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我王帝の数分の暗躍

 午前七時二十分

 そこはラボラトリのあるビルの屋上だった。普通は立ち入り禁止となっているその場所に男が一人。細身の黒いパーカーを着て、フードを目深に被ったその男は妙にごつごつとした双眼鏡を片手に遥か地上を見つめている。

 このビルはいくつかの学校や塾などが一緒くたになった地上三十七階、百六十メートルもの高さを誇る建築物だった。

 地上百六十メートルの高さから男が双眼鏡で見つめる先にあるものは低く平たい建物だ。隣接した広場のような場所の中心には若い松の木が植えられている。それを取り囲むようにして幼稚園から小学生くらいまでの子供たちが思い思いに遊んでいる。男の視線が捉えるのは建物でも広場の松でも子供達でもない。小さな園児に混ざるようにしている三人の大人の女性たちだ。

 一人はエプロン姿に穏やかな微笑を浮かべた見るからに保母さんといった風貌の女。

 その女に寄り添うようにして隣に座る犬の尻尾のような茶色のポニーテールの女。

 そして最後は男の子たちと一緒に走り回る長いツインテールにぐるぐる眼鏡、白衣を着た嫌に目立つ女。

 ポニーテールとツインテールの女は大人と呼ぶには些か成熟しきれていない体をしているが(特にポニーテールの女の胸は周りの園児たちと殆ど変らないように見えた)、報告通りなら確かにあれは十代後半と二十代後半の立派な成熟した女性だ。

「まあ、どんな胸をしていようと個人の自由だからな……」

 ちょっと自分でも何を言っているのか男には理解できなかったが、戯言を吐く横で頭の中では確実に事が進みつつある。

 それはあの三人の女の殺害。それが男が自分の上司から与えられた任務だった。

 今回の作戦は珍しく共同作戦だった。すでに仲間たちからの報告で裏方八九郎の殺害が済んだことも知っている。他のターゲットの殺害報告は聞かないが、自分も急いだ方がいい。今回の任務、明確な作戦があるわけではないが、可能な限り同時刻に行うようにとの指示を受けている。

 奇襲、強襲を持ってして他のターゲットに情報が漏れる前に速やかに殺害を終えよ。

 それが男の役割であり、この任務についた同胞たちの共通の目的だった。

 奇襲。強襲。暗殺。それは男が最も得意とするものでもあった。

「着弾ポイント確認。角度修正。風速計測……」

 双眼鏡を覗いたまま男の口からはまるで機械音のような言葉が溢れる。

「風速による着弾地点の影響を計算――終了。誤差修正。最終着弾ポイント確認。最大誤差0.3mmで着弾予想……」

 そこまで呟いて、男は双眼鏡から目を離し、代わりにというように右手を二、三度握ったり開いたりを繰り返す。すると瞬き程度の一瞬の後、男の手には古めかしい装飾のついた白い短槍が握られていた。

 これが男の持つ超能力《心臓貫グングニルき》だ。能力によって生み出された短槍を投擲する。はっきり言ってしまえばそれだけの超能力だ。しかし投擲された槍の着弾地点は完全に能力者のコントロール下にあり、ミリ単位での調節も可能。今のようにあらかじめ着弾地点を計測し設定してやれば、目視不可能な位置から相手の心臓を一突きすることのできる強力な超能力になる。

 目立つような力はないが、しかし目立たない分だけこういった状況に優れているのだ。

 なに、簡単なことだ。

 一回目の投擲でまず獣化能力者であるポニーテールの心臓を貫き。

 二回目の投擲で眼鏡の女を殺す。

 最後に残った一人を始末すれば、任務完了。あとは目立たないようにこの場を去るだけだ。

 誰に見つかることもなく、全てが終わる。

 他愛もない仕事だと男は思う。それでいて、報酬は破格だ。

「こんな上手い話は、他にないな」

 にやりと笑って、手にした槍を投擲しようと振りかぶった瞬間だった。

「おいおい。なんだ貴様は。子供を見つめてニヤニヤしおって変態か」

 そこにいてはならない誰かに男は声をかけられた。

 声の方向は後ろ。驚愕と共に振り返れば、そこにいたのは黒ずくめの女。パンツルックのダークスーツに赤いリボンのついたハットをかぶり、長身とそれに見合った驚く程長い脚を絡ませるように立ち、妙なポーズでこちらを指さしている。

 整った顔に似合わない無邪気な笑みをたたえて女は続けた。

「この王ですらドン引きだぞ。私は寛大だから民の個人的趣向にとやかく言うつもりはないが、それでも場所は弁えろよ。あそこは私のお気に入りだ」

「な……!」

 驚愕と絶望。そして単純な疑問に男の思考は埋め尽くされる。

 男はこの女を知っていた。今回の作戦には直接関係はないが、しかし不確定要素として全員に告げられた名前。

 その名前こそ、今目の間にいる彼女を表すものに他ならない。

 何故、どうして奴がここに……!

 怯える男に向かって、女は強い口調で告げた。

「まさか! まさかとは思うが、もしも貴様があの子供たちに発情していただけではなく、そう例えばその槍などで危害を加えようとしていたつもりだったとすれば…………王として、それは許しがたい行為であるぞ」

 女の名前はあまりにも有名だった。

 世界最強《帝》。

 世界中の超能力者の頂点に君臨するフェーズ7。

 その存在を知らぬ者はいない。

 その名を口にしなかった者はいない。

 自らを王と名乗る絶対の君臨者。

「どうなんだ? 貴様は反逆者か? それともただの変質者か……?」

 帝は笑みを消した表情でこちらに問いかける。男は自分の体が震えるのを感じていた。そもそも自分は暗殺や奇襲専門で、こんな風に面と向かった戦闘などしたことはない。その初の相手が世界最強の能力者だ。勝てるわけがない。

 自分はこのまま殺されるのか。

 そう思った瞬間、思ってしまった瞬間だ。男の体を恐怖が支配し、まるで錯乱したかのような叫び声と共にがむしゃらに手にした槍を投擲した。

「刺し貫け! 《心臓貫グングニル》き!」

 詠唱(キーワード)と共に放たれた一撃。人間の骨など用意に貫くその一撃を、なんと帝は片手の甲で払いのけたのだ。それもまるで、よってたかるハエを払うかのような軽々しさで。

 目の前で起こった現実が信じられなくて、男は言葉を失くしたまま固まる。そんな男を見据え、帝はその表情に酷く楽しそうな笑みを浮かべた。

「王の友人に敵意を向けるだけでなく、私に刃を突き立てるか! 許しがたい! 非常に許しがたい行為だぞ貴様!」

 言葉とは裏腹に帝は心底楽しそうに笑って見せる。

「反逆者でもなく変質者でもなく革命の者だったか! いいだろう。貴様の革命を王は許す。その意志に私もまた応えようじゃないか!!」

 フーッハッハッハッハッハッハッハッハッハ!

 王の笑う声。それを聞いたのとほぼ同時、男は自分が帝に抱えられたことを知る。

 帝はそのまま屋上の端まで走って行く。

 嫌な、予感がした。男の口がその予感を語る前に帝が言う。

「貴様の革命の意志に応え、私は気高く――――高い意思を示そう!」

 帝は走る勢いを抑えることなく、走り幅跳びの要領で男を抱えたままビルの屋上から空中へと飛び出した。

 その気高き意志とは簡単に言って、地上百六十メートルからの自由落下だった。

 朝のラボラトリに男の絶叫が響き渡る。

 午前七時二十一分

 平和ねぇ、と亜霧は晶子の隣でお茶を飲みながら一人呟いた。それに続けるようにして、晶子もまた平和だわぁ、と言った。

 亜霧がいるのは様々な事情で親からの経済支援を受けられなくなり、通常の学校に通うことのできなくなった子供たちを引き取るラボラトリの養護施設。前からの知り合いであった晶子が運営するその場所は先日の裏方八九郎の完全管理計画の人質に捕られた場所でもある。亜霧は詳しくは知らないが、愛生や帝などのおかげで施設解体を免れてからは実に平和な日々が続いていた。

 施設のため子供たちのため、走り回った日々が嘘のようだと、亜霧は今でもたまに思うことがある。こうして晶子と並んでゆっくりとお茶を飲むだなんて、夢のようだと思うのだ。

 二人の視線の先には子供たちと、施設の恩人であるところの鋤崎小石が一緒になって遊んでいる。最近、鋤崎はよく仕事サボって子供たちと遊びに来るのだ。遊びたい盛りの子供の相手をしてくれるのは助かると言えば助かるのだが、ただでさえ元気な子供たちが元気な鋤崎に感化されて更に元気になってしまうため、鋤崎がいる時は晶子も亜霧も遠目に眺めることしかできない。それはそれで寂しいものがあるなぁ、なんて思うこともあるが、彼女たちの一挙一動は見ているだけでも楽しいので結局暇はしないのである。

「いい天気ねぇ」

 そう言って、空を見上げる。天気は晴天。昨日もこういて晴れたらよかったのにと、少しだけ口を尖らせる。

「ん?」

 すると、亜霧の視界に何か黒い点のようなものが見えた。それは段々と大きくなり、輪郭をはっきりさせてきて――――次の瞬間、亜霧の目の前に気絶した男を抱えた帝が着地した。

 爆発音のような音を響かせ、土埃を大きく上げるほどの暴風を巻き起こしながらの着地にも関わらず、地面がへこんだり帝自身にダメージがある訳でもなく、それこそちょっとした段差から飛び降りたくらいの顔で、帝ははるか上空から亜霧の前へと降り立った。

 騒然とする施設。さっきまできゃっきゃとはしゃいでいた子供たちや鋤崎もみな口を開けたまま固まっている。

「おお、佳苗。晶子。久しぶりだな」

 場の空気が読めていないのか、帝はケロッとした笑顔で二人に話しかける。

「なんだ小石もいるのか。子供たちも、全員久しぶり。と言ってもこの前来たばっかか? まあいいさ。せっかく会えたんだからオシャレなケーキ屋でガールズトークでもしたいところだが生憎と今はちょっと立て込んでてな。ちょっと用事があってラボラトリに帰ってきたら管理会絡みでおかしな動きがあってそれを追っかけてたらお前らを殺そうとしている男を見つけて捕まえた所なんだ。実は私このパーカーには見覚えがあって多分これは組織的な犯行でもしかしたら愛生とかも狙われているかもしれないからちょっと走って行って助けてくる。全部終わったらケーキを食べに行くから予定を開けておけよ」

 早口でまくしたてるように言うと、帝は全員に向かって手を振ってそれを最後に姿を消した。巻き起こった風と踏み込みのさいについたであろう靴の跡が彼女が本当に言葉通りに走って行ったことの証明だったが、その場にいた誰一人走り出した彼女の姿を目視できた人間はいなかった。

 突然現れて、突然消えた。

 さすが愛生くんのお母さん……。

 亜霧が妙なところで納得している横で、晶子が穏やかな微笑のままお茶をすすって一言。

「ほんと、平和だわぁ」

 午前七時二十三分

 愛生とその周辺人物たちの中で着々と異変が起こりつつある時間。桜庭千歳は自宅のベッドの上で優雅な二度寝を決め込んでいた。

 七時前に一度目は覚めたのだが、そこから今まで寝ているとも起きているともわからない、うつらうつらとした幸せな時間を送っていた。ただ、少し前ならば文句のない最高の時間のはずだが、現在の愛生の家の豪華さを知ってしまった身では満足しきれなくなってしまっている。

 家が狭いのは構わない。唯一であり絶対の問題はベッドだ。

 あそこのベッドは最高すぎます……!

 程よい硬さのそれは横になればゆったりと沈み、モフモフとした羽毛の掛布団にくるまれば、まるで全身を暖かな優しさに抱かれているような感覚を覚える。肌触りの良いカバーの付いた枕に頬を擦り付けて寝ればそれはもう極上の安眠を得られるというものだ。

 そんな素晴らしいベッドを知ってしまうと、自分の家のベッドが酷く侘しいものに思えてしまう。なんだこのペラペラ。こんなものはただの布だ。優しさなんて微塵も感じない。諦めと妥協に抱かれている気分だ。

 いっその事、愛生と一緒に住んでしまうのも手でしょうね。

 自分用の部屋も用意されているし、すでに滞在用の衣類パジャマもいくらか持ち込んでいる。最近の愛生の料理レベルは中々のものだし、食事面でも不満はない。リナリアと一緒というのも楽しそうだ。愛生も嫌がったりはしないはずだ。

 最近妙に愛生の周辺に女の影を感じますし、丁度いいかもしれません。

 特にあの子犬のようなポニーテール。あの胸のない女だ。女どころか男友達の影すら感じさせなかった愛生の横に突然現れた、同じクラスの女の子。まああの絶壁に愛生がなびくとは思えないが、しかしあの幼なじみは極度に他人に甘い男なのだ。自分の中の厳しさを全て己に向けたような彼ならば、押し切られて流されて間違いを犯してしまう可能性もある。

 そうならないためにも、幼なじみの当然の権利として、愛生の監視のために同居という選択肢も考えておくべきなのかもしれない。

 何がどう当然なのよ! という貧乳女のツッコミが聞こえるような気がしたが、それは幼なじみにしかわからない理屈なので説明するつもりはない。つまりナイチチの入る隙はないので大人しくその辺でガルガル言っていればいいのだ。

 と、そこまで考えて千歳は思考を止める。やめだやめだ。これ以上あの女のことを考える必要はない。そりゃあ悪い子ではないけれど……と、言い訳のような考えを最後に千歳は再び夢の世界に旅立つ。

 が、出発間もなくに

「じゃまするぞ~」

 と言いながら鍵がかかっていたはずの玄関からなんの断りもなくさも当然のように入ってきた帝の来襲に千歳はたたき起こされた。

 というより起きざるを得なかった。うとうとと覚醒前の状態で突如強引にお邪魔されて、しかも入る直前に「バキッ」と何かが砕けるような音も聞こえたのだ。これで起きない人間はいない。千歳は柄にもなく、

「きゃー!」

 なんて普通の悲鳴をあげてしまった。

 今のは愛生には聞かせられません……。

 頭の片隅でそんなことを考えながらも、意識は完全に帝の方へ。

 幼なじみの義理の母。彼女の傍若無人っぷりは千歳の知るところでもあるが、流石にこの突然の来訪には驚いた。

 ベッドから飛び起きシーツを握ったままポカーンと立ちすくむ千歳。

 そんな千歳を意にも介さず玄関から部屋の中にズカズカと侵入する帝。彼女の腕には見たこともないペアルックの男が二人、気を失った状態で抱えられていてますます千歳は混乱する。

「ちょ、ちょっと帝さん!」

 机の上から眼鏡を取って装着。クリアになった視界で帝に詰め寄る。

「一体、なんなんですか!? 鍵は? その男たちは? 今何時だと思っているんですか!?」

 意識がはっきりしたことで次々と文句にも似た疑問が溢れ出す。帝はその端整を無邪気に歪ませて最後の質問から答えた。

「今は七時二十四分三十二秒ってところか。この男たちは片方は小石や晶子や佳苗の命を狙っていた能力者で、もう片方はお前を殺そうとしていたやつだ。玄関前で何かしようとしていたのを今捕まえた。そうそう鍵はもう少し丈夫なのに変えておいた方がいい。ちょっと押したら壊れてしまった」

「は? え、えぇ……?」

 いっぺんに様々な受け入れがたい情報を与えられ千歳の混乱は回復どころか悪化の一途。

 命、殺す、壊した……?

 言葉の断片だけでも物騒な雰囲気を感じる羅列だ。ポニテの方を狙ったという男がこの世の終わりのような顔で気絶しているのも相まって、とてもこれからいい話がでるとは思えない。

 とにかく一度落ち着いて、ゆっくり一つ一つきちんと話してもらおうと思った千歳に向かって帝は言い放った。

「お前相手なら一気に言葉にしても大丈夫だろう。少し愛生に用があるから電話を繋いでくれ、愛生が出るまでの間、三コールで状況は全部説明するからよく聞いておけよ」

 どうやら、落ち着く暇もないようだった。

 午前七時二十五分

 千歳からの着信。愛生が慌てて応じると、通話ボタンを押したと同時に携帯の向こうから彼女の声が聞こえた。

「愛生! 愛生! 大丈夫ですか!?」

 焦ったような声。それはこちらの状況をある程度理解しているもののようだった。そうなると、愛生の方こそ彼女を心配しないわけにはいかない。

「僕は大丈夫だ。だけど、千歳の方は平気なのか? まだ大丈夫だったとしてももしかしたらこれから襲撃されるかもしれないぞ!」

 新泉は言っていたのだ。関係者は全員殺す。それが何に関係している人物かはわからないが、愛生が関わっていたことならば必然的に千歳が関わっている可能性も高い。

 愛生の心配する声に千歳は神妙な声で答えた。

「いえ、すでに安眠と家の鍵に多大な被害が出ています」

「家の鍵だって? 部屋の中まで侵入されたのか!」

「はい。帝さんに」

「帝さんっ!?」

 思わず裏返った変な声が出てしまう。千歳の言っている状況が理解できず唖然とする愛生をよそに彼女は憎々しげな言葉を吐く。

「全く朝からとんだ災難ですよ。安眠妨害に住宅破壊。おまけに三コール、大体十秒ほどで事態の全てを説明されて、朝から超能力フル活用ですよ。この人本当に十秒で説明するから私じゃなかったら理解なんてできないですしというかそもそも人の家の鍵を簡単に――――って帝さん! まだ私の愚痴は終わってませんよ! 長々と文句を叩きつけて愛生を困った顔にしないことには私の怒りは治まったりはしないのですよ!!」

 がちゃがちゃと携帯を奪い合うような音が響く。そこまでの間を開けることなくけろっとした帝さんの声が聞こえた。

「私だ」

 たった一言。名を名乗る訳でもなく帝は言った。後ろの方からは千歳の抗議の声が聞こえてくるが、それは意識の外に外しておいた。

「帝さん。一体、何が起こっているんですか?」

 新泉から得た断片的な情報だけでは正確な状況判断がつかない。とにかく何か話を聞きたかった。特に、関係者というのがなんなのかを。

「管理会の組織が動いている。連中は〝リナリア〟の関係者をとにかく全員殺すつもりらしい」「リナリア、の?」

 一瞬、愛生の思考は完全に停止する。

「こちらで小石、晶子、佳苗、千歳は救出した。リナリアと宝守はマンションにいるはずだから安全だ。あとは八九郎だけだ。あいつが死ぬとは思えないが、一応私が確認しにいく。時間が惜しいから詳しい話は千歳から聞いてくれ」

 停止した頭に帝の言葉が入り込む。返事をするよりも先に帝は何も言わずに八九郎を探しにいったようで、次に聞こえたのは不機嫌そうな千歳の声だった。

「全くあの人は、嵐かなにかなんですか」

 嘆息しながら、これは困った顔にするだけでは済みませんねと物騒なことを言う千歳。そんな彼女の言葉は愛生の耳に入るだけで殆ど聞こえてはいなかった。愛生の意識は別のものに完全に奪われている。

 嫌な予感がしたのだ。帝はリナリアの関係者と言った。しかし彼女の秘密を知る愛生や千歳ならともかく、小石や佳苗。晶子まで狙われたのは行き過ぎではないのだろうか。八九郎がリナリアについてどこまで知っているのかはわからないが、あの三人、特に晶子はリナリアの抱える秘密については全く何も知らないはずだ。リナリアのことは愛生の連れる女の子だという認識でしかないはず。それにそもそもリナリアと晶子にそこまでの接点はないはずだ。元々口数の少ないリナリアだ。一言二言話しただけの関係に過ぎないのではないか。

 にも関わらず、晶子さんも亜霧さんも狙われた……。

 それに帝は宝守のことも敵の標的の一人であるかのように話した。つまり帝が把握している標的の中に宝守や晶子たちも確実に含まれているということだ。

 敵は本当にほんの僅かでもリナリアと接点を持った人間を残らず殺害しようとしている。

 それがわかったところで愛生の漠然とした嫌な予感はなくならない。むしろそれは一層濃さを増すようで。自分の心音が不安感を煽るようにドクンドクンと鼓動していた。

「どうしましたか、愛生?」

 全く反応がないことを怪訝に思ったのか、千歳は少しだけ心配するような響きで尋ねる。が、愛生はそれに上手く反応できない。鼓動の音だけが段々と大きくなっていく。

 なんだ。何かを見落としている気がする。気づかなくてはいけない、だけど気づきたくない何か。忘れたかった何かだ。

 あとは八九郎だけだ。

 帝はそう言った。それはつまり、残された標的はあとはもう八九郎だけということになる。だけど、それは……

 帝さんの知っている範囲での話だ!

「花蓮ちゃん!」

 彼女の名前はすぐに出てきた。声に出して叫び、そのまま携帯を放り投げて愛生は走り出す。

 どうして、どうして気づかなかったのだろう。帝さんの知らない関係者の存在に。

 鋤崎や晶子が狙われるのだとしたら、花蓮が狙われる可能性だって十分にある。

「はっ……はっ…………」

 息を切らしながら、愛生は走る。ひたすらに手足を振って走り続ける。焦る思いが前に出るように体は前傾し、それになんとかついて行こうと足を前へ前へと動かした。心臓の鼓動が早くなるのは疲労と焦りと恐怖によるものだろう。

 自分が襲われてからすでに五分は過ぎている。

 間に合うのだろうか。いや、間に合わせるしかない。

 不安を払いのけ、愛生はただ走った。

 しかし事態は最悪の方向へと転がり始める。

 愛生がたどりついたその先に、夢井花蓮が血を流して倒れていた。


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