大切なものは目に見えない4
白猫を抱き上げ北校舎へと入った瞬間、空気の悪さに眩暈がした。
鼻の奥に痛みを感じるほど強く不快な臭いを感じ、思わず白猫を抱え直し片手で口元を覆う。
だが当然その程度で臭いが消えるはずもなく、それどころか息を止めても空気の流れを無視するようにそれは鼻孔の奥へと侵入してくる。
「これは……」
「獣……それに腐肉の臭いだな。これはもしかすると本当に狐狗狸でも引き当てたか」
そういってすんすんと鼻をならす月紫部長。
臭くないんですか。というか腐肉の臭いとか何で知ってるんですか。
もしかして俺が軟弱なだけかと思ったが、見れば七海先輩も「鼻が曲がっちゃうー」と漏らしながら指先でつまんで涙目になっている。
妖怪大好きでも悪霊の類はやはり別物らしい。
「動物霊の類ということですか?」
「ああ。それもかなりタチが悪い。まともに死んだものではないな。恨み辛みか。説得が通じるタイプではなさそうだ」
そんな不穏なことを言いながらズカズカと歩いていく月紫部長。
この人に恐いものとかないのだろうか。
「あら? あの子たちトキオくんのクラスメイトじゃない?」
「認めたくないけどそうですね」
七海先輩の言う先には、数人の女子生徒に縋られてなだめようとしている新田に、教室のドアを開けようと奮闘している中島。
それに呆然とした様子で座り込んでいる何人かの女子と、おろおろしながらもその女子たちの様子を見ている中里が居た。
覚悟はしていたけど、どう見ても問題は俺のクラスで起きてますね。はい。
「あ、もっちー!」
「え? あ、望月。生徒会長も」
こちらに気付いた中里が安堵した様子で俺の名前を呼び、それにつられて気付いた新田が同じく安心したように息をつく。
というか新田よく月紫部長の存在に気付いたな。俺はあの学帽とマントがないと認識するのに数秒かかったぞ。
そんなことを後に新田に話したら「もっと人の顔ちゃんと覚えよう」と呆れと憐れみを程よくブレンドしたような顔で言われた。
解せぬ。
「とりあえず何があった新田」
とりあえず一番冷静そうな新田に話をきくが、女子生徒たちの様子が異常だ。
新田に縋りついている二人はとめどなく涙を流し「あ……ああ……」と時折言葉にならない声を出すだけでとても正気には見えない。座り込んでいる三人は目も口もだらしなく開きっぱなしで、様々な液体が垂れ流しでとても世間にはお見せできない状態だ。
「俺もよく分からないんだよ。いきなり彼女たちが取り乱した様子で俺のところに来て、ただ事じゃないと中島と一緒に練習を抜けてきたんだけど見ての通りさ」
「中島の不思議な踊りが?」
「違うよ!? 俺頑張ってるよ!?」
そう言いながらも扉にもたれかかったり、斜めになって取っ手にぶら下がるように態勢を変える中島。
扉を開けようとしているのは分かってる。場を和ませるためのちょっとしたジョークだ。
「笑えねえ!? というか前から思ってたけど望月俺にあたりキツくねえ!?」
「大丈夫だよ。もっちーがキツイのは気を許してる証拠だから」
「待てやコラ」
叫ぶ中島にフォローを入れる中里。勝手に俺をツンデレみたいに扱うな。
もしかして俺のちょっと自覚してる態度の悪さにめげずに友達宣言していたのは、ツンデレだと微笑ましく認識していたからなのか。
「望月のツンデレは置いておいて」
「待てやコラ」
「教室を覆うように結界がはられているな。しかし術などという高等なものでもない。……拒絶かこれは?」
そう言いながら教室の扉を見やる月紫部長。
確かに遮るような力は感じるが妙に強引というか。
「……あれ?」
そう思いながら扉を見つめていると、不意に頭の後ろから光が広がるように視界が白く染まり、そして見えないはずのそれを見つめていた。
一人の少女が何かを慈しむように抱いている。
白くふわふわしたその何かも少女の愛情に応えるように体をすりよせている。
だけどその視界は波打つ水面のように不確かで、少女の顔も、抱きかかえている何かもあやふやだ。
ただその場に漂う幸せそうな空気は、確かに本物だと感じる暖かさがあった。
「……え?」
しかしその空気が一瞬で変わった。
相変わらず少女は何かを慈しむように撫でている。
だが撫でられているそれは先ほどまでの白くふわふわしたものではなく、灰と茶が混じったような黒に近い色合いで、周囲には鼻をつく異臭が漂っている。
「……」
黒い何かがこちらに気付いた。
少女に抱きかかえられていたはずのそれは、いつのまにか少女を逆に抱え込むほど大きくなっていて、無言で俺を見ているのが分かった。
「……」
その何かの顔は見えない。
だがこちらを確かに睨みつけるような、敵意を感じた。
そしてただそれだけで、俺は蛇に見込まれた蛙のように身動きが取れなくなっていることを自覚する。
ヤバい。これは。
俺の手におえる相手じゃない。
――戻って!
「え?」
食われる。そう思った瞬間聞こえた少女の声に俺の意識は引き戻された。
「うーん。部長ならなんとかならないかしら?」
「できればやりたくはないな。こういったものを力任せに破るのはリスクが高い」
気が付けば視界は元に戻り、いつの間にか扉の前では中島ではなく月紫部長と七海先輩が何やら話し合っていた。
今のは霊視か? いや最初の方はともかく途中から変質したあの黒い影の悪意は、むしろ俺が中の何かに引きずり込まれたのか?
なのに戻ってこれたのは……。
「……」
周囲を見渡すが目的の人の姿は見えない。
あの声は新田と国見さんの件で夢を介して無意識に霊視をしてしまったときと同じ、恐らくは斎藤さんの声だった。
また助けられたのだろうか。
「にゃー」
「ん?」
鳴き声につられて視線を向ければ、手の中の白猫が何かを訴えるように俺を見上げていた。
何だろう。そんな俺の疑問に応えるように、何かを促すように、顔を教室の扉へと向ける。
「……ちょっといいですか」
「どうした? 何か打開策でも……」
もしやと思い扉に手をかけて少し力をかけると、がらりと音を立ててあっさりと僅かな隙間ができた。
同時に、その隙間から今までよりさらに強い不快な空気と臭いが漏れ出してくる。
「……どういうことだ?」
「よく分かりませんけど、多分鍵はこの猫です」
「にゃーん」
俺がそういうと、手の中の白猫がどこか得意げな様子で鳴いた。
それを見て月紫部長も何かを感じたのか、納得したように頷くと教室の扉へと向き直る。
「私が先に入る。日向は廊下に残って万が一に備えてくれ。望月。無茶をする覚悟をしておけ」
「分かったわ」
「……了解です」
七海先輩の後に少し間を置いて答える。
確信は持てないが、中で何が待っているのかは大体予想ができた。
だが解せない。
何故おまえはこの子が居たのに、そんなモノに魅入られてしまった。
なあ、黛。
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教室の中は異様な空気に包まれていた。
不快な臭いが充満し、空気は濁って見えるほどに淀んでいる。
机や椅子が何か大きなものになぎ倒されたように散乱し、教科書やノートがまき散らされ人の手首から先が転がっている。
「……ってハンドさん!?」
「見かけないと思ったら返り討ちにあっていたか」
十体以上も転がっているハンドさんたちに俺が驚いて声をあげれば、月紫部長が納得したように言う。
なんでそんなに落ち着いているのかと文句を言いそうになったが、その前に倒れていたハンドさんの内の一人が起き上がると何やら指を立て「へっ遅かったな。力のない一般市民を華麗に助ける一番おいしい役所は俺たちが貰っちゃったぜ。だがちょっとドジふんじまってな。これ以上は無理そうだ。後は任せたぜ☆」的なジェスチャーをするとパタリと倒れた。
うん大丈夫そうだな。
「それよりも奥を見ろ望月」
「できればあまり見たくないんですが」
教室の奥。
丁度俺たちが入ってきた扉からは対角線上の位置にそいつはいた。
力なく、足を投げ出すようにして座っている女子生徒。
この短期間でやつれてはいるが、やはりというか黛だった。
そしてその黛を覆うように存在している黒い影。穢れの発生源はそれだった。
「……犬?」
大きい。教室の天井に届くほど巨大な黒い犬がそこに居た。
だがその体に頭は付いておらず、首の断面からは黒い何かが血のように滴り落ちている。
霊視したときも感じたがこいつはヤバい。
悪霊とかそんな生易しいものじゃない。もっと危険な、悪意を煮詰めたような怨念を感じる。
「存在としては犬神に近いのか。あの黒いものは呪詛の塊だな。来歴は分からんがアレは人に災厄しかもたらさない、良くないものだ」
※犬神
狐憑きと並び有名な主に西日本で見られる動物憑き。
犬神憑きの家は栄えるとされているが、同時に忌諱されることが多く犬神自体が家に災いをもたらすこともある。
その由来には諸説あり、作り方も様々な方法が伝わっているが、共通して何らかの方法で選別した犬の首を切るという行為が見られる。
「ということはアレ呪いですか」
「ああ。すぐにどうこうなることはないとは思うが、なるべく触れないように……来るぞ望月!」
どうやらこちらの話が終わるのを待つ気はないようで、突然こちらへと敵意が向いたかと思えばその呪詛の塊が鞭のようにしなりながらこちらへと伸びてくる。
「オン・アニチ・マリシエイ・ソワカ!」
だがそれがこちらへと届く前に、月紫部長が真言を唱えると淡い光を放つ結界がはられ、呪詛は行き場を無くしたかのように結界に触れることができず逸れていく。
「望月! 早九字!」
「ッ、はい!」
いつもとは違う鋭い声で言われ、考える間もなく体は動き白猫を地面へと降ろし、片膝をついたまま右手で人差し指と中指を伸ばした刀印を作る。
早九字護身法。
一番最初に月紫部長から教えられた術だが、身の危険を感じた時以外は絶対に使うなと念を押された術でもある。
それを使えということは、本当に今この状況は危険だということだ。
「――臨・兵・闘・者」
だからこそ躊躇わない。
右手の手刀で縦横に格子を描きながら、教えられたとおりに呪を唱えていく。
「――皆・陣・烈・在・前!」
そして最後まで唱え終わった瞬間、流石月紫部長が念を押すだけはあったのか、結界に何度もはりついて来ていた呪詛がさらに強い力に押されたように後退っていく。
「――臨・兵・闘・者・皆・陣・烈・在・前」
そして次は月紫部長が九字を、俺が行った格子を描くものではなく、一字ごとに手印を組みながら唱えていく。
「――ノウマク・サマンダ・バザラダン」
そしてそれだけでは終わらず、九字護身法が完成した後に月紫部長はさらに真言を唱える。
その間にも変わっていく手印が何を示すのか未だ知識の足りない俺には分からないが、今行われている術自体は一度教えられたことがある。
そう。九字と同じく乱用するなと言っていたそれは。
「――オン・ビシビシ・カラシバリ・ソワカ!」
最後に縛りの真言によって完成したそれは不動金縛り。
不動明王の力により犬の体が硬直し、呪詛の鞭も痙攣したように動かなくなる。
「今だ望月!」
「はい!」
そしてその隙に、俺は白猫を拾い上げ真っすぐに犬の――黛の下へと走る。
何をやるべきか。相談するまでもなく俺も月紫部長も察していた。
だから月紫部長はこの黒い犬を調伏するのではなく、まず守りを固め動きを縛った。
「――黛!」
目の焦点が合わず、ただ茫然としたように座り込む黛へと白猫を送り届ける。
不動金縛りでも縛り切れなかったのか、徐々に呪詛が動き始め俺目がけて落ちてくる。
届け。そう願いながら白猫を抱えた右手を黛へと伸ばす。
「にゃん」
すると白猫は「後は任せなさい」とばかりに一声鳴くと、俺の手のひらを蹴って黛の下へと跳躍する。
そして白猫が黛の胸元へと飛び込んだ瞬間、辺りは眩い光に包まれた。
・
・
・
――友達だった。
勝手な都合で勝手なことを言う連中にはうんざり。
いかにもこちらを気遣っていますみたいな顔をして、その実心配しているのは自分の評価だけ。
ああ、くだらない。
でもくだらないと思いながらそれを口にせず、曖昧に笑って付き合う私だってきっとくだらない人間だ。
でもこの子は違う。
打算なんてない。
話すことはできないけれど、心にもないことを言う奴らに比べれば些細なこと。
それに言葉を交わすことができなくても、この子が私を慕ってくれていることは十分伝わっていた。
なのに何故……私はこの子を弔うことすら許されないの?
――そこまでする必要はないだろう。畜生相手に人みたいな。
そう誰かが口にした。
この子が畜生ならあなたは何?
いつもいつも頭ごなしに命令するばかりで私の話なんて聞きやしない。
仕事仕事とばかり口にして、滅多に顔を見せないあなたが示してくれた数少ない愛情の証があの子だと思っていたのに、それは私の勘違いだったの?
ああ、くだらない。
一人で勘違いして踊って馬鹿みたい。
そう全部勘違いだったんだ。
もしもこの子が畜生だというのなら。
奴らみんな畜生以下じゃない。
だったらいらない。
そんなものはいらない。
けれど。
――そんなことないよ。
そう、誰かが言ったのが聞こえた。
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「結局は家庭の問題ということか」
「ざっくりと言えば」
騒動は一応収まり保健室にて。
霊視で見えたものを説明すると、月紫部長はいつものような余裕のない、神妙な様子で頷いた。
白猫を黛の下へと届けた後、黒い首なし犬は黛とのリンクが切れたのか、風船から空気が漏れるように急激に力を失い姿を消した。
月紫部長によれば、あの白猫が黛の守護となる形であの犬を強引に追い出してしまったらしい。
この前生首のおっさんをけたぐり倒していたのといい、やはりあの白猫相当強い霊なのだろうか。
もっともあれほどあっさりと引き剥がせたということは、やはりアレは犬神に近い何かであって犬神そのものではなかったのだろう。
犬神は一度憑けばその憑いた人間の一族に一生ついて回る。それくらい強力なものらしい。
だからこそ一昔前までは結婚相手が犬神憑きの血筋ではないかと大真面目に調べたりしていたとか。
もしかすれば今でもどこかの地方ではやっているのかもしれないが。
「父親との不仲。そして彼女にとって唯一心許せる存在を失うと同時に否定された。だが同時に父親をそれでも慕う心があり矛盾に苛まれた結果の暴走といったところか」
「妙に幽霊を否定していたのは自分のペットの死後を否定されたからですかね。そこで父親と同じく否定に走るというのが本当に拗れてる感じですが」
「私の方で知り合いの霊園にでも頼んで改めて供養してもらうか。遺体が残っているのかは分からんが、まあ些細な事だろう」
「そんな適当でいいんですか?」
「ああ。望月。私たちみたいに死者が見えるものは一握りの異常者だけだ。なのに何故死者を弔う儀式が世界中にあると思う?」
「それは……見えないからこそ恐れたとか?」
「それもあるだろう。だが半分は、死者の弔いは遺された人間のためのものだからだ」
「遺された……」
思わずカーテンの向こうのベッドで眠る黛へと視線を向ける。
彼女は納得できなかったからあんなモノに憑かれてしまったのだろうか。
「不思議な話だがな。余程酷い死に様でもない限り死んだ本人は自分が死んだことにすんなりと納得するというか、案外あっさりと受け入れてしまうものなんだ。そうでなければこの世は未練のある死者で溢れかえってしまう。逆に中々納得できないのは遺された側だ。永遠の別離に人はそう簡単に耐えられない」
「永遠の別離……」
それは確かに亡くなった人と親しければ親しいほど苦しいものだろう。
俺は両親も祖父母も健在で、そんな経験はしたことがないので想像することしかできないが。
「だから人は死者を弔うのだろう。故人を悼み、そして遺された者は己の心に折り合いをつけるために。ぶっちゃけるとちゃんと成仏したかなんぞ確かめようがないからな」
「ぶっちゃけすぎです」
仮にも退魔師が言うことじゃねえ。
「要するにどんな形であれ本人が納得することが重要だってことですか」
「ああ。とはいえ実の父親にペットの慰霊を断られただけであそこまで拗れたのだ。この件自体が終わっても根っこの問題は深い上に我々には迂闊に手を出せないし、出していい問題でもない」
「ですよね」
父親を嫌悪しながら父親の言葉に縛られている。
かなり屈折したファザーコンプレックスと言ったところだろうか。
「まあ同じクラスなのだから君も様子を見てやってくれ。幸い他の女子生徒たちは何があったかよく覚えていないようだが、しばらくは微妙な空気になるだろうしな」
「分かりました」
そう返事はしてみたものの、俺にそんな空気をどうこうするコミュニケーション能力はないし、それこそぶっちゃけ俺と黛の相性はあまりよくないと思うのだが。
そうだ。中里をぶつけてみよう。あの能天気を見ていれば黛も悩んでいるのが馬鹿らしくなるに違いない。
そう思い黛の様子を見るのを中里に押し付けた俺だったが、結果的に絡んでくる人間がセットになって一人増えただけだった。
解せぬ。




