。
「連れてくると言ったら賛成しましたか?」
「いいえ。大反対します。まだ子供には早いと。そういう意味では月紫ちゃんがこの場に居るのもお父様たちに文句を言いたいのだけれど」
「私が無理を言ったんです。大型のおおかみ様と直接対峙したのは私だけだと」
「望月くんもでしょう」
「……」
話が元の位置に戻ってきて、月紫も今度はあからさまに不機嫌そうな顔を椿月に向ける。
しかしそれでも微笑みしか向けない椿月に、ああやはり自分はまだ頼りないのかと苛立ちを覚える。
「望月は……」
月紫が抗弁しようとしている最中、辺りを支配する空気が変わった。
体にかかる重圧。誰かに監視されているような居心地の悪さ。そして腐った獣肉のような臭い。
始まった。そうこの場に居る誰もが悟った。
「来たわね。すぐにでも警察から応援要請が来るでしょうし、入口に向かうように他の人たちにも伝えてちょうだい」
「いいのですか実際に要請が来る前に動いて」
「そうしないとマズいもの」
そう焦ってもいない様子で言う椿月へと頷いて、月紫は伝言のため他の退魔師たちのもとへと走る。
その後ろ姿を見ながら、椿月は疲れたようにため息をついた。
「予定通り。とはいえ深海様は何を企んでいるのやら」
そして今回の作戦を立案したにもかかわらず、自身は何の説明もなく行方をくらませた深海のことを考え再びため息が漏れる。
だがこれも自分の役割だと気を引き締め、鳴り響く携帯電話を手に取り通話ボタンを押した。
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「……落ちるかと思った」
郊外にある工場。そこに侵入するにあたりお膳立ては全て深海さんが整えてくれており、指定された場所に行けば工場の敷地を区切る高い壁にあつらえたような長さの梯子がかかっていた。
その梯子で壁の上に登り、帰りに備えて壁の向こう側へと移動させようとしたのだが、それほど重量はなくてもとにかく長い梯子だ。
重心がうまく掴めずバランスを崩しそうになったところに、突然空気が変わり重圧がかかったので、うっかり梯子ごと転落しそうになった。
半ば放り投げるように梯子を立てかけあまりの音の大きさに焦ったが、誰かが駆け付けてくるような様子はない。
深海さんが言っていた通り、正面から警察官たちが殺到していてそれどころではないらしい。
この区域は表向きの従業員たちからすれば重要度の低い区画らしいので人が居ないが、少し奥へと行けば蜂の巣をつついたような大騒ぎになっていることだろう。
「しかしこの空気は……アレだよな」
もはや慣れてきた感じすらする獣臭さと、あらゆる穢れを煮詰めて混ぜたような腐臭。
間違いなくおおかみ様の中身になっているアレだ。
警察に嗅ぎつけられたというのに、証拠を隠滅して逃げる事より抗戦を選んだらしい。
あまり派手なことをすると天同会からも追放処分をくらいそうなものだが、そのあたりを考えずに自分本位な選択をするのがマッドな研究者らしい。
まあそのおかげで俺が侵入する意味が出てくるわけだが。
「……俺一人でやれるか?」
しかし今更な疑問と弱気な思いが湧いてくる。
だって相手は恐らく羅門並みに人間やめてるマッドだ。素人の俺一人が潜入して裏をかいたところで、うっかり鉢合わせしたら全て台無しになるんじゃないか。
そもそも何の訓練もしてない俺にスニーキングミッションの真似事をさせるのがそもそも無理があるだろう。
いや羅門のせいで俺か深海さんでなければその入口にすら立てないわけだが。
ベルトに挟んでいた唯一の武装――短木刀を手に取る。
思えばこの短木刀も、月紫部長は御守刀のようなものだと言っていたし、俺の主武装になるとは思っていなかったに違いない。
しかし霊力で刀を出せるようになり、さらには結界まで張れるようになった。
別に結界刀を出すだけなら手に馴染む棒なら何でも良かったのだが、俺はこの短木刀を使い続けた。
それは俺がこの短木刀を御守りのようなものだと思っているからだろう。
この短木刀でなければ、俺は十全に力を発揮することができない。
「……よし」
大丈夫。そう自分に言い聞かせ、建物の影から出て目的地を目指す。
この手に短木刀を握るだけで、先ほどまでより空気が軽く感じた。