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強襲~名もなき組織~

 プールで遊びぬいた次の日の朝。愛生はベッドの中でゆっくりと目を覚ました。枕元の時計はまだ七時を指したばかりだった。今までの夏休みの堕落した生活を考えれば、随分と早起きだ。

 まだ昨日の疲れは残っているものの、リナリアに合わせて早く寝たせいか、すでに完全に目は覚めてしまっていた。しかし当のリナリアはまだ掛布団に包まるようにして夢の中の様子。起こさないようにゆっくりと、足音を立てないように愛生は部屋から出てリビングへ。

 手を上に上げて思いっきり背のびをすると、睡眠中に固まっていた体からパキパキと音が鳴る。上げた手を下ろせば、程よい疲労感と脱力感。

 遊び疲れなんていつ以来だろ……。

 ぼんやりとした頭の中でそんなことを考えながら、愛生はふらふらとキッチンに向かう。中から牛乳を取り出そうと冷蔵庫を開けて、パックを手に取るが、殆ど中身が入っていない。そういえば、パンもきらしていたはずだ。簡単な朝食も作れそうにない。買い物ならスーパーが開くのをまてばよいのだが、しかし愛生は若干小腹が空いていた。

「……コンビニにでも行くかぁ」

 我慢できないほどの空腹ではないが、我慢しなければならない理由もない。軽くサンドウィッチなんかで朝は済まそうと考え、愛生は残りわずかになっていた牛乳をパックに口をつけて飲み干した。

 午前七時二十分

裏方八九郎は一人朝のラボラトリを歩いていた。眠たそうに、また気怠そうに欠伸を繰り返している。

「あー……めんどくさ」

 その呟きを聞く者はいない。学生寮の立ち並ぶこの地区の夏休みの朝はいつもこんな風に人通りが極端に少ない。せっかくの休日に朝から出かけようという学生はそう多くはないのだろう。

 八九郎だって、せっかくの休みの朝に率先して出かけたいと思っていたわけではない。しかし出かけなければならない理由があったのだ。今日は月に一度の定期検診の日なのだ。

 ラボラトリに住まう超能力者はある程度のフェーズを持つ者や稀少性の高い能力だったり、問題を抱えていたりする場合は特定の施設での定期検診が義務付けられている。特定の施設とは大抵その能力者が初めて検診を行った場所や研究者のいる施設だ。

 八九郎の場合、それは両親を殺してしまった自分を幼少期から育て上げたあの施設に他ならない。

 超能力研究特別区域第7研究所。

 八九郎が覚えている一番古い記憶のある場所であり、青春の殆どを過ごした場所でもある。

 来年には卒業を控えた八九郎だが、ギリギリまでこの検診は続くらしい。八九郎としては足を運ぶのがなんだが躊躇われる場所なので、少しだけ憂鬱だった。

 八九郎と施設の関係を知っていれば、当然とも言える反応。しかし、八九郎本人は未だに施設やその内部の人間についてどういう感情を抱いていいのかわからないでいる。

 別に恨んでいるわけではないんだよなぁ……。

 両親の死や自分の出生を故意に隠されていたことに関しては怒るべきなのだろうとは思う。その情報操作のせいで八九郎は勘違いを抱くことになったのだから。しかし、施設の人間たちが自分に優しくしてくれて、面倒を見てくれたことも確かなのだ。例えそれがフェーズ7という存在への恐怖からくるものだったとしても、事実は事実だ。彼らが自分のためにしてくれたことはきちんと覚えている、

 八九郎はその姿や目つきの悪さ、ぶっきらぼうな口調から勘違いされることが多いが、感情ではなく理性で物を見る人間だ。一時期は感情を殺すようにして生活していたせいか、どう思ったかよりも何があったのかで考えるくせがある。

 だから八九郎には施設の人間を恨むことができない。彼らがしたことは八九郎にとってプラスになることの方が多いからだ。

 しかしそうだからといって、手放しで好意を持てるわけでもなく、八九郎はいつも定期検診の度にこうして悶々とした気分で施設に向かうことになる。

 いっそのこと、理不尽でもいいから怒った方が楽なんだろうけどな……。

 そういう上手い感情の吐きだし方を八九郎はまだ知らない。

 晶子さんに聞くのは恥ずかしいし、今度亜霧にでも教えてもらうか。

 あいつならよく知ってるだろ。いつも怒っているし、と割と失礼なことを考えていたその時――――。

 最初、重心が急に傾いたのがわかった。

 今まで真っ直ぐ歩いていたはずが、突然地面ごと傾けられたかのような感覚。

 続いてやってきたのは「パァン」という何かが炸裂するような軽い音。

 それとほぼ同時に赤い飛沫が視界に入る。

 それが自分の血液だということがわかるのは一瞬遅れて――――声が驚きを示すよりも前に八九郎は焼けるような熱を持ったアスファルトへと倒れ込んだ。

 衝撃。

 アスファルトの熱と脳が揺れる感覚が同時に襲う。わけもわからず、とにかく立ち上がろうとして八九郎は自分の腹部……丁度右脇腹の辺りから血が流れ出ていることに気づいた。何が起こったのか確認するかのように脇腹をまさぐる。

 痛みは感じていた。しかし現実に理解が追い付いていないのか、その痛みはまるで他人事のようにも思えた。服の上から血が染みている。あっという間にまさぐっていた手は血まみれになった。前からの確認を終え、今度は手を後ろに回してみる。穴が開いていた。服にも、そして自分の体にも。

 八九郎の思考は理性的な判断を下す。自分はきっと撃たれたのだと。

 服と、脇腹に開いたさほど大きくはない穴。何より遅れてくるように聞こえたはじけるようなあの音は、よくテレビでも聞く銃声に他ならない。

 間違いない。俺は撃たれた。

 ここで、八九郎は後ろを振り向いた。前方に人の姿が見えなかった以上、自分を撃った人間は後方にいると判断したのだ。

 この時八九郎が、自分が撃たれた事実よりも撃った人間の方を気にかけたのは愛生や帝などの戦いを知る者たちとの戦闘による僅かな経験によるものだ。

 その判断こそ間違ってはいなかったが、しかし後方には人影が見当たらない。誰もいなかったのだ。八九郎の視界にはいつもと変わらない施設への道にしか見えない。

「畜生! どこだ! どこに隠れた!」

 自分を撃った何者かは銃撃と同時に姿を消した。八九郎はそう考えた。ここでスナイプ、狙撃という可能性にまで頭が回らなかったのは単純に八九郎の経験不足によるものだ。愛生ならば銃声が明らかに遅れて聞こえてきたという時点で狙撃だと判断するだろうし、帝ならばそもそも狙撃されてもたいして気にもかけないかもしれない。

 しかし今のが自分を狙った銃撃ではなく狙撃だということには気づかなくても、八九郎は冷静だった。冷静に状況を理解しようと必死だった。

 攻撃の理由や意図はわからない。ただはっきりしていることは――――

 こいつを撃ち込んできた相手は俺の弱点を知っていやがる……。

 ラボラトリ最強と呼ばれる裏方八九郎の超能力。しかしその力は決して万能ではない。炎を操り、熱を操り、体温の上昇と共に強化能力までも発動させる《熱機関オーバーエンジン》の名にふさわしい超能力だ。しかしその能力の真髄であるところの《強化》は体温が上昇しなければ発動することはないのである。通常時の平温の八九郎はその辺の普通の人間となんら変わりがない。銃弾を防ぐことも避けることもままならないのだ。

 それを相手は知っていた。だからこそ八九郎に対して唯一有効な攻撃手段とも言える奇襲を仕掛けたのだ。

 だが、爪が甘いと八九郎は思う。その奇襲の、最初の一撃で自分を殺さなかったことで、すでに相手は自分を殺すタイミングを失ったのだから。

 フェーズ7の八九郎の実力ならばほんの一瞬で体温を一千度にまで跳ね上げることも可能だ。それだけの体温を確保することが出来れば全方位型の強化を可能とする八九郎の力なら銃弾なんてもう利きやしないし、腹部の負傷も傷口を塞ぐくらいならできるはずだ。

 背中の方向にしか弾痕がないことから銃弾は貫通せずに八九郎の体の中に残っているはずだが、それはあとでどうにかすればいい。ひとまず今は失血によるショックで死んでしまう前に傷を塞ぐことが先決だ。

 ここまでの思考にたったの数秒。八九郎は理性で持って次の行動を決め、痛みが現実として知覚されるよりも先に超能力を発動させた。八九郎の体温の上昇に伴い着ていた服が火を上げた。国から支給されていた耐熱性の服は先日の帝との戦いによりボロボロ。そもそも休日にまであれを着るような用心深さは八九郎にはない。あくまでも彼はラボラトリの一般生徒だ。

ただまあ下着だけは耐熱性のものにしておいてよかったと胸を撫で下ろしたのも束の間、近くにあった植木が炎を上げて燃えだしたのだ。大仰にため息を吐くが、多少の被害は目を瞑るしかない。とにかくこれで当面の危機は回避できたと、そう思ったその時だ。

「嘘だろ……おい!」

 八九郎は殆ど裸体となった自身の体に起きている異常を知った。

 腐っていた。撃たれた部分を中心にして脇腹がぐじゅぐじゅに、まるで肉が溶けだしたかのごとく〝腐敗〟していたのだ。

 上手く痛みを感じることが出来なかったのはこれが原因か……!

 腐敗は目に見えるスピードで広がっている。徐々に徐々に、右の脇腹全体を腐らせていく。明らかに異常だ。理解ができない。が、この理解のできなさは確実に超能力によるものだということくらいはわかった。

 これはただの銃撃ではない。超能力を用いた攻撃だったのだ。最初の一撃で殺さなかったのは、一撃さえ当てれば殺せる自信があったからだ。

「ぐ、うおおおおおおおおおおおおおおお!」

 八九郎は冷静に判断した。冷静に判断して、現状が非常に危険なものであると認識し、そしてなんとか腐敗を止めようと強化された腕力で自身の右の脇腹をごっそりと削り取った。

 べちょり、と嫌な音を立ててさっきまで自分の脇腹だった肉はアスファルトに叩きつけられる。なおも腐敗は治まることはなく、最終的にそれは腐った肉の塊へと変わる。それを見届けてから八九郎は獣にでも食われたかのごとくごっそりと肉のなくなった自身の脇腹を確認する。

腐敗は止まっていた。一か八か、殆ど賭けのような行動だったが、成功はしたようだった。

しかし、

「ちょっと、やばいかもな…………」

 体温は上昇した千度のまま。だがあまりにも大きく体を傷つけてしまった。回復が間に合っていない。これでは傷が塞がるよりも先に血が流れ出て死んでしまう。もうすでに多量の血が流れてしまったせいか、八九郎の意識は段々と薄れていく。

 駄目だ。意識が無くなれば能力が発動できなくなる……。

 血を失い死んでしまうよりも先に、もっと体温を上げて、強化を強くしなくては。

 頭ではわかっている。次に取るべき行動。

 しかしそれを実行に移すよりも先に裏方八九郎の意識は失われる。

「………………」

 最後に小さく何かを呟いて、八九郎は再びアスファルトへと倒れ込んだ。

 同時刻。近場のコンビニでレタスの入ったサンドウィッチとオレンジジュースを買った愛生は自宅までの帰り道を一人とぼとぼと歩いていた。

 まだ早い時間のせいか、人通りは極端に少ない。しかしそろそろ起きだす人が出てくる時間でもある。あと一、二時間もすれば通りを歩く人の姿もよく見かけられるようになるはずだ。

 それまではこの街もなんだか寂しいものだな……。

 一人そんなことを思いながら歩く愛生。その時だ。

「我王愛生だな?」

 寂しげな雰囲気を壊すような、甲高い声が聞こえた。

 瞬間、愛生は自分と二メートルほど離れた前方に一人の男が出現したのを見た。突然のことに一瞬思考が停止する。男の出現の仕方は物陰から出てきたとか、そういうレベルの話ではなかった。本当に突然、その場に現れたかのような……。

 テレポーターか?

 すぐに回復した思考は状況を理解しようと動き出す。男は耳障りな甲高い声で苛立ったように告げた。

「おいおい。こっちは質問してんだぜぇ? ちゃんと答えてくれよ。お前は我王愛生なのかよ」

「……だとしたらなんだってんだ」

 チームとのいざこざや八九郎との件もある。こうして愛生に突然話しかけてくる人間がこちらに対して友好的だったためしがない。実際、彼が答えたことは

「お前をぶっ殺す」

 という、敵意を包み隠さずに伝える言葉だった。

 愛生は深く、それはもう大きくため息をつくと、そのまま男に背を向けて走りだした。

「は? ちょ、待てってこの野郎!」

 後ろから男の抗議の声が聞こえるが、無視。三十六計逃げるに如かず。相手が何者かはわからないが、敵意を向けられた以上逃げるのが先決だ。このラボラトリに住まう人間の殆どが愛生よりもよほど強い能力者なのだ。前回八九郎の時は彼の真意を量ろうと様子を見たせいでピンチに陥った教訓もある。追い詰められる前に逃げるべきだ。

 だが、

「逃げても無駄だっつーの」

 気づけば男はまた愛生の正面に立っていた。いや、しかし今回はその起動がはっきりと見えた。この男は自分の頭の上を飛び越えたのだ。理屈はわからないが、確実に超能力による起動だろう。助走を行ったような音も聞こえなかったし、跳躍だけで人を飛び越えることができるだけの強化能力者か……なんにしてもテレポーターではないようだ。

 ただの強化能力者ならば、愛生にも勝機はあるかもしれない。帝や八九郎のような高フェーズの強化能力者は稀だ。大抵が戦闘になど役に立たない一般人よりも優れていると言うだけの者が多い。

 しかし問題は男が自分の名前を知っていたことだ。

 僕の名前を知っていて、僕を狙っている。

 八九郎の時と同じだ。そこに何らかの関連性を感じざるを得ないが……。だが狩場重正は死んだ。愛生が、殺した。彼女ではない。もとよりあの女は裏方八九郎の完全管理計画のついでの利益として愛生を狙っていたのだ。

 狩場重正ではない。しかしなんらかの関係性か、関連性のある人物の手か。それとも、もっと別の……。

「俺たちはよぉ。幻影団。ファンタズマゴリア。カーニバル。まあ呼び方はなんでもいいが、とある組織のもんだ」

「…………」

 聞いてもいないのにべらべらと貴重そうな情報を話しはじめた!

 今の一言だけでも集団であること、何かしらの組織であることがわかる。

 その時愛生は男が着ていた黒のパーカーに視線を奪われた。細身のそのパーカー。胸元によくわからない記号の刻まれたそれを愛生は見たことがある。

 あのテレポーターだ。僕と八九郎さんが廃墟群で戦った時、あの場へと連れて行った能力者が着ていたものだ。

 あの件に介入してきたものの、狩場重正の手先ではなかった者。その彼女が着ていたパーカーと同じデザインなのだ。どういうことだと愛生は頭を悩ます。八九郎との件では確かに狩場重正以外の人間の影を感じることもあったが、それが今になってどうして動き出す。

「まだ、終わっていないのか……」

 誰にも聞こえないような声で呟く。

「俺の名前は新泉。訳あって、お前を殺せと命じられてきた。悪くはないが、死んでもらうぜ」

「それは誰の命令だ」

 答えが返ってくるとは思わなかった。だが新泉あっさりとした表情で

「管理会。鏑木流のオヤジの命だ」

 そう答えた。

 また管理会か……。

 前回の件に介入した思惑は理解できないが、しかしこれで関連性ははっきりした。

「俺たち幻影団はオヤジが個人的に所持している傭兵団だ。今回は珍しく合同任務で、結構な数の仲間が動いている」

「僕の他にも狙っている人がいるのか……!?」

 新泉が漏らした情報に愛生の顔色が変えられた。

「誰だ! 誰を狙っている!」

「関係者だ。関係者全員を殺害せよ。それが俺たちに与えられた任務だ。今回の報酬はデカくてな、失敗するわけにはいかねぇのよ」

 そう言って、新泉は愛生を指さし再び尋ねた。

「だからしっかり確認する。お前は我王愛生か?」

 逃げるわけにはいかなくなったな、と愛生は新泉を見据えて考える。自分の知っている誰かが狙われている。とにかく情報を掴むか、この男を無力化しなくては逃げてはならない。

 自分には巻き込みたくない人がたくさんいるのだ。

「そうだ。僕が我王愛生だ」

「そうか、なら殺す」

 先に動いたのは愛生だった。まずは相手の能力を確認しなくては。対超能力者相手の戦闘でまず必要とされるのが相手の能力の解析。それがわからない内の特攻は相手が武器を持っているのかいないのか確認しないで戦闘を行うようなものだ。

 だからまず最初に愛生は持っていたコンビニの袋を投げた。中身はサンドウィッチとオレンジジュース。攻撃力などあるはずはないが、しかし突然目の前に何かを投げつけられたのだ。当然、反射的にそれを払いのけようとするはず。その際強化能力者なら普通の人間よりも早く的確に動くだろうし、サイコキネシスや火炎操作系の能力者なら手を使わずに袋を払いのけるだろう。幼いころから力と共に生きてきた超能力者はこうした反射や瞬間的な恐怖に対して能力で対処する場合が多いのだ。能力を使わなければ、投げつけられた袋に対して対処のできない系統の超能力だと判断できる。

 さぁ、どうする……!

 はたして新泉は能力を使わなかった。

 そして、その袋を払いのけようともしなかった。

 彼はただ黙って眼前に迫る袋を見つめていて――――その袋が顔を直撃した瞬間、新泉の頭部が吹き飛んだ。

「な……!」

 驚きは連続した。吹き飛んだはずの頭部が次の瞬間には元通りに戻っているのだ。

 回復能力……? いや、違う。

 先程やつの頭は明らかに自ら四散した。そうしてまた元に戻ったのだ。回復能力ではないしかし、なんだ。四散の仕方もはじけたり、潰されるというよりはまるで水の中に腕を突きいれたときのような、広がって、元に戻る動きに見えた。

「ヒャハハハハハハハ!」

 興奮したように、新泉は腹を抱えて笑った。

「その顔、何がなんだかわからねぇって顔だよな? だよな! いいぜ、教えてやる。冥土の土産だよーく聞いてろ!」

 そして新泉は自らの腕を愛生に向かって突きだす。愛生がその腕に警戒した瞬間、新泉の腕はまるでドロリと溶け出すかのように透明な水となり、しかし最低限の腕の形を保ったまま不自然な形に伸び始めたのだ。

「俺の超能力は流体変態チェンジドリップつってな。まあ端的に言えば自分の体を液状に変化させ、そいつを操ることができるのさ」

 言って、新泉は液状となった自身の腕をくねらせる。

「言っておくが、俺の能力はほぼ無敵だ! 打撃も斬撃も衝撃も俺の液状の体は全てを受け流す。一瞬で蒸発させられるほどの熱か、電流でもない限り、俺の実態を捕らえることは不可能だぜ!」

「べらべらと、よく喋る」

 呆れたように愛生は告げる。

「そんな弱点を宣言して、どういうつもりだ」

「余裕だよ。今この場に、俺を倒せる可能性は万に一つもない。水を蒸発させるほどの高熱を生み出すことは不可能だし、ラボラトリの電力は地下深くを伝っている。当たり前だが、コンセント程度の電流じゃあ、俺を倒すことはできないぜ。全身の電気分解を一瞬で促進するほどでなければなぁ!」

 こちらが一喋る間に十喋るような男だと愛生は呆れる。

 自ら不可能を示してくれるのは、わざわざ試す手間が省けていいのだが、しかし奴の言う通り能力的には無敵かもしれない。少なくとも、愛生にはどうすることもできないような気さえする。

「殺しのリストの中じゃあ、お前が一番の不確定因子だったんだぜ。前例も何もない妙な能力に目覚めやがって、対策が練れねぇ。だからこそ俺みたいな無敵の男がこうしてお前を殺すために現れたんだがな。適材適所ってやつだよ。俺なら、大抵の人間には少なくとも負けることはない」

 新泉は繰り返す。

「俺の能力は無敵だ。ま、お前が匿っている不死身の化け物ほどじゃあないがな」

 リナリアのことを知っている。

 その事実にも驚きはあったが、しかし愛生の耳には聞き逃せない別の言葉もあった。

「取り消せよ。あの子は、化け物なんかじゃない!」

「なんだよ。急に怒りやがって」

 不思議な顔をする新泉。愛生は怒りのままに駆けだした。左の義手の一撃を新泉の腹部に繰り出すが、

「駄目か」

 水のはじけるような音と共に新泉の腹部は液状となって四散して、またすぐに元の状態に戻ってしまった。新泉への怒りは本当だが、まだ冷静さを欠いているわけではなかった愛生はすぐにバックステップで距離を取った。

「無駄だっつーの。お前じゃ、俺の体に傷をつけることはできないんだよ」

 へらへらと小馬鹿にしたような口調で新泉は言った。

「おおっと、多分お前は今こう思っているだろ? お前だって、自分を傷つけることはできないくせにってな」

「……」

 愛生は何も答えない。が、図星でもあった。

 新泉の能力は水流操作系の上位互換と言ってもいいようなものだ。しかし多くの水流操作系がそうであるように、あれはよほど高フェーズでなければ人を傷つけるだけの真似はできない能力だ。

 だが新泉は楽しそうにそれを否定した。

「能力ってのはよ、使い方が大事なんだ。確かに俺のフェーズはいう程高くはねぇが、それでも人を殺すことは簡単だ。俺の水で口と鼻を塞いで、窒息させるんだよ。肺に入って、その場で実体に戻って肺を突き破ってやってもいい。いくらでも、お前を殺す手段はあるんだぜ」

 知ってるか、と新泉は下卑た笑みを浮かべる。

「自分の体が液状になって、口から、鼻から、喉へと侵入していく感触を。悲鳴で震える声帯の響きを全身に感じる快感をお前は知っているか? 知らないよなぁ。可哀そうに。お前はそれを一生知ることができないんだ」

「人を殺す感覚だけなら、知っている」

 嫌悪をあらわにした愛生の言葉。新泉はその憎悪に気づかないのか、わざとらしいため息を吐いてみせる。

「そうじゃねぇよ、俺が言ってるのはそうじゃねぇんだ。わかんねぇかなぁ……わかんないだろうな。ヒャハハハハ! ま、俺だって男相手に快感とか言っちゃうほどイカれてはねぇよ。だから普段は女殺す仕事ばっか受けてんだ。若い女だったりした時の興奮といったらそりゃもう極上だぜ!」

「もういい、やめろ。お前の話は聞きたくない」

「ああん? なんだよ、何キレてんだよ。安心しろ、お前顔だけなら女に見えなくもないからな。ちょっとくらいは楽しんでやるよっ!」

 その言葉を最後に新泉が自らの全身を液状に変化させた。着ている服までも対象なのか、その黒いパーカーごと透明な水に変化した新泉は愛生に向かって真っすぐに飛んできた。

 真っ直ぐに、しかしそこまでの速度はない。愛生はそれを体勢を低くすることで難なくかわす。

「てめぇ、避けてんじゃねぇぞ!」

 すると後ろから顔だけ実体と化していた新泉の怒号が聞こえた。その時点で先程から感じていた妙な感覚に愛生は確信を得る。

 こいつ、素人か。

 戦闘の訓練や経験も殆どないものだと思える。その能力の特異性の影響もあるのだろう。人殺しは経験しても殺し合いは経験したことがないと愛生は見た。

 真っ直ぐに突っ込んで、口から侵入して窒息死。それは確かに一撃必殺の攻撃だが、当たらなければ意味はない。全身を液状化させ、移動もできる奴の能力ならもっと上手いやり方もあったはずだ。そもそも最初に愛生の前に突然現れたのも能力を使って音もなく忍び寄った結果だろう。あそこで愛生を殺すことだってできたはずだ。というより、それが最善の策のはずなのだ。

 それをしなかったのは強者の余裕か、それともただの経験不足か。

 どちらにせよ、付け入る隙ならば逃す手はない。

 愛生はラボラトリに置いて自分が弱者であることを知っている。

 だからこそ、手は抜かない!

 試したい事もある。愛生はこちらを睨みつける新泉と対峙しながら、右腕で左の義手の手首を掴んだ。そしてそれを顔の前に持っていき、一度だけ深呼吸。

「満たせ……!」

 それは詠唱(キーワード)。己が内に語りかける言葉。愛生は己の《ダインスレイフ》に満たせと命ずる。

 愛生の言葉に従い《ダインスレイフ》はその禍々しい姿を愛生の胸から表し、左の義手にまとわりつく。直線的で角ばったその刺青のような黒は愛生の体を壊し、しかし同時に力を与える。

「死ねェええええええええええええ!」

 新泉が再び前進を液状と化して突撃を駆けてくる。愛生はそれを避けようとはせず、ただ眼前に迫る水流にあわせるようにして左の拳を叩きこんだ。

「がぁつ…………!」

 聞こえた呻きは新泉のもの。液状と化した彼の体を通り過ぎるだけのはずだった愛生の拳ははっきりと新泉の実体を捕らえ、殴り飛ばしたのだ。

 びちゃり、と液状の新泉が地面へと叩きつけられる。すぐさま上半身だけを実体化させた彼は右の頬を抑えている。

「ひあ、ひああ!」

 涙を浮かべた顔で執拗に何かを叫んでいたが、言葉にはなっていなかった。顎が砕けているのだろう。よく見れば顔は完全に歪んで曲がってしまっている。全身が液状だったためどこを殴ったのかは愛生にはわからなかったが、いい場所に入ったようだった。下手に側頭部や心臓の辺りに拳が当たっていれば死んでしまっていたかもしれない。一番最近の戦闘が八九郎とだったので、力加減を間違えてしまったようだった。特に今回は相手が突っ込んでくる勢いも強かったのでなおさらだった。

「ひゃ、なへだ! らんでおまれがぁ!」

 何を言っているのかはわからなかったが、何を言いたいのかはわかった気がした。

 新泉は、どうして自分を殴ることができたのかと聞いているのだ。

 その理由を愛生は話すつもりはないが、しかし別段難しい話ではない。単純に、新泉とその組織の連中が愛生の能力を見誤っていただけのこと。八九郎の時と同じだ。愛生の能力は単なる強化能力ではなく、攻撃対象に対する破壊能力。素早さでもなく守ることでもなく、壊すことに特化した力。熱や電気分解によってダメージを受けると新泉は自ら言っていた。つまりそれは液状化したその流体そのものを破壊する力があれば、ダメージは通るということだ。

 ならば、《ダインスレイフ》の発動した愛生に殴れないはずがない。

 もしかしたらいけるかも、という小さな期待で行った行動だが正解だったようだ。

「はぁ……」

 愛生は緊張の糸を解き、一つ息を吐いた。一応、《ダインスレイフ》は発動させたままだが、あまり警戒する意味もないだろう。こちらの攻撃が通じるとわかった以上、この素人に愛生が負ける理由はない。

 とにかくこいつから情報を聞きださないと。

 そう思った、その瞬間。新泉が全身を液状化させたのだ。三度攻撃が来るのかと愛生は構えたが、しかしそうではなく……液状となった新泉の体はすぐ近くのマンホールの隙間から下水道へと姿を消し――――そのままの体勢で愛生はしばらく待機していたが、新泉がまた愛生の前に姿を現すことはなかった。

「逃げた、のか……?」

 たった一撃、攻撃を受けただけで逃走した。その思い切りの良さは戦略的撤退と言えなくもないが、あの男の場合はただ恐怖に駆られて逃げ出しただけだろうと愛生は嘆息。

 ただ今のでわかったが、あの男の超能力は打破することはできても拘束することはできない類いのもののようだ。もともと情報を聞き出すのは難しかっただろう。

 情報を聞き出すことはできなかった。さて次はどうするかと思考を始めた。すると、まるでタイミングを見計らったように愛生の携帯の着信が鳴る。流行りのものらしいその曲が告げる意味は、千歳からの着信だった。


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