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影踏み渡り、少年は落ちていく

 愛生の住む高級マンションから花蓮の住む学生寮までは距離的にさほど離れているわけではない。

 花蓮との付き合いがそこまであったわけではない愛生には彼女のいる場所は彼女自身の自宅くらいしか思いつかなかった。元々、挨拶をかわす程度のお隣さんでしかなかったのだ。しかし幸運なことに確かに彼女はそこにいた。

 504号室の扉の前。

 まず最初に目に入ったのは男の姿。細身の黒いパーカーを来た小柄で髪の長い、どことなく陰険そうな雰囲気を携えた男。新泉が着ていたものと同じパーカーであるというだけでも、すでに愛生の中でこの男は敵という認識になっている。帝が言っていた、管理会の組織の人間だろう。

 男は愛生の存在に気づいていない。まずは出会い頭に一撃を叩きこむ。

 そこで愛生は男の視線の先の〝あるモノ〟に気がついた。

 最初に目に飛び込んだのは赤い液体。茶系のセミロングほどの髪がその赤い湖に浸っている。不格好に投げ出された細い腕。そして赤く濡れた制服を見て――――愛生はそこでようやく倒れていたものが花蓮であることに気が付いて――――

 そこで一度、愛生の意識が途絶えた。

 次に聞こえたのは金属同士がぶつかり合う鈍く、しかし高く響く耳障りな音。体の芯を揺らすようなその音で愛生の意識は覚醒した。

「おいおい、マジかよ。激昂しやすい性格だとは聞いていたが、ここまでなのか」

 少し離れた位置から男性の声で何かが聞こえたが、それはまるで昼の通りの喧騒のように上手く認識されることもなく愛生の耳を通過する。

 見ると愛生の左腕が先程まで男の立っていた位置の床、コンクリートで舗装されたマンションの床を破壊し、内側の鉄筋にまで達していた。先程自分の耳に響いた鉄同士のぶつかる音はこれが原因だったのかと、どこか冷静な自分が分析する。

「驚いた。つーかビビったよ。ああいうのがよく言う殺気って奴なのか?」

 男の声はなおも愛生の耳を通過する。半ばコンクリートに埋まるようになっていた左手を引き抜くと、光沢のない黒の義手にさらに塗りつぶすような黒色の線が走っていた。人工的で角ばったその線は《ダインスレイフ》が発動した証に他ならない。

 無意識の内に能力を発動させたのか……?

 いや、違う。無意識ではあったが、意志はあった。明確な意志。それがどんなものかはわからない。男の言う殺気とは、また違うようなもののような気が愛生にはしていた。

 そうだ、花蓮ちゃん。花蓮ちゃんは!?

 まだどこか判然としない意識の中、辺りを見渡せば彼女はすぐ近くにいた。自身の部屋の扉の前で倒れている彼女。流れ出している血液の量が彼女が軽傷ではないことを告げている。

 何も考えず、彼女に駆け寄ろうとする。近くに敵と呼べるものがいるにも関わらず、愛生は全く警戒を怠っていた。だがそこで、突然攻撃されるようなことはなかった。男もまた新泉と同じ素人だったのだ。しかしそれでも愛生が花蓮に近づくことは良しとせず。

「止まれ!」

 と、一言。その陰険な雰囲気からは想像できないような迫力のある声で愛生を制止させる。愛生もまた無理に動こうとはしなかった。新泉がそうであったように、この男もまた能力者である可能性が高い。目的や全貌はわからないが、帝のいう管理会の組織とは超能力者によって構成された戦闘集団なのだろう。彼らが素人である理由は定かではないが、少なくとも戦い、殺すことを前提にこの男は動いている。

 相変わらず思考はままならないが、染みついた感覚だけで愛生は動くことを危険と判断した。花蓮の様子は一刻を争う状態だが、しかしここで愛生まで倒れてしまっては意味はない。助けに走っておいて共倒れだけは避けなければならない。

「わからないな。今さっきはとんでもない殺気で俺を殺しにかかったくせに、途端に人が変わったように腑抜けやがった。……なんて顔してるんだよ」

 愛生は力なく笑った。自分の顔がどんなに憔悴しているのか、わかってしまったからだ。敵にまで心配される様がおかしくて、笑ってしまったのだ。

「いやしかし、実際あんた凄いと思うぜ。俺も少なからず人を殺しているけどもさ、あの一瞬であれだけ容赦ない一撃を放てるのは凄いって。状況を理解した瞬間、殺しにかかって来たもんな。ビビったよ。本当だ」

 力なく笑うしかない愛生を怪訝そうに睨みながらも、軽口のような台詞を男は口にした。

「あんたがここにいるってことは、新泉は負けて俺たちの組織の目的とやらもすでにバレていると見ていいんだろうな」

「…………新泉は、一発殴ったら勝手に逃げていった」

 愛生が先程の出来事を告げると、男はあからさまに機嫌を損ね舌打ちをした。

「あのヘタレが……だから俺は反対だったんだよ。あれを我王愛生にぶつけるのは」

 男の言う通り、愛生はこの男たちの組織の目的を知っている。それは帝が教えてくれたこと。リナリアの関係者全員の殺害。その関係者とは、愛生から花蓮まで、本当に少しでもリナリアと面識がある人間は全て含まれている。

 だが、わからないことがある。

「どうしてだ。どうして、そこまで執拗にリナリアの関係者を殺そうとする」

 それはまるで、リナリアがこの街にいた痕跡をかき消そうと言うような、執念さえも感じさせる行為だ。

「答えろ。僕の気が短いことは、すでに知っているんだろう?」

 精一杯に吐かれた脅しの言葉。しかしそれを男は笑って流した。

「答えない。絶対にだ。親切に情報を漏らすようなことはしない。それに、あんたは気が短いが、キレる原因は少ないんだろ。それも知っている」

「……さすがに新泉のようにはいかないか」

「あの野郎、何か漏らしやがったな……!」

 再び舌打ちをして、男は愛生を鋭くにらみつける。

「まあいい。仲間の尻拭いも仕事の内だ。どっちにしろ、死んでもらう!」

 来る。愛生は身構える。

 傍らには怪我をした花蓮がいる。彼女を助けるためにも、負けるわけにはいかない。勝てなくとも、敗北だけは許されない。すでに彼女は自分のせいで傷ついているのだ。

 これ以上は指一本触れさせない……!

 気合いを入れるかのごとく息を吐いた、瞬間だ。

「首! もーらいぃいいいいいいいいい!」

 声だ。狂ったような叫び声。それは男のものではない。酷く高い女の声。声がした方向は全くわからなかったが、経験による警戒のためか愛生は突然の事態にただ身を低くすることで対応した。

 結果的にその行為は正解だった。身を屈めた愛生の頭上を、風を切るような音と共に何かがかすめていったのだ。それだけでも、今のが攻撃の類いであったことは理解できた。

「ありゃ? 避けられちった」

 頭上から高い女の声が降ってきた。音もなく猫のように地面に着地した女は素早い動きで男の傍に寄った。

「えへえへ。失敗しちった。失敗失敗!」

 さほど長くない髪をピンクと黄色でまだらに染めた派手な女だった。手にしているのはホームセンターなどで売っている安物の鎌。銀色の刃をギラギラさせている。着ていた黒のパーカーが恥ずかしいほど似合っていない。下にはいているのはこれまた派手な色をした下着だけで、見るからに普通ではない。

 普通ではない女は普通に楽しそうに笑っていた。

「このアホが! 叫びながら暗殺してどうする!」

 女の派手な頭をグーで殴って、陰険な表情は崩さぬまま男は怒鳴る。女は殴られた頭を抱えて、先程までの楽しそうな笑顔から一転、途端に悲しそうな顔を見せる。

「だって、だってだってテンションあがっちゃんだもんよ!」

「テンションあがったくらいで、みすみす最高のチャンスを逃したんだぞ!」

「つ、次は! 次は頑張るよ! 頑張るから怒らないでよぉ!」

「次がないから怒っているんだ!」

「うわーん! 喜彰が怒ったぁああああああ!」

 まるで子供のように床に腰を下ろし手足を投げ出して、女は泣きだしてしまう。十分に育った女性が声の限りに泣くという状況に唖然としたまま声が出せなくなる愛生。男はそんな女に苛立ったような口調で告げる。

「泣いてる場合か。怒るなというなら結果を出せ」

「けっか……?」

「夢井花蓮の殺害。そして我王愛生の殺害。それが結果だ」

「ころせばいーの?」

「何度も説明しただろうが、このアホが」

 口調こそ辛辣だが、男はまるで殴ったことを謝るかのように女の頭を優しく撫でていた。ぼろぼろと涙を零して泣いていた女だったが、すぐに先程のような普通に笑顔に戻る。ころころと表情が変わる様は本当に子供のようだった。

「なんなんだ、お前ら……」

 愛生は女の方を向いて言った。

「どこに隠れていた。どうやって、出てきたんだ?」

 女は確かに愛生の頭上から、上から地面に降り立った。しかし勿論、天井に張り付いていたわけではないだろう。それなら愛生が気づかないはずがない。上の階から飛び降りてきたということも考えられない。女は愛生に対して垂直に、真上から降ってきたのだ。

 愛生の疑問を受けて、女は少し悩むように頭を捻ってから答えた。言葉ではなく、行動でだ。

「な……!?」

 思わず声が出た。女の体、下半身の部分が丸ごと床の中に沈んでいくのだ。まるで下半身がコンクリートに埋まってしまったかのごとく、灰色の床に女の体が飲み込まれている。女はまるで見せびらかすように手にした鎌を床へと沈ませたり出したりする。

「えへえへ。あいつ、驚いてるよ」

「ああ、驚いているな」

 愛生の反応を楽しんでいる女とは対照的に、男は無表情だ。

「コンクリートに埋まる。物質透過の超能力か?」

「違うな」

 答えたのは男の方だった。

「こいつのこれは物質透過だとか、そんな便利そうな能力じゃない。自分以外の影の中に入り込む能力だ」

「影の中だと?」

 そうだよー、と女が手をあげる。

「床でも地面でも、コンクリートの中でもないんだよ。あたしの能力は影の中に入り込む能力なの!」

 影。光の当たらない暗い部分。言われてみれば確かに女は男の影の中に入り込んでいるように見える。

「だけど、案外簡単に話してくれるんだな。自分たちの能力の詳細を敵に伝えていいのか」

 情報は漏らさないと、そう言っていた。

 男は不気味に口の端を吊り上げる。

「俺は新泉とは違う。今のは漏らしてもいいと判断したから教えたまで。本当に大事な情報は教えたりはしない」

「漏らしてもいい、だと?」

「あんたがどうやって新泉を打倒したのかは知らないが、報告を聞く限りあんたを殺す適役は俺たちだ。能力の詳細を知ったところで、逃げられやしない」

 それだけ言って男は、その陰気な顔を隠すように下を向く。まるでそれに反するかのごとく、女は満面の笑みで愛生を真っ直ぐ見つめた。

 そうして、二人が口を開いた。

「《影踏み》喜彰」

「えへへ。《影渡り》照美だよ!」

 死ね。男――喜彰が低く呟くと同時にこちらへ向けて投擲用と見える細いナイフを放ってきた。素人とは言えど、さすがに外すことはなく、ナイフは真っ直ぐに愛生の胸元目がけて飛んでくる。愛生はそれを左手の義手で弾いた。しかしナイフにばかり気を取られていた愛生はミスを犯す。照美から目を離してしまったのだ。すぐに愛生は自らが犯した失態に気づくが、すでに照美の姿はない。影の中に入り込んだのだ。

 どこだ、どこにいる。

 太陽は愛生の斜め右から射すように存在している。丁度、花蓮の部屋の扉を照らすような角度だ。それによって作られる影はいくつかある。柱の影、そして愛生と喜彰の作る影。どこかに照美は潜んでいると愛生は考える。

 そこで愛生はもう一つのミスを犯す。照美にばかり気を取られていて、忘れてしまったのだ。喜彰もまた超能力者である可能性を、すっかりと。

 異変にはすぐに気づけた。喜彰の作る影が真っ直ぐに愛生の足元にまで伸びてきていたのだ。太陽は斜めに照らしている。影もまたそれに倣うように斜めに伸びなければいけないのに。

「しまっ――」

 た、とは言えなかった。自分の足元にまで伸びてきていた喜彰の影から鎌が二本、顔に目がけて飛んできたのだ。回転しながら接近する鎌を愛生は首の動きだけでなんとか回避する。耳元を〝ひゅっ″と音をさせながら鎌はそのまま天井に弾かれ、床に転がる。

 罠だ。これは狙われた罠だ。わざと照美の能力だけを明かすことによって、彼女へ注意を引きつけたのだ。ナイフも罠の一つ。彼女へ注意を引かせ、ナイフでそれを一旦解き、姿を消した彼女の姿を見つけようと思考させる。その時に生まれる一瞬の隙を喜彰の能力による奇襲で突く。

 あとほんの一手でも彼らに有利な条件を積まれたら、自分はあっけなく死んでいたはずだ。耳に残る風を切る音が愛生にそう教えていた。

 焦る気持ちは後退に変わった。とにかく距離を取ろうと、後ろにさがったのだ。喜彰の能力は影を自在に伸ばすことだと推測できるが、フェーズによって伸ばす距離の限界も存在するはず。それがどれだけの距離なのかは全く予想がつかないが、ひとまずは廊下いっぱいにさがって様子を見るべきだ。そう決めた愛生はバックステップで後退する。

 瞬間、喜彰が笑ったのを愛生は見た。

「無駄だよ」

 その喜彰の声とほぼ同時、愛生は右腕に鋭い痛みを感じた。眼だけを動かし確認すると、湾曲した鎌の刃が半分ほど腕に突き刺さっていた。熱を受けたような痛み。実感が追い付かないのか、他人事のようにそれを知覚しながら首を回せば、ピンクと黄色の派手な髪。

「えへえへへ! ばーか! 逃げられるなんて、思うなよ!」

 甲高い声は照美のもの。彼女が愛生の後方に立っていたのだ。

 どういうことだと、一瞬動揺した愛生だが、しかしよく考えなくとも答えは明確だった。先程、足元から鎌を投げつけられたあの瞬間だ。あの時、喜彰の影と愛生の影は接触していた。あの瞬間に照美は喜彰の影から愛生の影へ移動したのだ。

 影から影への移動。照美の能力を聞いた瞬間に思いついてもいい可能性だ。

「首、おいてけぇえええええええ!」

 照美の絶叫と共にもう一本の鎌が振り下ろされる。首を狙ったその一撃を愛生は左手で受け止めた。

 幸いなことはこの二人が戦闘に関してはそこまでの達人ではないことだ。能力の使い方や発想は称賛すべきものがあるが、肝心の攻撃の際の動きに関しては全く洗練されていない。

 それでも一撃は貰ってしまったという事実は重く受け止めるべきだろう。

 殺しに失敗した照美は逃げるように愛生の影に入り込む。

「罠は二つ積まれていた」

 腕に刺さった鎌を引き抜きながら、愛生は呟いた。

 最初に照美に注意を引かせ、喜彰による奇襲で警戒を強めさせる。そこでとにかく一旦距離を置こうと相手に考えさせ、離れたところで相手の影に隠れ潜んでいた照美の一撃。

 巧妙な罠だ。まんまとはまってしまった自分が憎らしい。危ない、とそう気づける場面はいくらでもあったはずだ。それを見逃し、傷を負ったのは紛れもない我王愛生自身の責任だ。

 腕の痛みが愛生の思考を冷たくしていく。

 花蓮が傷ついたこと。組織の狙い、殺しの理由。様々なことが愛生の頭を埋め尽くすが、それらは全て忘れることにした。

 集中しろ。

 意識を研ぎ澄ませ。

 今、自分がやるべきことは戦うことだ。

 強く拳を握り直し、愛生は正面喜彰に向かって走り出す。迷ったり躊躇したりしている暇はない。この一連の動きの中で二人の能力に直接的な殺傷力はないことはわかっている。上手く使ってはいるが、しかしそれまでだ。厄介なのは喜彰。影に潜むという照美の能力を強化しているのは彼の影を操る能力だ。喜彰を潰せば、彼女の戦闘力は半減する。潜む影の形が限られるのであれば対処も容易い。

 だからこそ特攻だ。真っ直ぐに突撃し、渾身の一撃で喜彰を倒す。《ダインスレイフ》はすでに発動している。素人相手なら、一撃で倒せる自信はある。

 喜彰は真っ直ぐに突っ込んできた愛生に少し驚いていたが、冷静な体勢は崩さない。

「無駄だって、言ってんだろうが!」

 瞬間、愛生の視界の中に黒い壁が生まれる。それは影だ。地面に伸びるはずの喜彰の影が縦に伸び、空中を壁のように走っているのだ。

 伸ばせるのは地面だけじゃないってことか。

 だがそれは想定の範囲内、驚くべきことじゃない。

 壁を作るのと同時に喜彰は愛生の影と自分の影を繋げて、照美を回収。再び喜彰の影に移った照美が影の壁の中から鎌を投げつけた。しかし愛生の行動が突然だったせいか、狙いは甘い。一本はあらぬ方向へ飛んでいき、もう一本も愛生の頬を傷つけただけだった。

 走る勢いは止めなかった。投げられた鎌に怯むことなく冷静に当たらないと判断した愛生はそのままのスピードで影の壁に突っ込む。

 壁のようにそり立っていても影は影。そこに硬度や質量があるわけではない。愛生の体は影の壁を通り抜ける。

 あと一歩で拳が届く位置だ。愛生は他人事のような視界の中で喜彰の頭に狙いを定めるが、喜彰も黙っているわけではない。躊躇うことなく壁を越えてきた愛生に驚きながら、焦ったようにナイフを一本投擲する。至近距離で顔を目がけて投げられたそれを愛生は両腕をクロスして受ける。キィンという音と共に左腕がナイフをはじいた。

 いける。愛生は静かにそう確信したが――――次の瞬間、焦っていたはずの喜彰が目の色を変えた。それは興奮と歓喜の色だった。

「俺たちの方が一枚上手だったようだなぁ! 我王愛生ぃ!!」

「なんだと!」

 その時愛生は見た。喜彰の影が愛生の体に巻きつくようにしてかかっていることに。警戒するべきだったのだ。近づけば近づくほど、足元に伸びる影は見えにくくなるというのに。

「あたしたちの、勝ち!」

 首の後ろから、声がした。愛生の背中に伸ばされた喜彰の影から照美が上半身だけを出しているのだ。まるで愛生の背中から照美が生えているかのような光景。彼女の手にした二本の鎌の刃はすでに愛生の首に押し当てられている。少し引くだけで簡単に首を切られてしまう。

 まずい。愛生は全身から汗が噴き出すのを自覚した。クロスした腕の内側に鎌があるため、腕を使った防御は間に合わない。首を捻れば自分から首を切る結果になるし、例え後退しようと、喜彰の能力がある限り影は愛生の背中に張り付いたまま、照美はずっと愛生の背中から生えたままだ。

 逃げられない……!

 早まったのだ。冷静になったつもりで思考を停止させてしまったのだ。

 忘れてなんかいなかった。花蓮ちゃんが傷ついてからずっと、僕は焦ったままだった。

 後悔は間に合わない。首にあてられた鎌は愛生の首を…………

 決着は一瞬だった。絶体絶命だと思われた状況は、突如飛来した嵐のような黒尽くめの存在に無理やりに終結させられた。

 太陽を背にして、空から現れたその黒尽くめの存在によって一瞬だけ愛生と喜彰らの周囲は全てが陰に包まれて――――気づいた時には愛生は空中に体を投げ出されていた。

 愛生の体が吹き飛ばされたわけではない。愛生、喜彰のいた場所、花蓮の部屋に繋がる学生寮の廊下が柱なども含めて突然粉々に砕かれたのだ。床という支えを失った愛生らは重力に引かれるままに真下へと落下する。

 突然の降下によって集中が切れてしまったのだろう。喜彰の超能力は効力を失くし、彼の影は元の自然な形へと戻る。それに合わせて照美も愛生の背中に生えている訳にはいられなくなり、喜彰の影に引っ張られるように愛生から離れていった。

 上へと流れる視界の中で、愛生は黒尽くめの正体を見た。

「随分勝手をしてくれたようだな」

 帝だ。我王帝が、落下する瓦礫の一つの上に器用に立ちながら、腕を組んだ姿勢で喜彰を睨んでいる。空中で体勢を保つことができずに慌てている喜彰は首の動きだけでなんとか帝を視界に収めている。

「我王……帝!? 世界最強の超能力者が何故ここに!」

 その問いに帝は答えない。いつもの不敵な笑みは今の帝の顔には現れない。ただ無情にも見える無表情のまま、瓦礫を蹴って喜彰のもとへ飛んだ。

「消えろ」

 振られた拳は、しかし喜彰の体には触れなかった。爆風のような音をたてた一撃は周囲の瓦礫をさらに砕く結果を生んだが、その結果の先に喜彰と照美の姿はなかった。

「あらかじめ、テレポーターを待機させていたか……素人だが、引き際を弁えているだけでも優秀だな」

 姿を消した喜彰に向かって帝が小さく呟く。その言葉を聞きながら、愛生は辺りを見渡す。すると、すぐに自分と同じように落下していく花蓮の姿を見つけた。

「花蓮ちゃん!」

 彼女の名前を呼ぶ。まだ意識はないのか、返事はない。流れ出る血が空へと伸び、彼女を吊り上げる赤い糸のように見えた。彼女を引き寄せようと手を伸ばす。が、届かない。伸ばした手は空を掴み、落ちる瓦礫にはじかれた。

 しまった……!

 頭を下にして落下する花蓮。引き寄せることもままならず、そのまま地面へと激突するのも覚悟したが――――しかし思わず目を瞑った瞬間に愛生の体は帝によって抱きかかえられた。目を開ければ、彼女の腕には花蓮の姿も。あの一瞬で花蓮を救出し、自分も助けて見せたのだ。帝の手際の良さ……というよりは物理的なスピードに驚く愛生。

 そんな愛生の驚きも束の間。帝は落ちる瓦礫を一度――二度、蹴り。そしてその勢いを持って学生寮の玄関。そこに隣接する道路に着地した。

 全ての動作が流れるように行われたため、疑問を抱くことも難しかったが、落ちる瓦礫を足場にして空中を移動するなどやや常軌を逸している。

 直後、愛生は帝に抱えられたままの体勢で地に響くような音を聞いた。その音は何度か連続し、程なく治まる。

「いやぁ、まいったな……」

 帝がそうぼやきながら抱えていた愛生を降ろした。突然のことだったが、上手いこと着地。そして学生寮の方へ視線を向けると、帝がぼやいていた理由を知る。

 花蓮の住む学生寮。以前まで愛生も住んでいたその建物の五階の廊下から下の全ての廊下が粉々に砕けた瓦礫となって一階部分に落下していたのだ。先程聞いた音は瓦礫が一階へと落ちる音だったのだろう。

 帝が現れてからほんの一瞬の間に学生寮は見るも無残な姿になってしまっていた。幸いにも被害は廊下だけで部屋や中にいた生徒たちには問題はないようだった。巨大な音の連続で目を覚ましたのか、生徒たちが次々と部屋から顔を覗かせ、自分の住む寮の惨状を目の当たりにして驚きの声をあげている。その声は集まり、段々と喧騒へと形を変える。

「私としたことが、少し焦り過ぎたようだな。これはあとで乾に隠蔽させておこう」

「あ、あの……」

 何か言葉にしようと、口を開いたところ帝に睨まれた。愛生は反射的に口を閉じてしまう。

「一人で突っ走るとは、随分と考えが足りないぞ愛生。お前のその、冷静なようでいて実際はまったく冷静ではないところはどうにかしておけ。早死にするぞ」

「すみま、せん……」

 恩人から告げられた厳しい言葉に愛生は何も言えない。

「まったく。千歳が連絡を寄こさなかったら今頃この娘と一緒にお前も死んでいたぞ」

「……! ということは花蓮ちゃんは!?」

「問題はない。見たところ出血は多いが、傷は浅い。すぐに病院にでも連れていけば助かるだろう」

 その事実にひとまず胸を撫で下ろす。が、そこですぐに安心はできなかった。

「僕も、僕も行きます」

「どこにだ」

「決まってるでしょう!? 病院にです!」

 自分も同行しなくてはならない。そんな使命感。しかしそれは帝の「駄目だ」という一言であっさりと拒否された。

「どうしてですか!」

 だが愛生も食い下がらない。どうしてだと、帝に詰め寄る。

「八九郎も救出した。他の全員も護堂に警護させながらあのマンションに向かわせている。あそこなら、基本的には安全だ。お前もすぐに迎え。敵の追撃があるかもしれない」

「でも、それなら花蓮ちゃんは……」

「この娘の安全は私が保障する。私と共にいれば、あのマンションよりも安全だ。違うか?」

 それは違わない。

「それにお前が一緒に来て何ができるんだ」

「だけど……」

 だけど、

「その子は僕のせいで傷ついたんです。僕のせいで、また傷つけた。だから僕が……」

「違うな」

 そう言って帝は愛生に背を向けた。

「私はお前に何ができるのだと聞いたんだ。お前の気持ちの問題ではない」

「……それは」

「お前にこの娘の傷が癒やせるのか? お前に私よりも早くこの娘を病院に連れて行く手段があるのか? 次また敵が現れたとき、お前は私がそいつらを蹴散らす様を見ているだけしかできないのではないか?」

「…………」

 その通りだった。今の自分ではついて行った所で何もできはしない。だけど、そんなことはわかっているのだ。

「わかっていたって、どうしようもないことはあります……」

「…………」

 帝は振り返ることはしなかった。ただ、諭すような口調で告げる。

「私は前に、背負えと言ったな。だが今のお前は背負い過ぎだ。私はなんでもかんでも抱えろと言ったわけじゃない。お前の中の怒りは敵に向けるものであって、自分に向けるべきものじゃない」

 恨むべき相手を間違えるな。

 最後にそれだけ言って、帝は花蓮を連れてその場から姿を消した。

 愛生は一人、置いて行かれたままだ。

 愛生は一人で自宅への帰り道を歩いていた。

 頭の中を巡るのは後悔と自責の念。

 どうしてこんなことになってしまったのだろうという思いと、自分を責める自分の言葉。

 帝は自分を責めるなと言った。だけど、そんなことは無理な話だった。

 無理に、決まってるじゃないか……。

 一度目は怖い思いをさせてしまった。だから距離をとった。彼女が自分のことを忘れられるように。怖かったことをなかったことにするように。

 そして二度目。今度は彼女を傷つけてしまった。怖かったろう。前回の比ではない。突然現れたわけのわからない奴らに殺されかけたのだ。花蓮の恐怖を思うと、愛生は身がすくむ思いがした。それは後悔であり、慙愧というものだ。

 自分は彼女と距離をとった。それは彼女のためを思った行動だったはずだが、しかしもしかしたら自分は彼女に対する負い目から逃げたかっただけなのではないかと、愛生はそう思い始めていた。

 なかったことにしたかったのは、僕の方なんじゃないか。

 現に、自分はさっきまで忘れていた。夢井花蓮という女の子を、自分とリナリアに良くしてくれたあの優しい女の子のことをすっかり忘れていたのだ。

 それは明確な過失だと愛生は思う。償うべき罪だ。我王愛生は間違いなく夢井花蓮を傷つけた。例えそれを実行したのが違う人物であろうと、彼女が傷つく理由を作ったのは自分で、守れなかったのもまた、我王愛生という『僕』なのだ。

 この前と同じだ。我王愛生は無力にも何も守ることが出来ず、結局帝に助けてもらっている。

 僕が救えたのは僕だけで、他のみんなを助けたのは帝さんなんだ……。

 花蓮も、千歳も、佳苗も、八九郎も、鋤崎も、晶子も、みんなみんな帝が助けてくれた。逆に言えば、帝がいなければ簡単にみんな死んでいたかもしれないのだ。自分だけが生き残って、みんなが死んだことを後から知って……それで――――

「やば、いな……」

 考えてしまった。想像してしまった。血生臭い光景を。思いつく限りの、最悪を。

 愛生は激しい吐き気に襲われて、近くの壁に手をつき倒れそうになる体を支えた。幸い嘔吐することはなかったが、最低の気分は続く。

 とにかく今は忘れよう。愛生はせり上げる胃液と共に思考を飲み込んだ。停止させたのだ。

 みんな助かってよかったね。それでいいのだ。今はただ、それだけで。

 後悔も慙愧も罪も何もかも全て忘れてしまえばいい。そうするのが一番楽な選択肢だ。

「そんなこと、できるわけない」

 停止したはずの思考が独りでに動き出すのを感じながら、それを止めることもせず、愛生は歩みを再開する。

 どうしてか足は重かった。

 ラボラトリ南西の端。ゴミ処理施設。ラボラトリ中から集まった大量のゴミをまとめて一括処理する最新鋭の焼却炉があるその場所は、清潔感すら感じさせる白の色。しかしゴミの匂いだけは抑えられないのか、施設の外観と相反する悪臭が立ち込め、周囲にも人が住む場所がないこともあり、その一帯は何か奇妙な雰囲気を感じさせた。

 その一角、一目見ただけではなんのためにあるのかわからない機材に溢れた地点。隣接する焼却炉の白い壁が轟音と共に砕かれた。周囲の悪臭よりもさらに酷い異臭が焼けるような熱風と共に中から漏れ出し、それに連なるようにして一人の男が出てくる。

 男は赤い髪を揺らし、パンツ一丁というあられもない姿。疲弊したかのように息を切らしている。

「ハッ……!」

 強がりのような声を生むと、一度大きく息を吸ってからその場に仰向けに倒れ込んだ。

 疲れているようには見える。しかし焼却炉の中から出てきたのにも関わらず、男の体には火傷の痕一つも存在しない。その体は恐ろしいまでの健康体だった。

「やっと出てきたのか」

 仰向けに倒れた男は頭上から声を聴く。それは最近は聞きなれた、あまりに堂々とした女の声。

「そろそろ出てくるかなぁと思ってから三十二秒もたった。随分ゆっくりしていたんだな、八九郎」

 八九郎と呼ばれた男は「ハッ」と再び呟いた。

「つーか、お前か帝。人を焼却炉にぶち込んでくれたのは」

「おいおいなんだその恨みがましい目は。私はお前を助けてやったのだぞ」

 わざとらしく肩をすくめて帝は言う。

「アホな超能力者のアホな敵襲にアホにもやられたアホなお前を私は救ってやったんだ。礼の一つでも言ってみろ。感謝することを許してやる」

「アホアホ言うなアホ」

 悪態をつきながらも八九郎は最後に小さく「ありがとよ」と言った。それを聞いた帝は満足そうだ。

 八九郎の記憶は今朝、死にかけたあの時点で止まっている。射撃のような攻撃を受け、腐って行く己の腹を抉り取ったあの時点だ。

 そこから焼却炉の内部で目を覚ますまでの記憶が八九郎にはまるっきり存在していないが、しかし他ならぬ帝が自分をここに投げ入れたのだと言うのならその意図もわかりやすかった。

 彼女の言葉に偽りはない。確かに帝は八九郎を救おうとしたのだろう。

「まあ確かにアホだからといって、ゴミのように焼却炉に入れるのは気がひけたのだが、あの土壇場で思いつく中ではここが一番温度の高い場所だったんだ。意識を失っている以上、お前の《熱機関オーバーエンジン》による熱操作は使えないが、しかし条件付きの強化能力は体温さえ上がれば自動的に発動するものだからな。ラボラトリの焼却炉は技術的にも進んでいて、平気で二千度以上の高温を出す。放り込んでおけば強化によって傷は勝手に回復するはずだ……と、この王はそう考えてお前をここにぶち込んだのだ」

「そりゃ傷は塞がったが、もう少し考えてくれ。酸素はないわ匂いは酷いわで正直腹が抉れていた時よりも死にかけたぞ」

「ん? ああそうか。お前は呼吸とかしないと死ぬ人間なのか」

「呼吸しなくてもいいって時点ですでに人間じゃねぇよ!」

 疲労しているにも関わらず大声を出したことで八九郎はむせてしまう。その様子を帝は笑ってみていた。かなり楽しそうだ。

 いや、本当に死ぬとこだったんだがな……。

 酸素はないし、だからといって下手に壁を壊して外に出ようものなら施設ごと爆発しかねない。酸欠でまとまらない頭で施設の構造を把握して壊しても大丈夫な壁を見つけることができたのは幸運としか言いようがない。つまり運が悪かったら死んでてもおかしくはなかったのだ。

 それをこの女は呼吸がいるのか、とかとぼけやがって。

 さすがの我王帝といえど全く呼吸が必要ないというわけではないのだろうが、八九郎とは比にならない長い時間を無呼吸で活動できることは確かだろう。それと同じ常識をこちらに押し付けられても困るのだが。

 今度愛生辺りに何か言っておいてもらおうと、そう八九郎が思った時だ。丁度帝の口からその愛生の名前が出た。

「そろそろ愛生のもとへ向かうか。花蓮とやらは病院に預けて護衛もつけたことだしな。今の愛生は、少し心配だ」

「えっと……なんだ?」

 状況が理解できず、八九郎は大きな疑問符を浮かべた。

「今朝、お前が襲撃されたこととも関係のあることだ。説明は動きながらしよう。立てるな?」

 正直、このまま休んでいたいと言うのが本音だったが、八九郎は帝に促されるままに立ち上がった。彼女が柄にもなく真剣な表情をしていたからだ。

 我王帝が笑っていない。

 それだけでも現状が決して楽観できるものではないことは容易に想像がついた。

 八九郎は気を引き締めながら、しかし彼女の変わりとでもいうようにその顔に不敵な笑みを浮かべる。

「教えてくれよ。俺はどこのアホにアホみたいにやられたんだ?」

 その頃、愛生は驚きの連続である今朝から一番の驚愕を受けていた。

 自宅マンション。リナリアが一人で待っているはずの自分の部屋。

 だが、一人多かった。いないはずの一人がそこにいた。

 見慣れぬ男がそこにいたのだ。


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