過ぎる日々は穏やかに
「幻影人現る!?」「死んだはずの人間が!?」。タイトルだけで一目で胡散臭いとわかる記事が並ぶ雑誌。愛生が手にしたこの雑誌の名前は『月刊都市伝説』。友達作りのためにまず話題を知るべし、と亜霧から渡されたものだったが、愛生は半分も読まない内に断念しそうになっていた。都市伝説そのものに興味がないわけではない。しかし、ラボラトリのものとなると別だ。一見あり得なさそうな記事ばかりなのだが、この街ならばもしかして……という思いもあり、なんだか読むのが怖くなってしまうのだ。考えすぎかもしれないが、その恐怖に関係なく少なくとも現時点で面白いと思うような記事は載っていないことは確かだった。きちんと読んでおかないと、亜霧に怒られる未来がすぐに浮かんだが、辛抱できなくって結局雑誌を閉じてしまう。これは夏休みをかけて少しづつ読むことにしよう。新学期までの宿題だ。
その日は八月の一日。テレビで家族連れや学生で賑わう夏休みの海やプールの映像が毎日嫌味なほどに垂れ流されている頃のことだ。
愛生は自宅にて大量の女物の水着に囲まれていた。赤、青、緑。リビングの床を埋め尽くす色とりどりの水着たち。愛生も年頃の男の子であるので、水着売り場に立っているだけで居心地が悪くなるくらいの苦手意識のようなものを水着に対して持っているが、さすがにここまでの量になると何も感じなくなってしまう。こんなもの布じゃないかと、身も蓋もない意見も自分の中で生まれつつあった。
そもそも亜霧から借りた雑誌を思い出したかのように見始めたのも、バツの悪さが原因だ。他のことをして、気を紛らわせようとしたのだ。そしてこんな思いをしているのは愛生だけではなかった。
愛生の座っているソファの正面。座布団の上に正座で座っている壁のような巨大な体躯の中年男。名を護堂。王の臣下にして、愛生のことを恩人と慕う裏世界では名の知れた喧嘩屋だ。大量の水着に囲まれ護堂はちょんまげのようにも見えるモヒカン頭をぽりぽり掻きながら、傷だらけの顔を崩していかにもバツが悪そうに笑っていた。
大量の水着に、護堂さん。
どうしてこんなことになったんだっけなぁ、と愛生は苦笑いと共に思い出す。
+
事の発端は一週間前にさかのぼる。夏休みに入り、どの学校も長期休みに入るが、ラボラトリの生徒たちの殆どは実家に帰ることもできない未成年の能力者ばかり。よって休みの期間中はただでさえ少ないラボラトリの娯楽施設は人で溢れかえる。混雑は嫌だが家にいるのももったいないという人らで娯楽ではない施設さえも溢れかえり……つまり結果的に夏休みのラボラトリの街は連日人で埋め尽くすのだ。コンビニに出ただけで同級生と合い、そのまま遊びに行くなんてこともざらにある(愛生は友達が少ないので経験はない)。
人、人、人で埋め尽くされる街に混雑を嫌う愛生は出かける気になれず。リナリアがいるから人混みは避けるべきだよなーなんて言い訳のように呟きながら自堕落な日々を送っていたが、そんな中千歳がプールに行きましょうと来襲。今年は無理だと言うと途端に不機嫌になってしまった。かなり本気で怒っている証拠に、いつものような辛辣な言葉を浴びせるでもなくただ黙ってしまったのだ。もしかしたら僕は殺されるかもしれないからもしそうなったらリナリアを頼む、と半分本気で宝守に相談してみたところ、キョトンとした顔で
「えっと、つまり人目を気にせず泳げるプールがあればいいんすよね?」
ならいいところがあるっす、と言われ早速千歳にその旨を告げる。それによって千歳の機嫌は一度は元に戻った。しかしリナリアの水着を通販で済ませようと愛生がしたところ、ちゃんと見て触って選ばせなさいとお説教。外に出かけるのは危ないと冷静に返すと再び沈黙の千歳。今度こそ本当に殺されるだろうから死ぬ前にもう一度会いたいと帝に八割本気で最期の連絡を入れてみたところ
「つまりリナリアが自分で見て触って水着を選べればいいんだろう?」
と、言ってトラック一杯に積まれた水着を護堂が運んできたのが今朝のことである。
トラックに積まれた大量の水着を全部は無理なので半分だけ部屋に運び込み、今はリナリアと千歳が一緒に水着を選んでいる最中だ。殆どが子供の女の子向けの水着だが、千歳のことも考えていたのか大人の女性用も十分な量が揃っていたので同じ女子がいた方がリナリアも選びやすいだろうと千歳を召喚。それにより彼女の機嫌も直り、愛生としては良いこと尽くめなのだが、問題は護堂だった。
どうして帝さんは毎度毎度護堂さんに雑用を押し付けるんだろうか……。
本業喧嘩屋の厳つい中年オヤジが、トラック一杯の女性もの水着を運ぶなんて、誰がどう聞いてもおかしなことだと気付くはずだ。きっとあの王様は事の不自然さに気づいてもいないし、ちょっとコンビニ行ってきてくらいの軽いノリで頼んだに違いない。というか、護堂さんも毎回どうして引き受けるんだ。いやまて、そもそもおかしいのは水着の量だ。専門店にだってこんなにないぞ。だからあの人にものを頼むのは嫌なんだ。等々、様々な文句が頭を埋め尽くす中、リナリアの部屋の扉が開いた。中から出てきたのは赤いパレオを合わせた水着姿の千歳。黒のおさげや縁の太めの眼鏡からは想像もできないほど大人っぽい彼女の体が惜しげもなく強調される姿に愛生は一瞬見とれてしまう。そんな愛生の反応を知ってかしらずか、千歳は数歩前にでて腕を腰に当て仁王立ちの姿になって告げる。
「これはどうですか? 愛生」
「……まあ似合っているけどさ。もう少し色気のあるポーズは取れないのか?」
さっきから何着か試着したものの感想を聞かれているが、どれも色気の欠片もないポージングで(それも無表情で)聞いてくるのだ。別に色気を期待していたわけでもないが、何かが間違っているような気が愛生はしていた。
「照れ隠しですよ。最大限の」
「お前さっきサイドチェストとかしてたよな……」
もう何が恥ずかしくてどこら辺が照れなのかわかったもんじゃなかった。
「色気、色気ですか……」
顎に手を添えてしばらく考えた後、千歳はおもむろにぴんと指を伸ばした手で自分の目線を隠して見せた。
「こうすると素人っぽさが出て色気もありませんか?」
「そういう下品な色気を期待していたわけじゃないんだけど」
「色気に上品も下品もありませんよ」
「そうかなぁ」
「少なくとも女性を見る男の視線は全て下品ですよ」
「お前実は男嫌いなのか……?」
「間違えました。女性を見る愛生の視線は全て下品で下劣ですよ」
「お前実は僕のことが嫌いなのか!?」
ご丁寧に侮辱ワードが一つ増えていた。
「今だってどうせ『パレオが邪魔だなぁ』とか考えていたんでしょう」
「そ、そんなことないやい!」
「あらぁ? 声が上ずってますよ。これだから愛生は……。こうして怒られている時だって『千歳が女子中学生だったらよかったのに』とか考えているんでしょう!」
「いや、それはない」
自分でも驚くほど冷静な声で反論する愛生。十分ボケて満足したのか千歳はふんと鼻を鳴らしながら、床に散らばった水着を物色し始める。先程からこうして水着の感想を聞いてはいくつか部屋に持っていき、また感想を聞くの繰り返しだった。いつも即断即決の千歳にしては今日は随分と悩んでいる。さすがにこんなに大量にあると目移りもするのだろうかと愛生は少しだけ微笑ましい気持ちになる。そんな気持ちが顔に出ていたのか、千歳からどうしたんですかと睨まれた。
「ああ、いや。その、リナリアが一向に部屋から顔を出さないんだけど、どうしてるのかなぁと」
千歳が自分の分と一緒にリナリアの分も部屋に運んでいるので選んではいるのだろうが、千歳のように見せに来る気配もなかった。
「リナリアちゃんは、私と違ってきちんと選んでいますから」
「え? その言い方だとまるで千歳はきちんと選んでいないように聞こえるんだけど」
「ぶっちゃけもう着る水着は選んでいます」
「じゃあお前部屋にこもって何してんだよ!」
「主に次のネタを考えるのと、リナリアちゃんの着替えの手伝いですね」
「リナリアの手伝いは二の次なのか!」
愛生の反応が面白いのか千歳はくすくすと笑みを零す。それから冗談ですよと悪戯っぽく笑ってまた部屋に引っ込んでいった。まったくとため息と共に愛生は呟く。それを見ていた正面の護堂が微笑ましいですなぁと言う。
「お二人は本当に仲がよろしくて、見ていて飽きませんなぁ」
「見てる分にはいいんでしょうけどね……」
苦笑いで返す。続けて愛生はすいませんと頭を下げた。
「わざわざ来てもらったのにたいしたこともできなくて……しかも水着を運ぶためだなんて」
「いやいや。いつもの血生臭い仕事に比べれば余程楽しい仕事ですよ」
そう言って護堂は豪快に笑って見せる。
「それに、今回は乾も手伝ってくれましたからな」
「乾さんが?」
「トラックに荷物を詰め込むのは全て彼女が。それにほら、あのあたりに置いてあるダンボール。そこに彼女が用意した愛生さん用の水着が」
僕用の水着? と首を傾げながら愛生はソファから立ち会上がり護堂の言っていたダンボールを手に取る。小包程度の大きさのそれは手にとっても非常に軽く、それこそ水着一着分の重さだった。
乾さんの用意した水着かぁ……。
稀代の暗殺者セレクトの水着。乾とは話したことはあるが直接あったことはないので、正直どんなものが飛び出すか予想もつかない。とりあえず開けてみる他なさそうだと意を決して封を切る。
中に入っていたのはふんどしだった。
「…………」
これはどうしたらいいのだろうかと愛生は途方に暮れる。思いっきりツッコんでやればいいのか。それとももしかしたら乾さんは本気で愛生に似合うと思ったのだろうか。単純に嫌がらせという線もあるかもしれない。
愛生は助けを求めるように護堂に振り返りふんどしを広げながら穿きます? と聞いてみる。護堂は苦笑を返したが、その顔には勘弁してくださいとはっきり書いてあった。
乾さん、一体何キャラなんだろうかと割と真剣に悩む愛生。キャラ次第では今後の付き合い方を考える必要があるかもしれない。既に愛生の人間関係はいっぱいいっぱいだった。
そんなことを考えていると、再び部屋の扉が開く。また違う水着に着替えた千歳と、彼女の脚に隠れるようにして引っ付いたリナリアが出てきた。脚に隠れたまま動かないリナリアだったが、千歳に促されるとゆっくり彼女から離れて愛生の前までやってきた。そしてそのまま何も言わずに黙ってしまう。感情のない瞳はじっと愛生を見つめて放さない。
白でもない黒でもない、くすんだ灰色の髪。精巧な人形のように白く小さな手足。驚く程整った顔立ちの九歳の少女。彼女の着ていた水着は青と紺のチェックのワンピース型水着。子供らしいデザインだが、大人しめの色やふわふわとした大き目のフリル。主張しすぎず、それでいて適度なオシャレを忘れない作り。きっと千歳が一緒に選んでくれたものだろう。リナリアによく似合っている。
恥ずかしいのか、まだ何も言うことのないリナリア。さすがにこの状況で黙っているほど、愛生は甲斐性なしではない。だから素直な感想を口にする。腰をおろして彼女と目を合わせて愛生は言った。
「似合ってるよ、リナリア」
「本当に……?」
そう尋ねるリナリアに愛生は頷きを返す。
「凄い可愛いよ」
嘘なんかじゃない。心の底からそう思っていた。リナリアはその表情こそ変えなかったが、愛生には彼女がほっとして喜んでいることがわかった。
「じゃあ、これにする」
来ていた水着を自分の体ごとギュッとっ抱きしめるようにしてリナリアはそう呟いた。後ろで見ていた千歳にリナリアが駆け寄る。千歳に決まりましたかと聞かれて、リナリアは首を縦に振る。
「そうですか。ならこれで二人とも決まりましたね」
「本当に最初から選んでたんだな」
「どうせ愛生は何を見ても似合ってるとかいいんじゃないか、みたいな当たり障りのないことしかいいませんから。最初から愛生の意見は期待していません」
「そりゃまあ、僕は女の子の水着のことなんか全然わかんないけどさ。で、結局千歳は何着ていくことに決めたんだ?」
千歳は得意げな顔でふふんと声にだして笑う。
「秘密です。当日のお楽しみですよ」
「……一応言っておくけどもな。当日は宝守や僕の友達も来るんだから、その年でスクール水着かよ! 的なボケはやめてくれよ?」
「…………」
途端にすっと無表情になり沈黙を決め込む千歳。
ああこれはもう死ぬしかないなぁ、と愛生は本気で死を覚悟した。
+
当日、愛生は予定よりも一時間も早く起きる羽目になった。
原因はリナリアだ。顔にこそ出さないものの、かなりプールを楽しみにしていたのか前日から彼女はそわそわと落ち着かない様子だった。そして当日、寝ていることができなかったのか、まだ日も登らない内から布団の中でもぞもぞしだし、結局随分と早い時間に愛生も一緒に起こされることになってしまった。
ただ、それでリナリアに対して文句や怒りを感じることはなかった。それだけ楽しみにしてくれていたのかと嬉しくなる。彼女の、普通の子供のような反応が愛生は嬉しくて仕方ないのだ。リナリアが喜んでくれるのが、愛生には何よりも喜ばしい。
部屋から出てリビング。リナリアはよほど落ち着かないのか、ソファに座ってみたり絨毯に直接腰を下ろしたりうろうろしていた。自分の中に生まれた感情をどう処理していいのかわからないのかもしれない。そのうち本当に不安そうな仕種を見せ始めたので、ソファに座っていた愛生が抱き上げて膝の上に乗せるとようやく大人しくなった。
それからは二人とも特に何か話すわけでもなくじっとしていた。時折、何かを確認し合うかのようにお互いの手や頬に触れたりするが、言葉を交わすことはなかった。
ともすれば、寝てしまいそうになる穏やかな時間。それは時間の許す限り、ずっと続いた。
+
人目を気にせず泳げるプールがある。
愛生の住むマンションの暴走メイドこと宝守は当たり前のように言ってのけたが、実際そんな場所があるのかどうか愛生は最後まで疑っていた。このラボラトリにそんな場所があるとは思えなかったのだ。ただでさえ娯楽施設の少ないこの街に貸切にできるようなプールの存在が愛生には信じられなかった。
ただ、詳しい話を聞けば愛生も納得せざるを得ない場所にそれはあった。
人目を気にせず泳げるプール。それは愛生の住むマンションの屋上にあったのだ。
灯台下暗し。いや、灯台上暗しだ。
マンション住民に貸し出すための貸切プール。ラボラトリでは珍しい、むしろ唯一と言っていい貸切専用の娯楽施設だ。
しかし全体的な年齢層の高いこのマンションではなかなか使用されることはなく半ばあるだけの機能しない施設になっていたので、愛生も知らなかったのだ。あるだけとは言っても掃除は必要なため、掃除アルバイトメイドである宝守は知っていたのである。
料金は一日一二万円とお金持ち価格だが、設置されたドリンクサーバーで飲み物は飲み放題。料金さえ払えば料理も持ってきてくれるサービスもある。
この日集まったのは、愛生、リナリア、千歳の三人。そして宝守、亜霧、八九郎といった愛生の友人たち。貸切料金は帝持ちだったが、彼女は特にプールには興味がないらしく姿は現さなかった。
今この場に、愛生の友人の殆どが揃っていた。こうして勢揃いしてもかろうじて両手の指で数えられる人数しかいないという自分の人間関係には泣きたくなる思いのする愛生だった。しかしそれを嘆いている暇はない。今日はリナリアが楽しみにしていた日なのだ。一緒になって楽しまないと損だ。と、自分に言い聞かせる。
約束の時間に亜霧や八九郎と最寄の駅で待ち合わせをし、マンションまで移動。その豪華さに驚く二人を連れて部屋に行き、すでに待機していたリナリア、千歳、宝守と合流。その場で着替えてしまい、意気揚々と屋上の貸切プールに向かった面々が最初に口にしたことは、
「曇っていますね」
「太陽が見えないわ……」
「つーか寒っ。すげぇ冷えるぜ」
「超曇天っす。スーパーグレースカイっす」
今日はあいにくの天気だったのだ。空はどんよりとした雲で覆われ、太陽は見えず。今朝から日差しがないからか夏だというのに肌寒い。お世辞にもレジャー日和とは言い難い悪天候だった。
「雲……」
リナリアも空を見上げて小さな声で呟く。残念がっているのは愛生でなくても察することができた。
「なんというか、いっそのこと雨とか降らない辺り性格の悪い天候ですよね」
「そうだなぁ。雨だったら思い切って中止して、また別の日とかにもできるんだろうけど……」
中止にするほどでもない、というのが一番嫌なところだ。
すると二人の会話を聞いていた宝守が首を横に振る。
「いや、そこについては問題ないっす。ここ、屋根とかつけることもできるっすから」
屋上を丸々一つ使った巨大なこのプールは三方が背の高いガラスの壁。残った一方は階下に続く階段やエレベーター、ドリンクサーバーやその他機材などが置いてあるちょっとした施設となっている。その施設から天井を伸ばして、この一面を覆うことのできる作りになっているらしい。
「雨が降れば屋根を出して、気温が低ければ温水にすることもできるっす。オール自動っす。ボタン一つっす」
だけど、と申し訳なさそうな顔をして宝守は言った。
「天気予報が嘘を吐いたっす。今日は快晴で気温も温かいって。だから温水にもしてなくて、それで……」
そう言って彼女は黙ってしまう。いつもの明るい宝守からすれば珍しいというか、おかしいくらいの反応だ。マンションの関係者として責任を感じているのもそうだろうし、何より彼女も楽しみにしていたのだろう。リナリアと同じように残念がっているのがすぐにわかった。
曇り空に対応したかのようにその場の空気がどんよりと暗くなる。
このままではいけないな……。
せっかくリナリアが楽しみにしていた日だ。なんとかしなくてはと愛生が考えを巡らす。すると愛生よりも先に亜霧が動いた。
彼女はおもむろに八九郎の背中に回ると、彼の背を思いっきり蹴り飛ばした。
「は!?」
八九郎が驚きの声と共に真ん中の一番大きな円状のプールに落下していく。頭から着水し、一度沈んでから浮き上がってきて、
「冷たっ! 寒っ!」
と叫んだ。
「な、なにしやがんだこのアマァ!」
水の中で腕を振り上げて、抗議の叫びをあげる八九郎。その体は小刻みに震えている。
全員が唖然とする中、一人プールに近づいて指先を水に浸したリナリアが驚いて肩をびくりとさせてこちらを振り向いた。
「すごく冷たい。すごく」
無表情に、しかし強く放たれた言葉通りプールはほぼ冷水に近い温度だった。そんな中に突き落とされたのだ。八九郎が震えるのも無理はない。
しかし突き落とした張本人である亜霧はなんてことない顔。
「いいから、あんたの能力ならあっという間にそのプールを温水にできるでしょ? わざわざあっため直すよりも全然早いはずじゃない」
「お前……俺のことを便利なカイロか何かだと思ってないか?」
不満は漏らすが、亜霧の意図がわかった八九郎は仕方ないなとため息を吐きながらもプールの中心に向かった。八九郎の口が小さく何かを呟いたのとほぼ同時、彼の周囲から湯気があがる。それだけじゃない。ボコボコと八九郎の周囲の水が泡を立てる。沸騰しているのだ。それも、凄まじいスピードで。
フェーズ7。熱機関
裏方八九郎の超能力は炎を生み出し、熱を操るもの。さらに体温の上昇によって強化能力まで発動させるラボラトリ最強の超能力だ。
八九郎にかかれば、プールの温度を上げることなど造作もないことなのだ。
「あくまでも温水だからね。熱湯にするんじゃないわよ」
「ハッ! わーってるよ」
めんどくさそうに八九郎はこちらにヒラヒラと手を振った。
それを見届けてから、亜霧はこちらの四人に向き直る。
「さて、ホッカイロがプールを暖めてる間、あたしたちはどうしましょうか」
プールの中から八九郎が亜霧に怒鳴っているが、無視されていた。
「あ、じゃああっし飲み物でも取ってくるっす」
あのサーバーから取ってくるのかと愛生が聞くと、宝守は大げさに首を横に振った。
「いえいえ。せっかくなんで、下の厨房でもっとスペシャルな奴を持ってくるっす。それと適当にお菓子とかも。あっし、従業員だからそこらへん融通が利くっすよ!」
それだけ言って、宝守は両手を広げて「ぎゅいーん!」とセルフで効果音を叫びながら厨房へと向かって行った。まだ宝守のノリがわかっていない千歳や亜霧は少し驚いていたが、愛生はホッと胸を撫で下ろした。
よかった。いつもの宝守ちゃんだ。
見ればリナリアもプールの水を手でぱちゃぱちゃと騒がせている。水が温まるのが待ちきれないのだろう。リナリアが音を立てる度に奥の方で八九郎が気張る声が聞こえる。
とにもかくにも、これで問題はほぼ解決したのだろう。先程までの重い空気はどこかに吹き飛んでしまったようだ。
もしかしたら亜霧さんはそういうところまで考えて八九郎さんを蹴り飛ばしたのかもしれないな、と愛生は思った。場を和ませようとしたのかもしれないと。
どっちにしても突き落とされた方はたまったもんじゃないだろうけど……。
もし同じような能力を持っていたら突き飛ばされたのは自分の方だったかもしれないと思うと、素直に八九郎に同情する。その八九郎は広いプールの真ん中で腕を組んでいる。彼の周りは温度差の影響で景色が揺れて見えて、それがなんとなく神秘的だったので手を合わせて拝んでみたら睨まれた。見ると、リナリアも愛生の真似をして八九郎に向かって手を合わせている。また間違った常識を教えてしまったかもしれない。リナリアは吸収が早くて逆に心配だなぁと思っていると、愛生の後ろで千歳と亜霧が話をしていた。
「そういえば桜庭、さん?」
「はい。なんですか」
「いやあの、さっき着替えたときは名前聞いただけだったじゃない? だからその、えっとなんていうか……愛生くんとはどんな関係なの?」
なんだその浮気相手にあった彼女のようなセリフは。
そう愛生がツッコミを入れるよりも先に千歳が一息入れてから答えた。
「私は愛生の彼女です」
愛生は両手を合わせたままその場で思いっきりずっこけた。
「どうしたんですか愛生。プールサイドは滑るから、気を付けないと駄目ですよ」
「いやそうじゃないよ! 何言ってくれてるんだよ! 亜霧さんフリーズしてるじゃないか!」
まるで一時停止のごとく表情を固まらせる亜霧。しかしすぐに何故か怒ったような口調で倒れた愛生に詰め寄る。
「ちょっと愛生くんどういうこと!? 彼女って何よ、この前言ってたのは嘘だったってこと!?」
「ち、違うから! 彼女じゃない彼女じゃないから! これはこいつなりの冗談だよ」
亜霧が何故怒っているのかもわからないし、自分が必死で言い訳のようなセリフを吐いている意味もわからなかったが、とりあえず勢いでまくしたてた。すると千歳が、
「ほほう。必死で否定するあたりむしろそちらが彼女さんだったりするんですかね」
とか冷ややかな視線で言ってくるのでもうどうしていいかわからない。とりあえず倒れたままの姿勢で固まっていることにした。死んだふりみたいなものだ。
千歳の言葉に亜霧が顔を真っ赤にさせて反論する。
「べ、別に彼女とかじゃないわよ! 未定よ未定! そういうあんたこそ彼女じゃないならなんなのよ!」
「私は愛生の幼なじみです」
「は、はっきり言ったわね!? 何よそれメインルートでも気取ってんの!? 言っときますけどね、古今東西幼なじみっていうのは報われないものなのよ! 大抵勝つのは転校生とかそこら辺なんだからぁ!」
亜霧さんが何を言っているのか僕にはわからない……。
愛生は黙っている。
「ふん。そんなにみっともなく取り乱して、子供ですかあなたは。こちらも言っておきますけど、私はあなたが何者であろうとも動じない自信があります。すでに事前の調べはついていますから」
「し、調べってなによ」
「それは勿論あなたに関することですよ。あなたがほんの先週まで愛生のことを『我王くん』と呼んでいたのに突然『愛生くん』呼びにシフトした際、愛生にどうしてかと尋ねられて上手い言い訳もできずに愚かにもあたふたしていたことだって知っています」
「え!? なんでそこまで正確に調べられるのよ!」
「そんなもの、私が愛生の幼なじみで幼なじみだからに決まっているでしょう」
千歳が何を言っているのか僕にはわからない……。
理解しがたいトンデモ理論のはずだが、亜霧は神妙な顔で「なるほど……」と呟いていた。彼女には理解できる理屈だったのだろうか。できることならわかりやすく説明してほしいくらいだ。
「だけど、そんなに幼なじみを推すくらいなら、ツインテつるぺたツンデレの三大要素揃えてきなさいよ! 何よそのポニテ、あたしと被ってんのよ! 背は高いしおっぱい大きいし腰はくびれているしスタイルいいわね!」
「そう全力で褒められると照れるのですけど」
「褒めてないし悔しくもないんだからねっ!」
なんだかおかしな方向に話がシフトしている……。
千歳の水着は愛生の意見を無視して選んだ黒のビキニに長めのパレオ。おさげではなく少し上向きにポニーテールを結び、彼女の大人びた魅力を全面に押し出すようなコーディネートになっている。
対する亜霧はいつもの尻尾のような髪型に、白のワンピースタイプの水着。別に彼女もスタイルが悪いわけではないのだが、その小柄な体と小さな胸のせいか随分と幼く見えてしまう。
大人っぽい女子と子供っぽい女子。
腕を組み、胸を張る千歳と張る胸のない亜霧。お互い一回り歳が離れているようにも見えるせいか、亜霧の方が千歳にいじめられているようだった。事実半分はその通りなのか余裕をも見せる千歳と違い亜霧は殆ど涙目で頭の尻尾も心なしか震えている。
がるがると必死で千歳を威嚇する様は大型犬に噛み付く小型犬のようだった。
本当にどうしてか愛生にはわからないけれど、二人の視線の先には火花が散っているようだった。
どうしたものかと思いながら、どうすることもなく、ずっこけた姿勢のままは辛かったので膝を抱えた体育座りで二人の様子を見届ける。気づけばリナリアも愛生と同じように膝を抱えて横に座っていた。
「この眼鏡!」
「つるぺた」
「背ぇ高のっぽ!」
「貧乳」
「冷血女!」
「ナイチチ」
「胸以外のことも罵りなさいよ!」
尻尾を揺らして怒りをあらわにする亜霧。
楽しそうだなぁ、と愛生は思う。亜霧が、ではなく千歳がだ。
愛生は友人作りが極端に下手だ。千歳もまた昔から愛生ほどではないけれど、友達を作るのが苦手だった。元々友達を必要ともしていないのも確かだが、それ以前にどうにも彼女は素直ではないのだ。捻くれていると言ってもいい。気になった子はとりあえず罵るような態度のせいで、仲の良い友人というものが千歳もあまりいないのだ。
ただし千歳と愛生の違う部分は、そういった不器用な部分を取り繕えるかどうかだ。愛生は無理だ。だけど千歳にはできる。踏み込まず踏み込ませず、距離を取って人と付き合うことが愛生にはできなくて、千歳にはできた。だから千歳の体面的な評価は愛生のものよりも随分といい。学校のクラスの生徒たちも彼女のことは物静かで、大人しい女の子くらいにしか思っていないはずだ。
そういう事情を知る愛生の目には、今の千歳は凄く楽しそうに見えるのだ。素の表情で自分以外の誰かと話す千歳はもう長いこと見ていない。きっと千歳も亜霧のことを気に入っているはずだ。その気持ちが亜霧に伝わっているかどうかは非常に怪しいが。
まあ、自分や八九郎と当たり前のように付き合っていられる子なのだから千歳ともうまくやってくれるだろうと勝手に納得。
宝守が両手の盆に器用に人数分のジュースやお菓子を持ってきたところで、二人の謎の争いは一旦ストップする。
その後、わずか数分で温水と呼べるレベルまで温まったプールでみんなは遊び始めた。泳ぐ、という経験事態が初めてだったリナリアは最初は躊躇していたが、愛生が浮き輪を付けさせて浮かべてやると、あとはもう一人で勝手に楽しんでいた。こういう順応性が高いのはやはり子供だからなのだろうか。すぐに浮き輪もなしに泳げるようになるかもしれない。
宝守はリナリアの浮き輪をビート版のようにして「未来戦艦ガルガンジャアー!」とか叫んでいた。艦長のつもりなのか、リナリアが終始キリッとした顔をしているのをみると、また何かのアニメなのかもしれない。その内八九郎を敵役に見立てて遊び始めた。八九郎の劣性形質の赤い髪を見れば高位能力者だということはすぐにわかるはずだが、そんなことを気にもしない宝守の勢いに八九郎もたじたじだった。
その横で、千歳と亜霧は水泳勝負と銘打って様々な競技で競い合っていた。クロールだったり、平泳ぎだったりだ。しかし見るからに体育会系の亜霧とそもそも運動というものが嫌いな千歳では殆ど勝負になっていなかった。バタフライ勝負では見事なフォームを披露してみせた亜霧と連続顔面水流落としとでも言った方が正確であろう千歳の泳ぎが見れたのだが、あれはもう遅いとか早いとかの問題ではなかった。
「ふふふふ、圧倒的じゃない!」
勝ち誇る亜霧。その横で何度も小さく水面に拳を叩きつけて悔しさをあらわにする千歳。
愛生と二人の時は、絶対あんな表情はしないので、かなり新鮮に映る。ただ、あまり見ているとこっちに八つ当たりをしてきそうだったので視線をリナリアたちの方へ向けた。
「ん?」
宝守は相変わらずわけのわからない単語を叫んでいる。そんな宝守に連れられてリナリアはまだ終始キリッとした顔だ。しかし、八九郎の姿が見えない。てっきり本当に撃沈されてしまったのかと思っていると、ふと横から彼の声が聞こえた。
「あーくっそ水飲んだ。なんなんだあの女!」
水に濡れていつものツンツンが随分と大人しくなった赤髪をがしがしと片手で掻きながら、八九郎はプールから愛生のいる壁際までやって来た。
「物怖じしないにもほどがあるだろ! 普通に命の危険を感じたわ!」
「ラボラトリ最強が命の危機か……」
さすがだなぁ、と他人事のように愛生は呟く。それを受けて八九郎はため息をついた。
「まあお前の知り合いって時点で変な奴だとは思ってたけどよ」
「酷いなぁ。八九郎さんだって僕の知り合いの一人じゃん」
「だからだよ」
というか、と前置きをして八九郎は続ける。
「お前はそこで何してんだよ。アホ女と幼女のお守り俺一人に任せてんじゃねぇよ。お前が敵役やってこい。そして撃沈されてこい」
「いや、ほら僕ってあんま泳ぎ得意じゃないんだよ。正直千歳よりも泳げないよ。沈むから」
右手で左手を抱えるようにしながら言う。八九郎は気だるげな表情で頭を掻く。
「でも、そいつはもうただの鉄じゃねぇとかいってたじゃねぇか。だったら水に浮くかもしれないぜ」
「どうだろう。風呂場で試してみたことがあるけど、まあ鉄よりはマシって感じだったよ。それに、それ以前にあんまり人前で脱ぐのは抵抗があるんだよね……ほら義手の結合部って意外とグロイから」
愛生は男物のシンプルな青の海パンを穿き、上には黄色のパーカーを着ていた。だったら海パンでなくともいいのではないかと言われるような恰好だ。
「気持ちはわからなくもないが……お前その顔で人前で脱ぐの恥ずかしいとかやめろ。恰好も恰好で女にしか見えない」
「やめろって言われてもなぁ」
そう言って苦笑する。自分が女顔だということはわかっているが、他人から言われるとやっぱりそう見えるのかと若干落ち込む。
落ち込みついでに膝でも抱えてここで見ていようと愛生は思った。溺れるのは嫌だし、やめろと言われても脱ぐのはやっぱり抵抗があった。僕のことはいいから八九郎さんはみんなと遊んできていいよ、とそう言おうとした瞬間だった。
「よいしょっと」
そんな掛け声と共に、愛生は八九郎に片手で持ち上げられ肩に担がれた。
「わわわっ。ちょっと八九郎さん!」
「あー、るっせぇ黙ってろ。引っ込み思案を無理矢理連れ出してやるよ」
軽々と愛生を担いだまま八九郎はプールの縁へと向かう。担がれた腕や肩から通じる熱はそれほど高くはないので、純粋な筋肉の力だけで持ち上げているのだろう。左手の義手が鉄ではない軽い物質へと変わったことで愛生の体重も落ちているので男なら持ち上げられないこともないのだ。
それにしたって八九郎さん意外と素の力あるんだなぁ、とか関係のない方向に思考が飛んでいき素になるのを無理矢理連れ戻し、
「ちょ、放してくださいよ! なんなんですかいきなり!」
「……リナリアは、あのガキはよぉ。お前と遊びたいんじゃねぇのか?」
「え……?」
「それに、ここにいる奴らを集めたのはお前だろう。そのお前が一人でいるなんておかしな話だぜ」
そう言う八九郎の顔はにやにやとした笑みに包まれていた。声も心なしか弾んでいる。
「……で、本音はなんなんですか?」
観念して愛生が苦笑いと共に尋ねると、八九郎は思いっきり笑いながら答えた。
「お前も混ざれよ! 超楽しいぜっ!!」
瞬間、愛生の体は宙に投げ出される。八九郎が担いでいた愛生をプールの上空高くに投げ飛ばしたのだ。
空が近づく。下からは歓声が聞こえた。すでに壁の高さは優に超え、少し視線を傾ければラボラトリが一望できるほどだ。
いやこれぼくじゃなかったら怪我してる高さだよ八九郎さん……。
呆れながらも、しかし怒る気にはなれない。
曇天の雲間から一瞬だけ眩しい日差しが顔を出す。なんだか楽しくなってきてしまった愛生は大きな声で笑いながら水面へと落ちていき――――衝撃で普通に気を失った。
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愛生が本気で気を失うというアクシデントがあったが、千歳の献身的な介護(腹部への回し蹴り)によって意識を覚醒してからは愛生も一緒になって楽しんだ。
自分が気絶したことで心配してくれていたのがリナリアと亜霧だけだったことに大いに首をかしげながらもビーチバレーや水中鬼ごっこなど、子供みたいな遊びを真面目に楽しんだ。それが終われば、お昼のバーベキューだ。食材はみんなで持ち寄り、マンションからコンロと鉄板を借りて行った。何故か八九郎がレバーを大量に持ち込み(好物らしい)女性人から避難が殺到していた。
最後に行われたスイカ割り大会は、宝守が箱で持ってきたスイカを誰が一番多く割れるかという勝負制にしてしまったせいで、最後には全員がムキになって全力を出すわ能力発動させるわでスイカが爆散したり蒸発したりで……かなり散々なスイカ割りだっただろう。それでも不格好に砕けた大量のスイカをみんなで頬張った時は素直に楽しいなと思えた。それはとても久しぶりの経験だった。
愛生たちは日が沈むまで遊び続けた。いつのまにか空が曇っていたことも忘れ、ラボラトリの高く、たった数人の少年少女の笑い声が響いていた。
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「ほら、リナリア。髪、乾かすぞ」
「ん…………」
もうすっかり夜も暮れた頃。みんながそれぞれ自宅へと帰った後、愛生は既に寝ぼけ眼だったリナリアを風呂に入れた。リナリアと一緒に入ると千歳が怒るのだけれど、今日だけはいいだろうと愛生も一緒に入ってしまった。風呂から上がればパジャマに着替えさせ、今は彼女の長い灰色の髪をドライヤーで乾かしているところだ。
リナリアはすでにお疲れの様子。こくりこくりと船を漕いでいる。無表情の瞳は殆ど閉じているような状態で、横になった瞬間にはもう寝てしまいそうだった。
ちょっと待っててな。
そう思いながら、愛生はリナリアの長い髪を早く、しかし丁寧に乾かしていく。きちんと乾かさないとベッドがびちょびちょになってしまうし、なにより風邪もひく。リナリアの体が風邪をひけるのかはわからないけれど、ひかないからといって疎かにはできない。
治るからといって、傷つけていいわけではないのと同じだ。
「なぁ、リナリア」
小さな声でリナリアに語りかける。ドライヤーの音で聞こえなかったかもしれないと思ったが、リナリアはその小さな頭をこちらに振り向かせた。それを返事と受け取り、愛生は続けて問いを投げた。
「今日は楽しかったか」
リナリアはすぐに頷いた。そこに迷いや悩む暇なんてなかった。まるで楽しかったことをなんとか伝えようとするように、彼女は何度も頷く。
「そっか、ならよかったよ」
リナリアが楽しかったのなら、自分も楽しかったし、なにより嬉しい。
「また、みんなで遊ぼうな」
プールだけじゃない。世の中には楽しいことがいっぱいあるのだ。遊園地、動物園、水族館。リナリアを連れて行ってあげたいところは沢山ある。
「また行こうな」
確かめるように、愛生は繰り返した。リナリアは返事をしなかった。ただその何も映らない瞳で、じっと愛生を見つめていた。
この時の愛生は知らなかった。気づかなかった。
今、この瞬間がどれほどの奇跡を積み重ねたものなのかを。
昼と夜の間。太陽が沈んでしまうまでの、ほんの僅かの時でしかないことを。
愛生は知ることができなかった。
闇は、すぐそばまで迫ってきているというのに。