いと3
約束というのは人間社会では重要なものだ。
お互いの合意の下で成立した時点で約束を守る義務が発生し、破ることは不義であるとされる。
これは何も心情的な事だけではなくて、例えば何気ない口約束にだって法的な効力は存在する。
それが一方的で不平等なものならともかく、平等に、お互いの自由意志で結ばれた契約は尊重されるべきものである。
そしてそれは人間以外が相手でも例外ではない。
むしろ彼らとの契約は法的な拘束力こそないものの、霊的な効力は法と同じく口約束程度でも発生する。
神様相手に対価が必要な約束をして、後に欲が出てそれを破り破滅するなんて話は古今東西にごろごろ存在する。
つまり絡新婦が言っていた「約束してくれた」というのが本当ならば、新田の立場は非常にまずい。
女と一緒になると約束し、やはり邪魔だから始末しましたなんて展開は、もう悪役一直線のそれだ。
例え絡新婦を殺してもきっちり祟ってくれることだろう。
そしてそういった祟りの類というのは、基本的に対処法なんてものは存在しない。怒りを沈めてくださいと祈るくらいだ。
そういう意味では絡新婦を逃がしてしまったのは、失態ではあるが最悪の展開ではないのだが……。
「知らない人と変な約束をしてはいけませんって親に教わらなかったのか」
「むしろ知らない人と約束するような状況になる前に逃げろと言われたかな」
仁王立ちして見下ろす俺と、布団に巻かれて転がされたまま首をかしげる新田。
起こすついでに布団ごとまくりあげて簀巻きにしたのだが、別に縄で縛ったとかいうわけでもなく布団で包んだだけだ。
それでも俺に尋問されている状況なのは察したのか、新田も大人しく転がったまま何やら考え込んでいる。
「いや本当に。その人…人じゃないけど、外見的には成人女性だったんだろう? 流石に年上のお姉さん相手にそんな稚拙な約束しないよ」
「何だその約束以外はしてそうな言い方」
「……記憶にございません」
どこの政治家だ。
だが記憶にないというのは本当なのだろう。
立場や経験的に俺よりもそういう方面の警戒心の高い新田が、迂闊にそんな約束をするとは思えない。
「実は蜘蛛の姿の方に会っていて約束した可能性は?」
「俺は蜘蛛相手に将来を誓い合うような変人に見えるのかい」
確かに。
まだ約束したのではなく助けられたとかなら、新田が知らずに助けた蜘蛛が実は絡新婦でしたというのもあり得るが、約束まではどう考えてもしないだろう。
「それにしても。そんなに騒いだのに俺はともかく家族に気付かれなかったのかい?」
「ああ。結界はられてたしな。向こうも余計な騒ぎ起こしたくなかったんだろ」
俺が結界を斬って突入した後もわざわざはり直していた。
その辺りからも、絡新婦は堂々と新田を奪うような真似はするつもりがない可能性が高い。
だからこそ約束というのが微妙というか、強制力がそれほど強く発生してないように見えるのが気になるが。
「その結界って今もはられてる?」
「ん? いや絡新婦がはってたのはもうない。一応戻って来ても対処できるように俺が別の結界をはりなおしてるけど」
「じゃあアレは入って来れないってことでいいのかな?」
「アレ?」
新田に言われて窓の方を見ると、何かもやもやと光るものが外を漂っていた。しかも一つ二つではなく見える範囲でも複数。
よくよく観察してみると、そのもやのようなものは火のようでもあり、中には小さな蜘蛛が収まっていた。
どう見ても絡新婦の使い魔的な何かじゃねえか。
「すいません部長。偉そうなことを言った手前情けないですが助けてください」
「任せろ!」
流石に事態が動き過ぎというか俺には対処できそうにないので、カッコ悪いが月紫部長に電話で助けを求める。
そして寝ててくださいと言ったのは俺の過信だったが、起きてたのかよこの人。というか何でそんなに嬉しそうな声なんだよ。
「蜘蛛が中に居るのなら蜘蛛火だな。くれぐれもそれに触れるな」
「触れるとどうなるんですか?」
「死ぬ」
「……はい?」
※蜘蛛火(くもび)
日本各地に伝わる怪火の一種。
複数の蜘蛛が集まり火を纏いながら飛び回る。
これに当たると死ぬとされる。
当たると即死ってレトロゲームの敵キャラかよ。
最近はアクションゲームもそれこそ残機制ではなくライフ制が主流だというのに何だその理不尽な敵は。
「まあもしかすれば絡新婦の僕で蜘蛛火ではないかもしれないし、君は霊的な耐性があるから即死はないだろうが念のため朝まで籠城しておけ。日が出ても飛び回るほど気合は入っていないだろう」
「気合の問題なんですか?」
怪異って気合が入ってると昼でも出てくるの?
うん普通に昼でも出てくるやつ居るな。気合のせいではないだろうが。
「はあ。そういうことだ新田。どうせ今日は休みだし、朝になってアレが居なくなったら月紫部長と合流する。悪いが部活は休め。早めに決着つけた方がいいだろう」
「分かった」
新田も素直に頷いたので、このまま朝まで休むことにする。
まあ俺は結界維持しなければいけないので寝れないわけだが。
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「状況だけ聞くと新田が悪いな」
「そうね。約束しちゃったのに知らんぷりなんて状況なら酷いわね」
夜が明けたばかりの早朝。
月紫部長や七海先輩と合流するために24時間営業のファミレスへと来ているのだが、最近ファミレスに来ること増えたな。便利だけど。
そして事情を説明したわけだが、新田に残念そうな視線を向ける女性二人。
一見理不尽にも見えるが、恐らく約束が本当っぽいのは二人も霊視して察しているのだろう。
言われれば気付く程度だが、新田から契約の糸みたいなの伸びてるし。
「いや本当に心当たりがないんですけど」
「蜘蛛相手に告白の予行演習でもしたか?」
「どんなチョイスですか」
そうつっこむが、告白の予行演習というのは案外あるかもしれない。
要は新田の方は冗談だったのに絡新婦側が本気にした。
だから契約が薄いし絡新婦もこそこそと立ちまわっているのではないだろうか。
「新田に心当たりがないというなら絡新婦に問いただすしかないか」
「また待ち構えるんですか?」
「いや、それだと分が悪い。望月。新田を霊視してみてくれ。君は見鬼もそうだが感受性が高いのかその方面の適性も高い。絡新婦の居場所を辿れるかもしれない」
「……やってみます」
月紫部長の言葉を受け、両手を合わせて意識を集中する。
目を閉じても見えるもの。新田に絡みつくように伸びた細い契約の糸を視る。
深く深く、広がるように意識を溶かしていく。
すると次第に体から感覚が薄れていき、意識が徐々に別の場所へと導かれていく。
「ここは……?」
そして見えたのは、木々に囲まれた小さな池だった。
それなりに管理はされているのか周囲の雑草が伸び放題とはなっていないが、池自体はゴミこそ浮かんでいないものの、枝や木の葉等様々なものが浮かび淀んでいるようにすら見える。
この池に何かあるのか。そう思いながら近づこうとしたのだが。
――会いたい。
不意に女性の声が聞こえてきた。
切なく、訴えるようなか細い声。
それは確かにあの絡新婦の声だった。
――ああ、会いたい。あの子に、愛しいあの子に会いたい。会って話をしたい。
その声に邪気はない。
ただひたすら、焦がれ求めるように切々と言葉が紡がれている。
「会わせてあげようか?」
突然絡新婦とは別の女の声がして驚きながら振り向けば、いつの間にか池のほとりに何かが居た。
何なのかは分からない。まるで黒い靄に覆われたように曖昧で、姿が判然としない。
何だこいつは。何故姿が見えるのに視えない。
もしかして霊視されることを見越して妨害でもしてるのか。
「フフッ」
「ッ!?」
そんな俺の考えを読んだように女の笑う声が聞こえて、思わず息を飲む。
いや偶然のはずだ。絡新婦の言葉からしてこれは過去の光景のはず。
俺が霊視していることに気付けるはずがない。
――会えるの?
「むしろ何故会わないのかしら。心配してる? 大丈夫よ。貴方の大好きなあの子はちゃんと受け入れてくれるから」
そう絡新婦を諭す女の声には悪意があった。
これから起きることが楽しみで仕方ないと、嗜虐的な笑みを浮かべているのが見えないのに分かった。
――ああ、会いたい。あの子に会いたい。
だというのに、絡新婦はその悪意に気付かず池から這いずり出てその巨体をさらす。
いやきっと絡新婦にも女の悪意は伝わっていたはずだ。
だがそれでも乗ってしまうほど、絡新婦は求めていた。
例えその先にあるのが破滅であろうと受け入れてしまうほどに。
「いい子ね。大丈夫。きっとうまくいくわ」
そんな絡新婦を見て、女は笑う。嗤う。嘲う。
獲物を糸にかけるはずの蜘蛛が救いという糸に縋るその様を。
――ああ。やっと会えた。間違いない。あの子だ。
そして場面は切り替わる。
蜘蛛の本性を隠し女の姿となった絡新婦が一人の少年を抱きしめている。
確認してみれば予想通りに新田だった。
しかしその顔に生気はなく、人形のように意志が感じられない。
何だ? 偽物などではない間違いなく新田であるはずなのに、違和感を覚える。
――ああ。もう離さない。離さないで。私から離れないで。私を手放さないで。
「うん。分かった。俺は君のものだよ」
絡新婦の懇願に応えるように新田は答える。答えてしまった。
だがやはりおかしい。新田の言葉に意志が感じられない。
そのせいで「約束」は完全に成立していない。
――ああ。ありがとう。もう離さない。貴方は私のモノ。
しかしそんなことに気付けない、気付かないふりをして、絡新婦は新田をさらに強く抱きしめる。
そんな二人を見ながら、黒い影が笑っていた。
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「――月! 望月!」
「……うわぁっ?」
目覚めは突然だった。
自分を呼ぶ声と体を揺さぶられる感覚がして目を開けると、そこはファミレスの中ではなかった。
青い空と、視界の殆どを占める月紫部長の顔。
予想外のそれに思わずのけぞり転びそうになる。
「気付いたか。まったく牛鬼の時と言い、君がその状態になる条件はなんなんだ」
「……また勝手に歩いてましたか俺?」
「ああ。入水自殺でもする気なのかと焦った」
「入水?」
そう言われて辺りを見渡すと、すぐそばには月紫部長以外にも七海先輩と新田が、そして少し離れた場所には池があった。
霊視で見えたあの池だ。そこへ向けて明らかに意識がないまま真っ直ぐ歩いていたのならそれは焦るだろう。
「何処ですかここ?」
「ファミレスからはそう離れていない。神社の裏手だ」
「あー。多分あの池が絡新婦の棲み処です」
「なるほど。ならば霊視自体は成功か」
そう言いながら池の方を警戒する月紫部長。七海先輩も新田を連れて池から離れていく。
今すぐに絡新婦と対峙するわけにはいかないだろう。
「自分で言っといてなんですけど、蜘蛛なのに池にいるものなんですか?」
「ん? ああ。絡新婦の伝承の中には沼から糸が出て来て引きずり込まれたという話もある。そういうわけだからあまり近付くな。引きずり込まれたらかなわん」
蜘蛛なのに水の中に引きずり込むのか。
いや俺が知らないだけで水辺にいる蜘蛛もいるのか?
「新田が約束したのが見えたんですけど、どうも変でした。意識がないのに言わされてるというか、操られているみたいな。それに絡新婦をそそのかしている女のようなものも居ました」
「何?」
月紫部長の顔が険しくなる。
俺が見た情報から考えると、絡新婦をけしかけた黒幕が居て、新田が約束をしてしまったのもそいつが何かしたせいだとしか思えない。
何が目的かは分からないが、ただ絡新婦を倒すなり説得するだけで終わる話ではなくなってしまった。
「ひとまず撤退だ。深退組に報告する。牛鬼の時のように私たちの手には負えない可能性が出てきた」
「……はい」
まだ俺が勝手に歩き出すのを警戒してか、手を握る月紫部長につられて歩き出す。
「……」
歩きながら池の方へと振り返る。
そこには何も居ない。何も見えない。
だが夜が明けて明るくなったはずの空が、そこだけ暗く濁っているように見えた。