深山と深海2
宮間椿月(みやまつばき)。
そう名乗った女性は穏やかな眼差しが印象的な二十歳そこそこの見た目だった。
こんな若い人が深退組の長だということに驚くと同時に、どこか納得してしまう雰囲気がある。
人の上に立つ人間の風格というか、争いなど知らないようなたおやかな空気を纏いながらも、言葉をかけられると素直に従ってしまうような力強さがあるのだ。
それに誰かに似ているような……。
そのせいか俺は何度も断ったにもかかわらず、いつの間にか風呂に入っていた。
「何故だ」
檜風呂というやつなのか、木製の風呂桶の中になみなみとはられたお湯につかったところで我に返る。
何か色々考えたけど、要するに見た目の割に押しが強いぞあの人。
濡れ鼠状態で人様の家の中を歩き回るわけにもいかないが、現在地を教えてもらえればさっさとお暇するわけで。
「いや、帰れないし」
そもそもこんな場所にいきなり飛ばされたのは、羅門に亀太郎たちの化かしが通用しなくなったからだった。
今から帰っても羅門は家で待ち構えているだろう。
それにもし傘差し狸が意図的に俺をここに飛ばしたのなら、サトリである羅門にはもう居場所がバレているということになる。
「やべえ!?」
そう考えたらのんびり風呂につかってる場合じゃなかった。
ようやく回り始めた頭でそんなことに気付くと、慌てて風呂から出て身支度を整えた。
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「あら。お湯が熱すぎたかしら?」
「いえそうではなく」
風呂から出てあらかじめ言われていた部屋に入ると、座布団に座りお茶を飲んでいた宮間さんが首を傾げながら言う。
というか何もせずに待ってたんかい。
早めに出て正解だった。
「よかった。でも服のサイズは少し大きいみたいですね」
「あーはい。ちょっと」
確かに用意されていたシャツとズボンは少し大きくて裾をまくっているが、お借りしたものに文句をいうわけはないし俺が言いたいのはそこじゃない。
「そう焦らずとも、羅門なら深海様が抑えていますよ」
「……え?」
あっさりと告げられた言葉が飲み込めず一瞬呆けてしまう。
いや待て。この落ち着きっぷりと俺が来たことに少し驚いただけで風呂をすすめる余裕。
もしかして深海さんから連絡がきていたのか。
俺がそう聞くと、宮間さんはあっさりと肯定する。
「ええ。貴方をここに飛ばしたのも深海様が指示したそうです。対処が遅れて申し訳ないともおっしゃっていました」
「そんな……」
深海さんが謝るようなことじゃない。
むしろ俺は助けられてばかりで何もできてはいない。
「貴方が気にすることではありませんよ。深海様自身も羅門とは因縁がありますから、意図せずとも釣り餌のような立場に貴方を置いてしまうことに思うところがあるのでしょう」
「因縁?」
確かに深海さんは羅門と面識があるようだった。
最初の邂逅のときなど、深海さんは本気で羅門を殺すつもりだとしか思えなかった。
人一人を殺せる決意をさせてしまうほどの因縁とは、何をやらかしたのだろうか羅門は。
「まあとりあえず座ってください。そもそも貴方は深海さんのことをどの程度知っていますか?」
「……本人からは何も。サトリの力で色々やってる一族だとは聞きましたけど」
そういえば深海さん本人から聞いた個人情報と言えば既婚者であり深海は旧姓だというくらいで、他はほとんど月紫部長から聞いたことだと思い至る。
まあその辺りも読んで説明する必要がないと判断して省いたのかもしれないが。
「確かに深海家はサトリとして様々な活動を行っていました。しかしサトリ故に都合よく利用されながら疎まれることに嫌気がさしたのでしょうね。江戸の末。明治維新と呼ばれる動乱の時に紛れて姿を眩ませたそうです」
「あー……」
それは仕方ないというか。そりゃ散々利用された上に冷遇されたのでは嫌にもなるだろう。
しかしならば何故深海さんはこの街にいるのだろうか。
「彼らがこの地に戻ってきたのはそれから数十年の時が経ってから。二度の大戦が終わり再び日本が混迷の渦に中にある時のことです。しかしその時には彼らはサトリとしての力を失っていました」
「え?」
サトリの力を失っていた。なら今の深海さんの力は一体。
まさか羅門のように後付けではないだろう。
「どうやら何らかの儀式や術を用いてサトリとしての力を封じたようです。しかし深海様はお父様が早くに亡くなられたためにそのことを知らなかったそうです。己の血筋も、封じられた力も知らずに過ごし、そして五年前に羅門たちが起こした事件に巻き込まれました」
「……」
牛鬼を刀一本でボコるあの深海さんが五年前まで一般人だったというのは信じがたいが、わざわざ嘘をつく必要もないし事実なのだろう。
しかしだとすると深海さんは五年前、まだ一般人に毛が生えたような状態の頃に羅門と因縁ができ、しかも警戒されるほどの存在になっていたということになる。
「事件に巻き込まれサトリとして目覚めた深海様の成長は異様とすら言えるほどでした。サトリ故に相手の行動を読めるというだけでは説明がつかないほどに」
「では何故」
「望月さん。貴方は大切な人のために怪物になる覚悟はありますか?」
「……え?」
突然の質問の意味が分からず間の抜けた声が漏れた。
怪物になる? それはどういう意味でだ。
「深海様には当時親しい少女が居ました。いずれは恋人になっていたであろうほどに、傍から見ても思いあっていることが分かるほど親しい少女が」
「まさか……」
過去形で語られる存在。
このタイミングで話に出すなら無関係なはずがない。
そしてその終わりが幸福なものであるはずも。
「彼女は殺され……いえ、深海様が自らの手で殺めました。羅門らの手により異形と化した生を終わらせるために」
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「逃がした……か」
夜の帳に包まれた街の片隅。
人避けの結界がはられ静まりかえった路地裏で、深海は一人ごちた。
羅門の姿はない。
ビルの壁を背に追い詰めたと思った刹那、勘尺玉のようなものを取り出し閃光と共に消え失せた。
あのタイミングで体術でも術でもなく道具を頼るあたり、古いタイプの退魔師にありがちなプライドなどない上に生き汚いのは相変わらずということだろう。
だが五年前ならそんなものを使われる隙すら与えなかったはずだ。
「鈍ったか」
五年前とは違いサトリの力が効かない。しかしこの五年で深海はさらに強くなった。
既に退魔師としては頭打ちに近い羅門との実力差は逆転している。にもかかわらず逃したというのなら、それは意志の問題だろう。
力も技術も上がっている。だが我武者羅に刀を振るっていたあの頃より殺意が薄れている。
まだ大丈夫だという甘さが剣を鈍らせている。
「気張れよ。守るためなら鬼にもなると誓っただろう」
そう自分へ言い聞かせるように呟くと、深海は刀を鞘へと納め誰も居なくなった路地裏を後にした。
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いきなりだった。
突然ガシャンとガラス戸が割れるくらいの勢いで開いた音が響くと、続いて廊下をドドドドドと駆け抜ける音が近づいてくる。
すわ敵襲かと腰を浮かしかけるが、宮間さんが「大丈夫ですよ」というので座り直す。
「望月は大丈夫か!?」
「あ、はい」
そしてスパーンと襖を開けて現れたのは、ジーンズに白シャツというシンプルな服装の月紫部長だった。
月紫部長ってそんなラフな恰好もするんだなと呑気に思っていたら、こっちにグリンと顔を向け一気に近寄ってくる。
「何故私に相談しなかった!? そんなに私は頼りないか!? 君は自分を頼れと言っておきながら私は頼らないのか!?」
そしてそのまま俺の肩を掴み激しくシェイキングしてくる。
そういえば深海さんもそりゃ月紫部長もショック受けると言っていたなあ。
なるほど。頼られなかったのが気に入らなかったのか。
そう現実逃避気味に考えていたが、いつになったら月紫部長はそんなに揺さぶられたら話そうにも話せねえよということに気付いてくれるだろうか。
「落ち着きなさい月紫ちゃん」
「姉様! 望月を保護してくださりありがとうございます」
「いいのよ。深海様のお願いだったし」
見かねた宮間さんが止めてくれたが、それに対する月紫部長の反応がおかしいので「はて?」と首を傾げる。
姉様とは。
どちらも古い家系の退魔師のようだし姉妹のように仲の良い幼馴染なのだろうか。
「正真正銘血の繋がった私の姉だ」
「……ご結婚なさったんですか?」
「独身です」
「あ、はい。すいません」
思わず聞いてしまったが地雷だったらしく、今までより一オクターブ低い声で反応が来て反射的に謝る。
じゃあどういうことだよ。
深海さんのことは少し分かったが新たな謎が生まれた。