世界の温度
愛生が目を覚ますと、そこは見知らぬ天井の下だった。異様に白いその天井はまだ自分があの部屋にいるのかとも錯覚させたが、すぐ左を向けば窓があり、そこから覗く隣の建物の茶色い壁が愛生に現実を教えてくれた。
あそこではない。自分はちゃんと、出てこれた。
どうやら自分はベッドに寝ているようだった。体を起こしてみる。どうしてか上手く動かすことが難しかったが、怪我のせいではないようだ。腕や肩、腹に開いた傷は完治はしていなかったが、しかし全身に刻まれた痣や打撲はかなり治ってきている。どういうことなのだろうと首を傾げると同時、愛生は別の疑問にも思い至る。
自分はちゃんと出てくることが出来た。だけど、あの子はどうなのだろう。
突然、大きな不安が愛生を襲う。まさか、と思う気持ちのまま今自分の部屋の周囲を見渡すと、彼女がいた。灰色の髪が布団を被った愛生の足を枕にして寝ていた。その細い髪に触れてみて確信する。間違いない。リナリアだ。
よかった。ちゃんとあの子も連れてこれた。一緒に出てこれた。
そのことに安堵していると、リナリアの小さな頭がもぞもぞと動いた。顔をあげる。灰色の瞳が愛生を見ると、リナリアは愛生の足に頬を擦りつけたままふっとその表情を少しだけ柔らかくした。
「ん。愛生だ……」
その顔に、愛生はドキリとする。
あれ? この子はこんな風に笑う子だったっけ?
だが、その笑顔は愛生の錯覚だったのかもしれない。体を起こしたリナリアは眠そうに目を擦りながらも、すでに無表情の仮面を被っていた。いつもの顔だ。
「やっと起きた」
「やっと?」
「ずっと、待ってた」
状況が飲み込めない。とにかくここはどこなのかと問うと、ラボラトリ内の病院だとリナリアは言った。
「帝の知り合いがいるっていう病院だよ」
「あー、そうか。あの人のところか……」
思い当たる人物はいた。窓の外の景色が見えないのでなんとも言えないが、中を歩けばすぐにわかるだろう。そういえば患者としてお世話になるのはラボラトリに来てからは初めてだと、愛生は嘆息。
「じゃあ、リナリア。僕はその、どれくらい寝てた?」
まさか一時間二時間というわけはない。早くても半日は眠っていたはずだ。リナリアが無表情のままに、だけど少しだけ怒ったような口調で答えた。
「三週間」
「三週間!?」
僕は三週間も寝た切りだったのか!?
確かにそれなら軽い傷が殆ど治っているのも頷ける。自分の頑丈さならば、体に開いた穴も傷自体は塞がっているだろう。
三週間。その間、彼女が何をしていたのかはなんとなく察しがついた。
「待ってて、くれたのか?」
「うん。待ってた」
「三週間も?」
「うん。三週間も」
待っててくれた。彼女はこうして、自分が起きるのを待っててくれたのだ。それはとても、とても嬉しいことだった。
「ごめん……いや、違うか。ありがとう、リナリア」
「うん。どういたしまして」
言って、彼女は満足そうに頷いた。
しかし、三週間か……。
どれだけ自分は疲労していたのだろう。確かに体を酷使しすぎたようにも思えるが、だが途中から愛生の記憶は酷く曖昧なものなので、あまり自覚はなかった。しかしなんにせよ、三週間も寝ていたということは、それだけのダメージを負っていたという証拠だ。
よく死ななかったな、僕。
自分で少しだけ驚いて、呆れた。しぶといにもほどがある。
そりゃあ、不死身の化け物とも呼ばれるだろうな、と。
「そういえば、六道はどうしたんだ?」
自分を化け物と呼んだあの男はどうしているのだろう。
リナリアはスッと天井を指さした。
「昨日まで、上の病室で寝てた」
「同じ病院にいたのか、あいつ……」
「一回抜け出して、余計に怪我して帰ってきて、昨日また抜け出してどっかいっちゃった」
「なんだそりゃ」
落ち着きがないのか、なんなのか。だがどちらにせよこうしてリナリアがここにいるということは、もう奴にはリナリアを殺す理由がなくなったということなのだろう。それならそれでいい。
愛生は別に、六道のことが嫌いではないのだ。
「六道から、愛生に伝言」
「へ? あいつが、僕に?」
「『調子に乗るなよクソ野郎』だって」
「あの野郎……」
仮にも子供になんて伝言を残しているのだ。わざわざリナリアに言わせるあたり、殆ど嫌がらせでしかない。嫌いではないけれど、面倒な男だと愛生が再び嘆息していると、リナリアが自分の服のポケットから携帯を取り出した。それは見覚えのある機種。というか、そのまま愛生のものだった。聞けば愛生が寝ている間の連絡用として千歳に使い方を教わったのだという。愛生が起きたら連絡してくれと頼まれてもいるらしい。
「じゃあ、今から千歳に連絡するのか」
「うん。約束、だから」
「…………その連絡、僕がしてもいいか?」
そっちの方が面白そうだと言うと、リナリアは少し考えてから無言で愛生に携帯を渡した。なんだかんだ、この手の悪戯は嫌いじゃないのだ。アドレス帳から千歳の電話番号に。何回かのコールのあと、千歳が電話に出た。
「もしもし。リナリアちゃんですか? 何かあったんですか?」
愛生は何も答えない。しばらく黙っていると、千歳は不安げに何度か言葉を発していた。どうかしたのかと言った瞬間、愛生は答えた。
「僕だよ。今生き返った」
平静を装ったつもりだが、笑いをかみ殺すような声になってしまった。千歳は少しの間携帯の向こう側で沈黙としたあと、低い声で一言。
「死ね」
通話が切られた。興味深そうにこちらを見つめるリナリアに愛生は怒られてしまったことを伝える。
「そっか」
と、リナリアはどこか楽しそうに答えた。これはあとで説教をくらうかもしれないな、と思って愛生は困ったように笑った。だけど同時に、ちゃんと帰ってきたんだなとも思った。
帰って、これたのだなと。
+
それから愛生はリナリアと話をした。大体が愛生が寝ている三週間の間のこと。
愛生が目覚まさないから、みんなが心配していたこと。千歳が少し怖い顔をしていたこと。亜霧が何度も泣いていたこと。リナリアは愛生が起きるまでずっと病室で寝泊まりしていたこと。その間、病院側や八九郎がずっとリナリアの面倒を見てくれていたこと。愛生の部屋には今も宝守がいること。ご主人様が帰ってくるまで待っているのだということ。
色んな人が、愛生の心配をしてくれたこと。
誰もが自分のためにと何かをしてくれたことを愛生は聞いた。それでいてもたってもいられなくなって、病室を抜け出すことにした。千歳には部屋で待っていてくれと連絡した。会うのはあの部屋にしようと。
暗くなってから、リナリアをおんぶして病室の窓から飛び出した。寝たきりだったせいで体は動きにくく、傷も完全に治っていたわけではなかったが、家に帰るくらいは平気だった。自分の頑丈さは、自分が一番よく知っている。
夏の夜。生ぬるい風が愛生の頬を撫でる。日も出ていないのに汗をかくのはおかしな感覚だな、とふと思いながら愛生は家までの道のりをゆっくり歩いていた。元気なメイドさんが待ってくれているあの家まではあと少しかかるだろう。
背中におぶったリナリアは愛生の肩に顎を乗せながら、携帯を操作していた。なんでもみんなにメールを回しているらしい。愛生が起きたから、お祝いをしようという流れになっているみたいだった。まだ完治したわけでも退院できたわけでもないので、フライングのような気もしたが、リナリアが少しだけ楽しそうにしていたから、そうすることにした。
しかし、もうメールを覚えたのか。
電話を掛けるという行為を教えてあげたのはついこの間だ。その時は携帯の存在すら知らなかったのに、子供の適応力は侮れない。器用にメールを打つリナリアを見て愛生は思いたつ。
「そうだ、今度携帯を買おうか」
「新しく、するの?」
「僕のもそうだし、リナリアのも。そうすれば、いつでもメールできるだろう?」
元々、愛生の携帯自体変え時を見失った凄まじく古い機種だ。亜霧にはアンティークとさえ呼ばれている。それでも愛生は不自由していないのだが、この際丁度いい。自分のものと、リナリアのもの。二つ揃えてしまおう。
「そうだな。それがいい」
愛生がそう呟くと、リナリアも頷いた。彼女の髪が愛生の頬に擦れた。それはとてもくすぐったい感触だったが、しかし嫌な感触ではなかった。むしろ、もっと触れていたいとさえ思う。
「なあ、リナリア」
静かに、だけど確かに言葉を作った。
「お前、僕のこと、好きか?」
我ながら、おかしな質問だと思った。リナリアは少し首を傾げてから、はっきりとした声で答えた。
「――――大っ嫌い」
ああ、やっぱりそうなのかと、愛生は密かに落胆する。当たり前だとは思う。自分が彼女にしたことを考えれば、当然のこと。それでも、わかってはいても、心は少しだけ傷ついた。
「今すぐ死んじゃえばいいのにって思ってる」
「そ、そうなのか……」
「あそこの曲がり角でトラックにはねられてぐちゃぐちゃになっちゃえばいいのにって思ってる」
「…………それ以上はやめてくれ。普通に泣きそうだ」
そこまで嫌いかと、困ったような笑みを浮かべてため息を吐く愛生。そんな愛生にリナリアは一層身を寄せた。愛生の首に頬を強く擦りつけ、耳元で囁いた。
「でも、大好きだよ。大嫌いだけど、それと同じくらい大好き。リナリアは、愛生のことが好きなの」
好きだけど嫌いで、嫌いだけど好き。
それはまさしく、愛憎という奴だろう。
矛盾だ。それも酷く、醜い矛盾。
だが愛することと憎むこと。一体何が違うのかとも、愛生は思うのだ。それはどちらも、その身を焦がす激しい感情であることに変わりはないではないか。
「だから――――愛生のことは、好きだから。愛生が望む分くらいは、リナリアも生きていようと思うの」
愛生の足が止まった。驚いたのだ。今、彼女の口から出たのは生きたいという意志ではなかったか。不器用に、不格好に、彼女は生きたいと言ってくれたのではないのか。
だが、問い返すことはしなかった。そんな資格は我王愛生にはない。自分は彼女を殺さなかった男だ。彼女に、生きて苦しめと迫った男だ。死にたがった少女の命を、無理やりにつないだ人間なのだ。
「そうか。そうか。そう、なのか……」
それでも、泣くことくらいは許されるだろうか。
涙が頬を伝う。流れ出るそれは感情の結晶だ。頬を流れ、地面に落ちて消えていく。
愛生が泣いていることに気づいたリナリアが、その手を愛生の頬にあてた。まるで涙を受け止めるかのように、彼女の小さな手が頬に添えられる。
よかった。本当によかったと、心から思った。
世界はまだ、こんなにも温かい。
きっとこの世界は、これからもリナリアに傷つけと迫るだろう。この世界は理不尽だ。この世界は不条理だ。どうにもならないことばかりで、諦めなくちゃいけないことばかりだ。
それでも世界は温かい。
この背に伝わる温もりこそが、世界の温度そのものだ。
これからも我王愛生は生きていく。死にたがった少女を生かした罪を背負い。彼女が傷つくことを恐れながら、不様に生きていくのだろう。地を這うその姿を笑う者もいるだろう。汚濁にまみれながら、潔癖を求める姿を滑稽だと笑うのだろう。
だがそれでこそ我王愛生だ。
そうでなければ、僕じゃない。
みっともなく、情けなく、足掻き続けるその姿を。格好悪い、その姿を。彼女がヒーローだと呼んでくれるのなら。
怖がりながら、震えながら、泣きながら、いつだって弱さと一緒に拳を握ろう。
この温度を、失わないために。
首を後ろに回す。リナリアと見つめ合う。少年と少女が、お互いの視線を重ね合う。
「リナリア、お前今笑ってなかったか?」
涙を流す自分が情けなくて、恥ずかしさを隠すように思わず口をついて出た冗談。だがリナリアはそれを真に受けたようで、自分の頬に手をやった。そうして「そうかもしれないね」と言った。
「そうだったらいいね」
と、そう言って笑ったのだ。
今度は錯覚ではない。本物の、彼女の笑顔。
愛生は神を信じないが、この時ばかりは本当に神様はいるのかもしれないと思った。彼女のこんな笑顔はきっと、神様でなければ作れやしない。
それは、きっと奇跡と呼ばれるものだ。




