「さようなら」
困ったことになったっす……。
宝守は構えたモップをピクリとも動かさないで考える。
彼女はこの状況を理解しているというわけではなかった。ただ、精神感応系の能力者であるドアマンから「心の読めない人間がいる」との通達を受けてマンション中を調べていたら――
調べていたら、愛生の旦那がぼっこぼっこのフルボッコっす。
宝守は知らない。何故愛生が倒されているのか。何故、それをリナリアが抵抗もせずに黙って見ているのか。宝守はこの状況を理解しない。だが、
この男が敵だということはわかったっす……。
「男。名を名乗れっす」
「……六道だ。名乗らせたからには、お前も名乗るのだろうな」
この展開は!? と宝守は密かに興奮する心を抑えつけながら言った。
「ふっふっふ! よくぞ聞けっす!」
そして取ったポーズは最近お気に入りの戦隊もののリーダーの変身ポーズだ。
「ある時は純情可憐な女子中学生! またある時はマンションのキュートなメイドさん! またある時は悪を滅する正義のメイド! 深雪宝守とはあっしのことっす!!」
恐れ入ったか、とでも言いそうな顔で最後の決めポーズまでしっかり決めて宝守は六道に視線を送る。六道は何がなんだかわかっていないのか、ポカンとした顔をしていた。
ふっ、やはりあっしの高等な芸は一般人には理解しきれないっすね。
いつもなら無表情のまま、しかししっかり拍手だけは送ってくれる小さな友人がいるのだが、その友人はなんだか今はシリアスモードのようだった。
「メイドが被っていることに関しては少しツッコミたいところだが……生憎と俺には時間がないのだ。出来ればこのまま黙って俺がリナリアと立ち去るのを見ていろ」
「そうは問屋がシャットダウンっす! あんたは敵っす! 今この場であっしに倒されてもらうっすよ!」
「何故俺を敵と判断する」
宝守は一度だけ倒れたまま動かない愛生へと視線を送り、その問いにたった一言で返す。
「旦那を傷つけた」
そう。それだけだ。それだけで深雪宝守にとってこの男は敵になりうる。
自分は馬鹿だという自覚が宝守にはある。自分が馬鹿だと知っている馬鹿は馬鹿ではないとどこかで聞いたことはあるが、馬鹿は馬鹿なのだからやっぱり自分は馬鹿だと思う。だから難しい事はわからないし考えない。
それはたった一つのシンプルな理由。
「あんたはあっしを怒らせた」
黙ってこちらを睨みつけたまま何も言わない六道を見て宝守はこいつ元ネタ知らないっすね、とぼやきつつ、一度武器のように向けていたモップを降ろした。
そのことに六道は怪訝な表情を見せる。
「どうした。今更戦意をなくしたのか」
「一つ聞きたいっす。入口のドアマン、あの人は受信型のテレパスで人の心が読めるっす。でも、あんたの心は読めなかったと言っていた。これはどういうことっすか?」
「それが俺の超能力だからだ」
五つ。と六道は小さく口にした。
「《干渉阻止》。全ての超能力による内部干渉を阻止するアンチスキル能力だ」
「アンチスキル能力!? なんかカッコいいっすね!」
「……」
白い目で見られたが気にしない。いつものことだ。
六道の方も気にしないことにしたのか、何気ない顔で続ける。
「最も、俺のフェーズの限界というものがある。完全に阻止できるのは受信型テレパスのような俺から情報を抜き取る類いのものだけ。送信型の場合はよくて半減しかできない」
「……それでも十分な能力だと思うっすけど」
単純に言って、全ての精神感応系の能力の半分は完全に無効化できるのだ。十分強力な超能力だと言えるだろう。
でも、それだけだ。
「へん! そんなゴタイソーな能力であっしを倒せると思わないことっすね!」
モップで六道を指して宣言する。
「あんたはあっしには勝てない」
そう、宝守には負けない自信がある。例え男が何者であろうとも、自分は負けない。
《世界最強》我王帝は言った。このマンションは絶対に安全だと。その理由は徹底した最新のセキリュティの存在もそうだが、しかしそれは理由の半分にすぎない。
もう半分の理由は深雪宝守の存在なのだ。
「奪い取れ! 《管理者権限》!」
告げられたのは詠唱。己の心に語りかける言葉。それと同時に部屋のテレビとソファが独りでに浮かび上がったのだ。
これには六道の張り付けられたかのような冷徹な表情も驚きを隠せなかった。天井近くにまで浮かんだそれらを見上げて小さく声をあげる。
「なんだ……これは?」
「あっしの能力っすよ!」
その言葉の後、テレビとソファはまるで意思を持ったかのごとく六道へ向かって降下する。単純な大きさと硬度のせいか、二つのそれらはまるで飛来する鈍器のようだ。
一瞬早く襲い掛かったのはテレビの方だ。六道は後ろに数歩下がることで飛来する65インチの鈍器を避ける。床にぶつかったそれは大きな音を立てて液晶の画面ごと大破した。続く黒のソファは横への移動で回避される。黒の鈍器はテレビと違って壊れることもなく、まるで六道を追撃するかのように床を転がり六道へと迫る。
「さっすが帝さんのソファ! 無駄に頑丈っす!」
このままソファで押しつぶしてしまおうと、そう思った時だ。
「くだらん。この程度か」
床を転がるソファが突然制止したのだ。衝撃が床を伝って宝守の足に響いた。止められたのだ。六道の手によって。
見ると、ソファを受け止めている六道の腕が鈍い銀色に光っている。ズボンの裾からはまるで杭のように自分を固定する金属が床に刺さっていた。しかし次の瞬間には裾から覗く金属は見えなくなっていた。六道はその場で軽く跳躍し、完全に動きを止めたソファの上に立つ。そして吟味するような眼で宝守を見た。
「サイコキネシス。お前の能力、念動力の類いか」
「そんなちゃちなもんと一緒にしないでほしいっす!」
宝守は堂々とした様子で自分の能力について語った。
「あっしの能力は特定範囲内における全権利の強奪っす」
「権利、だと?」
「っす。物の所有権も、それを動かす権利すらも全てはあっしが奪わせてもらったっす。まさに管理者権限! 垢バンもコメント消去も思いのまま! 今この空間において、あっしに敵うと思わないことっすね!」
宝守が得意げになった瞬間、六道はソファの上から助走や予備動作を全く行うことなく突然目の前に現れた。
それは愛生との戦闘の際に見せた《倍速行動》と呼ばれる能力。予備動作は行わなかったのではなく見えなかった。あまりの速度に目が追い付かないのだ。殆どテレポートのようにも見えたその移動。宝守にとっては初めて目にする能力。
六道の拳が迫る。それは鋼鉄の手袋に覆われた、一切の手加減のない打撃。
だが宝守は動じなかった。どころか、彼女は避ける動きも作らなかった。防御だってしない。そんなものに意味はない。
何故なら彼女はこの空間の管理者なのだ。
「……!」
突如六道の顔が驚愕に塗りつぶされた。彼の容赦のない一撃が宝守の顔面に僅かに触れない位置で止まったのだ。いや、六道の感覚からすればそれは〝止められた〟と言うのが正しいのだろう。
「何をした?」
表情は驚愕のまま。しかし口調だけは冷静に六道は問う。俺に何をしたのだと。
「言ったっすよね。あっしの能力は全権利の強奪だって。だから奪わせてもらったっす。あんたがあっしに『攻撃する権利』を」
六道は何も言わずに空いている方の腕も宝守に叩きこむ。だがその一撃も宝守の体に僅か触れない位置で止められた。
「……訂正しよう。お前の能力、くだらなくはない程度には厄介なものだ」
「そんなツンデレられても嬉しくないっすよ」
宝守が軽口をたたいている内に、六道は後ろへと大きく跳躍し距離を取った。攻撃ができないとわかったので、一旦離れようというのだ。堅実な策だ。下手をすればこのまま逃げられる可能性もある。宝守はそれを許す気はない。
「奪え!」
その一言で、六道の足元の絨毯が突如意志を持ったかのごとくめくれ上がった。それは荒れる海のようにうねり、足場の安定を失った六道はそのまま宙へと投げ出される。
「も一つおまけっす!」
宝守が魔法の杖のようにモップを振り回せば、キッチンの収納棚が一人でに開き、中から三つの包丁が飛び出した。一つは矢のように真っ直ぐに、残りの二つは抉るような回転を加えられ左右から六道目がけて飛来する。
空中なら身動きは取れないっす!
だが宝守の予想はあっけなく裏切られた。
宙へと身を投げ出された六道は当然のように空を蹴って更に上へと上がり、飛来する三つの刃を避けて見せたのだ。三つの包丁は六道にかすることもなくうねりを上げる絨毯へと突き刺さる。
見れば、六道はまるで動じずに空中に立っていた。
「《領域歩行》。俺は足場を選ばない」
「……一体、なんなんすかさっきから。突然目の前に現れるわ、最近のゲームでもみないような二段ジャンプとか……まるで、超能力が複数あるみたいっす」
「その通りだよ。俺はマルチスキルなのだ」
「マルチスキル!? かっこいいっすねそれ!」
六道に思いっきり呆れたような視線を送られたが気にしない。
「よくわかんないっすけど、そんなにいっぱいあるっていうんだったら……とりあえず全部使わないでくださいっす」
瞬間、六道はまるで支えを失ったかのように空気の足場を失い床へと着地した。彼の表情がそれが意図したことではないと告げる。
「今、あんたの『超能力を使う権利』を強奪したっす」
六道は能力による操作を失い鋼鉄の手袋がスライムのように地面に落ち、そのままの形で固まってしまったのを見て、確かに超能力が発動できないことを知る。
「能力発動の制限まで出来るのか……」
「人間っていうのは、ありとあらゆる権利をもって生きているっす。それは生きる権利であり、自由に行動する権利っす。あっしの能力はそういった権利を根こそぎ奪うことができる」
フェーズ5の宝守では『生存する権利』までは奪えない。
だが自分に奪えないものはそれだけだ。それ以外の全てを深雪宝守は奪うことが出来る。
「ぶっちゃけて言えば『特定範囲内に限り何でもあり』が一番簡単なあっしの能力の説明っすね。ま、基本奪うだけがあっしの能力っす。だから自分自身の強化はできないっすけど、それでも十分。あっしの管理内の場所であれば、あの我王帝とだって張り合えるっすよ」
言っては見たが、本気ではない。宝守でさえも我王帝と対等にやり合えるとは思っていない。それでもそんなはったりをかますだけの実力くらいはあるはずだ。
「その分、発動条件はかなり厳しいんすけどね。現状、このマンション以外で《管理者権限》の発動条件を満たしている場所はないっす。というか、そもそもこのマンションこそがあっしの力を使うために作られたものっすから」
「……つまり、この場所から離れればお前は脅威ではなくなるというわけか」
攻撃する権利を奪われ。超能力を使う権利まで奪われてなお、六道は何一つ諦めていないのか、その瞳は真っ直ぐに宝守に向けられ、闘志を燃やしていた。
闘志っつーか、もっと怖いものかもしれないっすね……。
怒りや憎しみに近いものだ。確かに宝守は六道の敵としてここにいるが、しかしそこまでの感情をぶつけられるようなものだろうか。この六道という男は宝守を通して別の何かを見ているようなのだ。
それに、どうしてだろう。この黒尽くめの男の眼が、あの灰色の少女と重なって見えるのは。
いいや、考えるのはやめっす。
とにかく今はこの男を倒すのが先決だ。
手加減はしない。カッコいい勝ち方でなくても構わない。
アニメと現実の違いってやつを教えてやるっす……!
宝守は意識を集中させ、静かに一言呟く。
「奪い尽くせ(スナッチ)……」
すると、六道の顔が突然青くなった。がくがくと体を震わせながら床に膝をつき、何かを訴えるかのように両手を自身の首にあてた。
「あんたの『息をする権利』を奪い尽くしたっす」
生きる権利そのものを奪うことはできなくても、間接的にならそれを強奪することは可能だ。
呼吸を殺し、命を殺す。
それは身も蓋もない攻撃だった。呼吸をできなくする。人間にとってこれ以上に効果的な攻撃はないだろう。それが聞かない規格外の人間もいくらかいるが、六道はそうではないようだ。苦しそうなその顔からは脂汗がにじみ出ている。
不明瞭な相手の存在。マルチスキル能力者である事実。すでに宝守は六道という男が油断ならない敵であるとみなしている。だからこそ容赦はしない。まず能力の自由を奪い、そのあとに呼吸の自由を奪い……それでお終いだ。
とりあえず意識が飛ぶまでこのままで、そのあとは蘇生して尋問っすかね。
すでに勝った気でいる宝守はその後の展開をぼんやりと考えていた。
そんな宝守を見て、六道がふっと微笑んだのだ。
「――勝った気でいるな? 深雪宝守」
口を開く。そして言葉を発する。
「随分な自信だな」
「……あんた、何してんすか?」
宝守は唖然とする。当たり前だ。呼吸を止められたこの状態で喋ること、それは残り少ない空気を自分から使い切る行為だ。最後に残った寿命を自ら無駄に使い切ろうとしているのと同じだ。
「だが、その自信も最もだ。これだけ強力な超能力なら、勝った気でいるのも仕方がない。お前はそこで不様に倒れている男よりもよっぽど強い人間だ」
「だ、旦那を馬鹿にするなぁ!」
六道の行動の意味がわからない。混乱と困惑が宝守の脳内を侵食する。
まるで勝利を確信したかのような六道の笑みが宝守の心を縛り付けた。
「だが、だが! お前のその強力な超能力は認知していない相手の権利までも奪えるのか?」
突然、背後に気配がした。それは先程の六道の移動よりも唐突に、今までなかったものがいきなりその場に現れたかのようにはっきりとした気配が宝守の背後に現れた。
咄嗟に振り向こうと体を捻るが、しかしその気配の正体を宝守が目で確認するよりも先に首筋にチクリとした痛みを感じる。それに一瞬気を取られた瞬間に宝守は見た。視界の中央を堂々と歩く少女の姿を。
少女は着物のようにも忍者の装束のようにも見える奇妙な格好をしていた。何より最初に目を引いたのは自身の顔を隠すようにつけられた鬼の面だ。長く伸ばされた綺麗な黒髪とまだ十一、二歳ほどの華奢な体だけがその鬼の面の人物が少女であることの証明だった。
鬼の面の少女は宝守のことを見てもいない。何でもなさそうに真っ直ぐに六道のもとへと向かっている。
「ま、まっ――――」
待て、とそう言おうとした。しかしそれは言葉にならずに小さな呻き声へと変わる。途端に感じたのは体中の痺れ。全身が、上手く動かない、麻痺した感覚。アニメでもよくでてくる、これは……。
毒? 毒っすか!?
先程の気を取られたちくりとした一撃の時だと、咄嗟に理解した。
宝守が体を上手く動かせずに床に膝をついたのと同時に、視界の中では六道が立ち上がっていた。脳神経に作用するタイプなのか、すでに超能力も満足に使えない状態だった。
「あっけない。こんなものか」
コートの裾の埃をパンパンと払いながら六道は口にする。そんな六道の真横に立った鬼の面の少女が口を開いた。
「既に目的は達成しています。早急にこの場から離脱するべきかと」
「わかっている。……忍花、深雪宝守には何をしたのだ?」
忍花、と呼ばれた鬼の面の少女は静かに言った。
「神経系の毒を少々。数時間ほどで完治します」
「殺さなかったのか」
「ここを離れてしまえば深雪宝守は脅威ではありません。むしろ我王帝などとも繋がりのある彼女をここで殺すことで敵を増やす可能性があります」
「まあ、その通りか……」
六道は軽く頷きながら宝守へ視線を向けた。
「二人とも、命は助けてやる。勘違いするな? これは警告だ。次は殺す」
「な、なんで!」
全身が痺れる。すでに意識は飛びそうだった。最後に残った力を振り絞って、宝守は言葉を作る。
「ありえないっす! このマンションの全権利はあっしの手中。この場所にいる限り、あっしに感知できない人間なんていない!」
気配を察知するとか、宝守の権限はそんなレベルではない。このマンション内にいる人間ならば、その行動から何から何まで手に取るようにわかるのだ。だからこそ、愛生のピンチにも助けにこれたのだ。
だが、宝守は忍花を感知できなかった。今の今まで確かにあの鬼の面の少女はこの空間にいなかったのだ。
「お前の目に忍花は人間ではなく見えるのか?」
告げられた質問に宝守は何も言い返せない。
「そうでないというのなら、お前にも感知できない人間がいたと、そういうことだ。ただそれだけのことだ」
そう言って、六道は身を翻す。リナリアの手を取り、宝守と愛生から離れるように歩いていく。
「あ、あ……!」
最後の一言は言葉にならず、宝守は痺れる体を無理矢理動かそうとして姿勢を崩して頭から床へと激突し、そのまま意識を失った。
+
薄れゆく意識。消えかかった視界の中で愛生は六道に連れられるリナリアの姿を見た。
動こうと思えば、動けたのかもしれない。
戦おうと思えば、まだチャンスはあったかもしれない。
それでも植え付けられた敗北心と目的を失ったという事実が愛生の体から力を奪い取る。
僕はどうしたらいいのだろう。何をすればいいのだろう。ここ最近ずっと愛生を縛り付ける疑問に溺れていると、彼女と目があった。その何も見ていないような瞳はしっかりと愛生だけを見つめていた。そして、彼女は何も変わらぬ無表情のままゆっくりと口を動かした。
彼女が何を言ったのかはわからなかった。この意識の渦の中で聞き取れるはずもない。
だけど、その言葉が他ならぬ自分に――――我王愛生に向けられたものであることはわかった。
それはきっと別れを告げる言葉だったのだろう。
愛生は立ち上がることができなかった。
意識は驚くほど簡単に消え失せた。